今宵月の出る庭で


 私はほんの子供だった-----
 あなたと離れるまでは------
 だから熱い想いや、『愛している』と言う名の感情に、気付かなかったのよ----

 熊野の夜は温かい。
 傍に将臣君がいるから。庭に出る月が私と同じ名前の美しい望月だから。
 傍に将臣君がいるだけでホッとするなんて、何だか精神安定剤のよう。タブレットじゃなくて、温かなもので出来ている。かけがえのない素敵なもの。
 こうして、仲間たちと屈託なく酒肴を愉しんでいる顔を見るのが、今は何よりも楽しみ。
 朔の手伝いをして、シンプルな酒の肴を運ぶときに垣間見られる将臣君の顔は、温かで冷たさのかけらも感じない。あの横顔は、私までも幸福にしてくれていた。
 -----ようやく再会出来た。将臣君と再びこうしていられるのは、何よりも私を支えてくれる。
 だけど…、再会して嬉しいのと同時に、何だか寂しくもある。
 将臣君の躰には、既に私が知らない四年近いの月日が流れてしまっている。
 今までは生まれ落ちてから、ずっと一緒だったのに。
 こんなに離れた事なんてなかったのに-----
 何だか私は時間の河に嫉妬する。
 ねえ、私が知らない時間を、将臣君はどうして過ごしていたの? 何があったの?
 あなたのおとなびて精悍になった横顔を見ていると、時間の流れを感じずにはいられない。
 いつからそんなにお酒に強くなったの? 以前のあなたはお酒を愉しむなんてことはなかったのに。
 寂寥感を感じて、私は泣きそうになっていた。
 私や朔の出番は終わりを告げ、男達だけの宴になってからも、私は目が離せなかった。そっと襖の影から、何だかマンガみたいにずっと見ていた。
 夜更けになり、うとうととしていると、落ち着いた声が聞こえてきた。
「望美とは幼い頃から知り合いらしいな」
 口を開いたのは九郎さん。酔った勢いなのだろうか、少し呂律が妖しい。
「気になるか?」
 まるで九郎さんをからかうかのように、夜の闇の香りがする落ち着いた声で、将臣君は呟いた。
「別に俺は…」
 九郎さんが困ったように言葉を乱したのを、将臣君が見逃すはずはなく、フッと吐息だけで笑うのが聞こえた。
 大人の男しか持たない余裕が感じられる。
「ああ。ほんのガキの頃から一緒。幼友達ってのは、何だか兄妹みてえな感じだからな。お互いにパンツ一丁の姿を知ってんだ、男と女の面倒くせえ感情は抜きで快適だ」
「パンツ?」
 九郎さんはそれが何か解らないとばかりに素っ頓狂な声を出した。確かに、九郎さんには解らない。パンツなんて代物を日本人が穿いたのは、近代国家になったほんの150年経つか経たないかなのだから。
「-----まあ、裸同然で戯れていたってこと」
「裸!?」
 声が裏返るのを聞くと、九郎さんは相当驚いている。どうせ今の私たちを想像しているのだろうけれど、それはそれで恥ずかしい。
 一応、『歩き始めたみよちゃん』ぐらいの時なのですけれど。
「そこまであからさまに言わなくたって…」
 立ち聞きの後ろめたさなどはすっかり忘れてしまい、私は小さく悪態をつく。
「幼友達なら、余計に望美を大切に思うだろう?」
 九郎さんは、将臣くんに探るように聞いている。私は、何だか告白をする前の気分になり、鼓動を激しく高めた。
 喉が渇く。ついでに指先も痺れるように震える。私は、激しくなる呼吸を、なるべく聞かれないように押し殺した。
「気になるか?」
 余裕がある声は将臣くん。今、襖を隔てた奥にいるのは、確かに将臣くんなのに、私は何だか他人のように感じる。
 私が知っているのは、17歳で同級生の将臣君。大人と子供の端境にいた、未青年だったはずなのに、今ここにいるのは立派な男だ。男の子じゃない、完全なる大人の男だ。
 私とは三年もの時間の隔たりがあるから当然かもしれない。その時間の重みが、将臣君を男にしていた。
何だか寂しい…。幼なじみの特権として、ずっと将臣くんが男になる過程を、傍で見ていたかった。
「別に…気にはしてないさ」
 ぶっきらぼうに九郎さんが呟く。戦では百戦練磨の腕を持つと言うのに、何故だか少年の純粋な面影がある。
将臣君のほうがずっと大人なのかもしれない。
 幼なじみでずっと一緒にいたはずなのに、ずっと同じ路を歩いていたはずなのに、今、大きく隔たりのある場所を歩いているような、そんな気がした。
 そう考える自分が寂しくて、切なくて、堪らない。
 耳を澄ますと、盃に並々と酒が注がれる音が響いた。愉しそうな音を立てている。
「まあ飲めよ。だが呑まれるなよ?」
 将臣君独特のからかいが聞こえる。
「誰が!?」
 子供扱いをされた九郎さんは、忿懣やる方ないようだ。子供っぽい響きに、私は忍び笑った。
 シルエットを見る限りは、景時さんや弁慶さんがいるのに、そこには将臣君と九郎さんしかいない空間のように思える。
 不思議な空間。落ち着いた温もりは信頼し合った男同士の友誼の成せる技なのだろうか。私には決して混じり合えない、羨ましい静かな時間。
 二人が対峙をしながらゆっくりと飲み明かしているからかもしれない。
 天地の青龍のせいか、深い絆を感じる。親友同士のような、どこか宿命のライバルのような、そんな雰囲気がした。
 -----宿命のライバル…。
 どうしてそんなことを思ったのだろうか…。
 私は自分で思い、慌ててそれを打ち消す。冷たいものが背筋を凍らせた。
「九郎はそれだけ望美ちゃんが気になる存在なんだよね。何てったって兄弟弟子だし」
 景時さんが九郎さんを余計にからかって遊んでいる。私も一緒にからかわれている気分になった。頬に触れると僅かに熱い。
 恥ずかしいから止めて欲しいと、心から言いたいのを押し止めたぐらいだ。
「望美さんはお可愛いらしいですからね。九郎も将臣君との仲がどれぐらいのものか、気になっているのでしょう…」
 落ち着いた策士めいた声は弁慶さん。きっとからかうように九郎さんを見ているのだろう。
「フン、どいつもこいつも色気づきやがって…」
 何処かいらつきのある声を将臣君が発する。明らかに怒っているのを感じられた。
 ドウシテ…?
