追いつめられて


 まるで悩みなど皆無な蒼い空は、望美を憂鬱にさせる。湘南の海とはまた趣の違う熊野の海は、底が見えてしまうぐらいに綺麗だ。
「綺麗だね、まるで吸い込まれてしまうぐらいに」
 望美は頭がくらくらするのを感じながら、望美は海を覗き込んだ。
「浅瀬とは言え、余り躰を乗り出すなよ? 落ちたらエライ目に遭うからな」
 将臣は望美を見守るように、傍に付いていてくれる。きっと助けてくれるという安堵感が、望美を小さな子供に引き戻してくれる。
「凄い! お魚が見えるよ! やっぱり公害とか関係ないもんねえ」
「そうだな。潮岬なら俺も潜ったことあるけど、ここはまだなかなか綺麗だったぜ」
「え!? いつ行ったの!!」
 将臣が潮岬でダイビングをしたなんて初耳だ。望美は驚いて、思わず叫んでしまった。
「夏休みだ。土産に梅干しとクジラのキーホルダーをやっただろ? お前、ロッカーキーに付けていたじゃねぇか」
 そういえばそんなこともあった。可愛いキーホルダーなので嬉しかったのを覚えてはいるが、まさか和歌山みやげだとは思わなかった。
 隣に住んでいるのに、幼なじみなのに、小さな頃から一緒にいるのはあたりまえの環境で育ったと言うのに。
 本当は誰よりも将臣のことを識らなかったと思うと、愕然とする。灯台下暗しとはこのことなのだろうと思う。
 自分が余りにも情けない幼なじみで、望美は泣きたくなった。
 何だか寂しくてしょうがない。
「ショックだな…。私、将臣くんのこと全く解っていなかったんだって思うと…」
 不意に暗い気分で落ち込んでしまった望美の頭に、ぱふりと将臣の大きな手が乗り掛かる。
 温かな手の平に、心がほわほわと癒される。
「だって…、一番近くにいるくせに、将臣くんがどこかに行っても解らないなんて、サイテーだよ…。私って…」
 望美が余計に落ち込むと、将臣は髪をくしゃくしゃと掻き回す。
「んなことねぇさ。お前はどんな女よりも俺のことを解っている」
 将臣のこの上なく優しく響くテノールに、望美は縋るように顔を上げた。
「ホントに?」
「マジで。俺の好みを細かく解ったり、俺のリズムとかはお前が一番解っているからな。だから、そんな顔をすんな」
 将臣はどこか大人びた笑みを浮かべ、切なさを滲ませている。
 どうしてそんな表情をするのだろうか。望美は胸の奥が締め付けられて、涙が出そうになった。
 こんな淋しげな表情をするひとではなかったのに。
「…ううん、解ってないよ私は…」
 ぽつりとひとりごちると、将臣は困ったように眉根を寄せた。
「そんなことねぇさ…」
 まるで言いくせのように呟いた後、将臣は押し黙る。
 僅かな間があり、望美は自分の無知さを知らしめられる格好となってしまった。
 解らない。
 今は将臣の心を。昔は、あんなにも鏡のように解りあえたはずなのに、そんな日々はもう二度と戻っては来ないというのだろうか。
 望美は将臣をまともには見ていられず、思わず清らかに澄んだ海を眺めた。
 この海のように、将臣の心が解ればいいのにと、思わずにはいられない。
 余りに熱心に見つめ過ぎていたのだろうか。望美は自分がどんな状態で海を眺めているかを、すっかり失念してしまっていた。
「あっ!?」
「望美っ!!」
 足がつるりんと勢い良く滑り込む。望美はそのままバランスを崩し、海に落ちていく。
 いくら両手をばたばたと鳥のようにはだたつかせていても、かえって滑稽なだけだった。
 お約束通りに、望美は大きな飛沫を上げて、海に真っ逆さまに墜ちる。
 墜ちる瞬間、視界にくっきりと映り込んだ将臣に、思わず手を伸ばしていた。
「望美っ!」
 将臣は何の戸惑いもなく、間髪入れずに自分も飛び込む。まるで望美が海に落ちると予想したかのように、冷静に対処してくれる。
