月のよるにお願い


「神子さま、今宵は仲秋の名月だそうですよ。息抜きにご覧になられては如何ですか?」
 紫姫に言われて、花梨が思い浮かべたのは、頼忠だった。
「…紫姫、ちょっと武士団に行って良いかな」
「ええ。供の者をつけますのでお待ちを…あ、神子さま!」
 紫姫の言葉など聞かぬままに、花梨は走って屋敷を出た。
 走っても、走っても着かないのではないかと思うぐらいに走って、ようやく武士団の詰め所に着いた頃には、背中が汗で湿っていた。
 取り次ぎが来たときも、まだ、息は乱れてしまっている。
「…あ、あの…、源頼忠さんを…お願い出来ますか?」
「頼忠殿ですね。畏まりました、神子殿」
 静かな武士団のもののふは一礼をすると、頼忠を呼びにいってくれた。
 花梨は、走ったからドキドキするのか、それとも頼忠が来るからドキドキするのかが、解らなかった。
 呼吸を整えることもままならないままで頼忠を待っていると、静かな足音が聞こえてきた。
「神子殿、如何されましたか?」
「あ、あの…」
 頼忠の整った顔を見ると、余計に呼吸が荒くなり、旨く言葉が出て来なくなる。
「頼忠さん、あ、あの…、今日は仲秋の名月ですよね!」
「…そうですが…。院の御前でも、観月の舞が奉納されます」
 そこに頼忠も行くのだろうか。花梨の胸は泣きたくなるほどに切なく痛んだ。
 胸がきゅんとするのは、このようなことを言うのだろうか。
「…頼忠さんも…、行かれるのですか?」
「はい。院をお守りするのは、私の職務ですから」
 予想通りの答えが返ってきて、花梨は泣きそうになる。
 頼忠にとって、何よりも忠義が大切なのだ。それを破れだなんて言えるはずもない。
「…そう…ですよね」
 暗い顔を隠しきられないほどに落胆してしまい、花梨は華奢な肩をすっかり落としてしまった。
「…失礼しました」
「神子殿?」
 頼忠に泣きそうな顔を見られたくなくて、花梨はただ静かに俯いてしまった。
「ごめんなさい、お手間を取らせてしまって…。今日はお忙しいのに…。ごめんなさい」
 花梨は頼忠に深々と頭を下げた後、満面の作り笑顔を浮かべる。心がこんなにも切ないのに、どうして笑うことが出来るのだろうか。
 花梨はわざと明るく笑い、頼忠から離れた。
「ごめんなさい、わざわざ御呼び立てをしてしまって…。帰ります」
「神子殿、御用がおありなのではないですか?」
 頼忠の視線は、怪訝さと心配が複雑にからみあっている。大人の男の落ち着いた視線が、今は苦しい。
 このまま視線を投げられていれば、耐えられなくなってしまう。
「大丈夫です! ごめんなさい、本当に!」
花梨はもう一度頭を下げると、駆け出す。
「神子殿!」
 一生懸命走っているはずなのに、頼忠の腕に簡単に捕まってしまった。
「…頼忠さんっ!」
「あんなに走ってお越しになったのに、何もないわけではないでしょう? 私に出来ることがあれば、何なりと」
「いいんだ、本当に…」
 院に忠誠を誓っている頼忠に、ただですら我が儘を言って八葉の勤めをしてもらっているというのに、これ以上は我が儘なんて言えやしない。
「…本当に何もないよ。ごめんなさい、離してもらって良いですか?」
 この腕にがっしりと抱きしめられたら、良いのに。こんなにもストレートに恋情を表しているのに、朴念仁な頼忠は解ってくれない。一方通行の恋だから、だから、我が儘なんて言えやしない。
「神子殿!?」
 様々な感情がどろどろと渦巻いてしまい、花梨はすっかり沈んでしまった。
「…お願いします、離して下さい」
「…神子殿…」
 頼忠の逞しい腕が離れ、花梨はまた頭を下げた。
「有り難う、頼忠さん」
 花梨はまた頭を下げると、今度は走らずにとぼとぼと歩く。
「神子殿! お送りします」
「ひとりで帰れるから大丈夫だよ」
 花梨は背中で頼忠の申し出を断ると、とぼとぼと紫の姫の邸宅へと戻っていった。
 あんなに楽しかった行きだったのに、帰りは涙が零れても止められないほどに切ない。
 視界が滲んで前が見えなかった。
 こんなに沈んでいれば、怨霊に襲われてしまっても解らないだろう。
 何とか邸宅にたどり着くと、花梨は部屋に真っ直ぐ向かう。
「おかえりなさいませ、神子さま」
「…ただいま、紫姫」
 沈んだ挨拶しか出来ず、花梨はそのまま部屋に入ってた。
「神子さま!?」
 心配してくれる紫姫にも何も返すことが出来ずに、そのまま部屋の隅に転がった。
 月なんか見たくない。
 頼忠と永遠に見られないかもしれない仲秋の名月を見れば、きっとまた泣いてしまうから。
 頼忠との貴重な時間を過ごせない切なさに、さめざめと泣いて胸が痛むだろうから。
 花梨は部屋の片隅でめそめそと泣き、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていた。

