八月の通り雨


 新聞を取りに行った早朝に、望美は将臣とばったり出会った。
「どこに行くの? 将臣君」
「俺? スキンダイビングをしに伊東」
「ああ。海女さんね」
「海女さんじゃねえって、何度も言ってるだろうが!」
 将臣はいつものように、望美にヘッドロックをかまし、ふたりはおきまりにもふざけあう。
 だが、将臣は気付いているだろうか。
 強くなった将臣の腕が、望美の呼吸を奪ってしまうことを。
 男としての色香を意識してしまうことを。
「ギブ〜、ギブ〜っ!」
「1,2,3,4,5!」
 将臣はカウントを5つした後、望美を逞しい腕から外す。
「OK」
「ねえ、将臣君、私も一緒に連れて行ってよ。見学ってことで」
「はぁ? 支度してたら間に合わないぜ?」
 将臣が困ったように目を細め、後頭部をかく。だが、望美は諦めなかった。
「直ぐポシェット持ってくるからさ! 後さ、日焼け止めと、帽子!」
「ああ。解ったよ。解ったから
、とっとと準備をしてこい!」
「はあい!」
 望美は長い髪を軽やかに揺らしながら、慌てて家に入った。
 食事をしている父親に、乱暴に新聞を渡すと、自室に駆け込む。
 こんなチャンスを逃してはならない。
 望美は転がり落ちるように階段を下り、外に出た。
「おい、早くしろ!」
「はあい」
 学校に行くときのように、望美は自転車の荷台に跨ると、将臣の腰にしっかりと捕まる。
「レッツゴー!!」
「ったく、お前は気楽でいいよな」
 将臣は苦笑すると、いつもよりも猛スピードで、駅まで自転車を滑らせた。

 途中でJRに乗り換え、伊東の海に着いたのは、お昼近くだった。
「数時間潜れるな」
 将臣はダイバーズウォッチを覗き込むと、潮の流れを確認した。
「今日は早いから、スリリングだな」
「もう、危ないことをしたらダメだよ!」
「はい、はい」
 将臣はおもむろに岩場の影に入り込むので、望美はその後をちょこまかと着いていく。
「おいっ! お前は俺の着替えを覗く気かよ?」
「あ…!」
 望美はようやく何をするのか気付いて、流石に恥ずかしさに顔を真っ赤にする。
「ご、ごめんっ!」
「いいぜぇ! その代わり、有川将臣のストリップは高いからな?」
「もう、バカ!!!!」
 将臣が余りにからかうものだから、望美はすっかり拗ねた気分になり、岩場から抜け出す。背中に将臣の愉快そうな笑い声が聞こえて、かなり悔しかった。

 将臣は手早く着替え終わり、全身をウェットスーツに身を包んで、岩場の影から出てくる。
 それを見た瞬間、望美の胸は烈しく高まった。
 薄い膚のようなダイビングスーツは、将臣のボディラインをくっきりと浮き立たせている。胸の筋肉も、脚も、腕も、それぞれに鍛えられ、美しい筋肉がついていた。
 心臓がスキップしているぐらいに、烈しく飛び上がっていく。
 望美は食い入るように見つめてしまった。
「望美、荷物見とけ」
「うん」
 望美は頷きながら、将臣が海に入っていくのを見つめる。
 真摯な将臣の横顔は、まるで赤の他人のように見える。
 遠い、遠い、存在のように思えて、望美は寂しかった。
 海に
「海女さ〜ん、ホタテ貝とうにをおねがいしま〜す」
 照れ隠しに望美は将臣に無邪気にオーダーをする。
「バカか、お前、せいぜいくらげぐれえしか採れねえよ」
「げっ!? クラゲいるの?」
「ああ.。もうお盆過ぎちまったからなぁ」
 将臣は遠い目で空を見上げた。
 その眼差しを見ていると、望美もなんだか物憂い気分になる。秋は豊饒の季節で大好きだが、同時に、寂しくもある。
「潜ってくっから。適当に休んで涼めよ」
「うん」
 将臣は望美の返事に頷いた後、深い場所に潜りに行ってしまった。
 鎌倉の海よりはまだ幾分か透明感ののある伊東の海を、望美はじっと見つめる。
 水越しに見つめる将臣は、まるで海が故郷のように思える。
 水の中で自由を得て、楽しそうに潜っている。
 将臣は自分の好きな道を見つけて、こうして海に潜っている。
 なんだか、置いて行かれたみたいで、望美は寂しかった。
 せめて、一緒に潜れれば、どんなにか楽しいだろう。
 望美が愁いを含んだ眼差しで海を見ていると、将臣がゆっくりと上がってきた。
「気持ちよさそうだね」
「ああ。最高だぜ!」
 将臣が楽しそうに親指を立てている。
「私も潜れたらいいのに…」
「じゃあ、潜るか? すっぽんぽんで」
「もう! 今じゃないわよ」
 相変わらず冗談ばかりで、望美は本気で拗ねてしまう。
 こっちがこんなに真剣に言っているのに、将臣はいつもふざけてばかりだ。
「本気だったら、教えてやっても良いぜ? 先ずは鎌倉の海から潜って、少しずつ慣れていけばいい」
 将臣は海水に濡れた髪をかき上げながら、精悍な眼差しを望美に向けた。
「うん! やる! ねぇ、この間約束したでしょう? 来年の夏沖縄に行こうって! そのときね、一緒に潜ろうよ!」
「そうだな…、あ…、雨だぜ!」
 将臣が空を見上げ、望美も釣られるようにして見上げる。
 大粒の雨が頬に濡れたかと思うと、直ぐにどしゃぶりになった。
「きゃあっ!」
「おい、望美! 岩陰に行くぞ」
「うん!」
 将臣は望美の手首を強く握りしめると、岩陰まで引っ張ってくれた。
 そのお陰で、望美はあまり濡れずにすんだ。
「有り難う…」
「ああ」
 将臣は望美の手首を握ったまま、雫が滴る状態で見つめてくる。
 望美も吸い寄せられるように将臣を見た。
 瞳が自然と潤んでしまう。
「テリトリー…壊す気はなかったのにな…」
 低く呟かれる声。
 目を上げると、唇がそっと近づいてきた。
「指切りげんまんの代わりだ」
 自然と目が閉じる。
 瞼の奥には将臣の横顔の輪郭が映り込む。
 唇がぎこちなく重なった。
 潮騒の香りがする------
 ファーストキスは、潮の味がした----

 約束が果たされたのは、異世界でだった。
 今、ふたりは、総てを終え、南の島に降り立つ。
 ここの大地に、しっかりと根を生やし、生きていくと決めたのだから。
「将臣君、あの約束覚えてる?」
「ああ。覚えてるぜ。明日、一緒にスキンダイビングしようぜ。きっと今までで一番の景色が見られるはずだ」
「うん!!」
 約束は守られるためにある----望美は今ほどそれを感じたことはなかった。

ILLUST BY SAKURA YOSHINO
WRITTEN BY tink





top