 普段はちゃんと泳げるはずなのに、こういう時は、上手く頭が回らない。それどころか、パニックになってしまい、呼吸すら上手く出来ない始末だ。
「ま、将臣くん、将臣くんっ…!」
 何度も視界に映っては沈む幼なじみの名前を呼びながら、望美は激しい浮き沈みを繰り返す。冷静に物事を判断できないせいで、何度も海水を飲み込んだ。
 将臣が来てくれるまで、本当は僅かな時間だったのかもしれない。だが望美にとってはとてつもなく長い時間に感じられた。
 鍛えられた逞しい腕に、がしりと躰を捕まえられる。
 硬かった躰が、安堵でへなへなと力が抜けたかと思うと、いきなり強い力だ抱きしめられた。
「このバカッ!」
 将臣の鬼気迫る激しい叱責に、望美はハッと息を呑んだ。
 こうして抱きしめてくれるのは確かに将臣なのに、将臣でないような気がする。
 今まで識っていても識らなかった部分は、将臣の男の部分だということに、望美は初めて気付いた。
 将臣はおとなで男なのだ。
 腕の強さに喘ぎながら、望美は切なくて涙が零れてしまう。
「…ごめんね…」
「ったくお前はいつもスリリングなやつだぜ…」
 将臣は明らかに怒りを滲ませて吐き捨てると、望美を抱き上げたまま海から上がった。
 乾いた石の上に立たされ、肩をしっかりと掴まれる。食い込む指の強さに、将臣が獣であることを初めて意識した。
 命の輝きを謳歌させる杞憂なきなつのひかり。それが髪にしたたる雫を、まるでかけがえのない宝石のように見せ付けている。
 海水を吸い込んで張り付いている衣服が、将臣の鍛えられた胸をくっきりと描きだしている。それが脳裏にインプットされ、望美は異様に躰が熱くなるのを感じていた。
 多湿な熊野の夏のせいなのだろうか。
 それとも…。
 唇が渇いたような気がして、望美は舌で舐めた。
 僅かに将臣が呻くのが聞こえる。
 パルスが激しくなる。心臓が飛び出しそうで眩暈がする。
 望美は濡れた瞳でただ将臣を見つめ、将臣もまた望美を鋭くも艶のある瞳で見つめた。
「…さっきのは撤回だ…。お前は何も俺のことを解っちゃいねぇ…」
「…将臣くん…」
 大きな手で頬を撫でられる。胸の奥がきゅんと音を立てた。
 まるで獣が噛み付いてくるみたいだった。将臣が唇を重ね、強く吸い上げてくる。
 泣きたいぐらいに痛いのに、気持ちが良いのは何故だろうか。
 貧るようにキスをされた後、将臣に抱きしめられた。
「…お前…俺が男だって解ってねぇだろう。マジで」
 将臣は低い声で囁くと、望美の耳たぶを噛んだ。
「煽るなよ…。俺を…」
「煽ってなんか…」
「煽ってるさ…。お前は気付かねぇだろうな…。どれだけお前に引き付けられてんのか」
 それは将臣が女として好意を持ってくれていると、信じて構わないのだろうか。
「将臣くんだって煽っているよ…。私を。だって泣きたくなるぐらいに、私を追い詰めてくるんだもん…」
 半分べそをかきながら言えば、将臣は望美の瞳を覗きこんできた。
「…だったら熊野にいる間は、俺に追い詰められて、俺を追い詰めろよ」
「…私、将臣くんを追い詰めている?」
「追い詰めているさ、充分な…」
 将臣は唇を僅かに歪めて笑うと、望美の華奢な躰を抱き寄せてくる。その熱の強さをとても心地良く感じていた。
「じゃあ追い詰めるから、私を追い詰めて」
「ああ」
「覚悟してね」
 熱帯のように暑い熊野の夏。鮮やかな色が濃くなり、頭がくらくらする。
 ふたりは濡れたままで抱き合う。
 熱い熊野が見せてくれる、真夏の白昼夢。
コメント

熊野の夏です。



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