「まあ頼忠殿! いかがされましたか!」
 いつも落ち着いた頼忠が、今日に限っては、焦りを感じる。怜悧な姫は、直ぐに花梨と頼忠に何かあったのだと悟った。
「神子殿は…」
「すっかり塞がれてしまって…。閉じこもりになって、出て来られないのです…。今日は折角の仲秋の名月ですのに…」
 紫姫は溜め息をつくと、不意に頼忠の手元を見た。何処かで買ったのか菓子の包みが持っている。
「…それは、神子さまにですか?」
「…はい。今日は観月なので、団子が売られていましたから…」
「きっとお喜びになりますわ。ご案内致します」
 頼忠が声をかければ、きっと花梨の不機嫌も直るだろう。紫姫はにっこりと微笑むと、頼忠を通した。
「かたじけなく存じます」
 ふたりで静々と歩きながら、紫姫は探りを入れる。頼忠は寡黙な男だが、何かを話してはくれるだろう。
「頼忠殿、今宵はもうお仕事はないのですか?」
「いいえ。この後、弦月祭があります故、院の警護の為に戻らなければなりませぬ」
 感情が余り感じられない堅い声に、紫姫はすっかり溜め息をついた。
「…そうですか…」
 花梨がふさぎ込んでいる訳はまさにこれだ。
 紫姫はちくりと核心を突く言葉の針を用意する。
「頼忠殿、今宵は、女人なら誰もが、大切な殿方と月を愛でたいと思うのではないでしょうか?」
「…紫姫…」
「まあ、私のお話はこれまでです。神子さまはこの先にいらっしゃいます。ご機嫌になられるかどうかは、頼忠さん次第ですわ」
 ニッコリと笑うと、困惑ぎみの頼忠を残して、紫姫は立ち去る。
「…今宵の月は二度とない月ですわ。頼忠殿、観月が終わる頃に、裏門にいらして下さい。家の者を待たせておきます」
 後は頼忠次第だ。
 紫姫は静か場を辞した。
 優しい気配がして、花梨は顔を上げた。
「神子殿、頼忠です。具合がお悪いとお聞きして、お見舞いに参りました」
 木戸ごしに聞く頼忠の声はいつもよりも甘く響く。胸の奥が切なくなり、花梨は目を閉じた。
「神子殿、月見団子をお持ちしましたので、召し上がって下さい。それと…」
 急に声が上擦り、咳ばらいが聞こえた。
「院の観月が終わる時間になりましたら、庭でお待ち下さい」
 一瞬、何を言っているのかと思った。
 急にドキドキが激しくなり、花梨はどうして良いかが解らなくなる。
「もう、行かなければなりません。失礼します」
 足音が遠ざかるのを聞き、花梨は慌てて戸を開いた。
 まだ頼忠の背中は見える。
「頼忠さん!」
 声をかけると、流れるような仕種で振り返ってくれた。
「あ、あの! 待ってますから! 絶対に待っていますから!」
「御意」
 微笑んだ頼忠の表情は、どんなお菓子にも負けないぐらいに甘かった。

 花梨はただひたすら頼忠を待つために、庭に面した縁側に腰をかけて待っていた。
 どれぐらい待っただろうか。
 うとうとしていると、頼忠がようやく姿を現した。
「…お待たせ致しました、神子殿」
「頼忠さん…!」
 何よりも先に頼忠に抱き着くと、花梨はぎゅっと抱きしめた。
「み、神子殿…っ!」
「有り難う…」
「はい」
 ただ花梨が抱き着いたまま、ふたりは暫くじっとしていた。
 二人揃って、傾き始めた月を愛でる。
 何もいらない。
 ただ愛おしいひとと見る月が何よりもかけがえのないことを識った。
 月はふたりを厳かにも優しく照らしている。
 幸福はこんなに近くにある。




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