「望美は俺にとっては妹みてえなもんだ。ガキの頃から犬みてえにころころして育ったんだ。今更だ」
 妹…。いもうと…。イモウト…。
 機嫌が悪い将臣君の声が、私を凍らせる。
 想像以上に衝撃を受けている自分に驚きながら、私は唇から鳴咽を漏らした。
 総てを否定された気分だ。
 この三年間私のことを情熱的に思い出したことなんて、きっとなかった…。小さな妹を心配するような気分だったのかもしれない。
 涙が溢れる。
 自分ではどうコントロールしていいか解らず、落ちる涙を拭うことも出来ずに、ただ立ち尽くした。
「…しょんべんに行ってくる。こんなに飲んじまうと、トイレが近くてしょうがねえ」
 将臣君が立ち上がり、私が想像だにしなかった動きをしたものだから、慌ててしまいどうしていいかが解らない。
 逃げないと…。立ち聞きを咎められる前に。
 そんなことは頭で解ってはいても、躰が上手く動かなかった。
 あたふたとパニクっていると、無情にも襖は開く。
 その瞬間、将臣君と私の目があった。
 視線が強くぶつかる。
 火花が散り胸に熱い火傷をしたような気がした。
「望美…!?」
「あ…あの…、私っ…!」
 自分でも何を言っているのかが解らないまま、私は無意識にその場から立ち去っていた。
 視界が涙で滲んで歪んでいる。モザイクがかかったみたいだ。
「何処に行くんだ!?」
 将臣君に止められても、勢い余って止まることなんて出来ない。私は慌てて庭に飛び出していた。
 何も履かずに。訳が解らないまま。
「おい! 待てよ! 望美!」
 将臣君が後ろから追い掛けてくる。
 止まることが出来なかった。
 気分的に甘えられる雰囲気ではなかったから。
 涙のせいで視界がクリアーに晴れない。真の闇の中では、そんな視界はちっとも役に立たなかった。
「きゃっ!」
 何か石のようなものに、足元の自由を奪われてしまったのを感じる。次の瞬間、躰が宙で不安定になるのを感じた。
「望美っ…!」
 将臣君の焦慮する声が聞こえる。
 がっしりとした力強い腕に、危ういところで抱き止められた。
「ったく、落ちるのが好きな女だなぁ!?」
 将臣君の腕が、私の躰にしっかりと食い込む。まるで楔のように固くなる。動いてもそこから逃げることが出来て。息が早くなり、どうしていいか解らなくて、吐息を漏らした。
 すると唸るような声が聞こえ、更に腕の力が強くなる。
 こんなに強く、私を支えないで…。切なさがベールになって全身を覆う。まるでシャボン玉の中に閉じ込められたみたいに。
 強い腕は、私の知らない数年間の将臣君が刻まれている。
 知りたい…。でも知りたくない…。問いを何度も繰り返すだけで、答えなんかにはありつけない。
「…妹みたいだから…」
 声が小さくしか出なくて、満足な言葉を発することが出来ず、私はもごもごと口ごもるように言った。
「何だよ?」
「私が…妹みたいに…大事だから…兄のような気持ちで助けた? それとも、幼なじみの腐れ縁で助けた?」
 いつのまにか責めるような口調になりながら、私は将臣君に訊いた。
 将臣君は黙っている。ただ苦しい吐息が耳にかかるだけ。
「聞いていたのか…?」
 私は惨めな気分になりながら、小さくそっと頷いた。
 ふと、将臣君の腕が緩む。
 私はその隙に逃げ出そうと躰をもがいた。
「おい! 動くな! よせっ!」
 将臣君が焦りと戒めを含んで言う声も聞かずに、私は腕の中で暴れる。まるで何かに焦燥しているかのように衝動的だった。
「望美! おいっ!」
 私は躍起になって将臣君の腕の中から逃れることだけを考え、するりと擦り抜ける。
「あっ!」
 折角、将臣君が助けてくれたと言うのに、私は自らの頑なな意志故に、見事に池に落ちた。
 大きな水しぶきが上がり、全身が決して綺麗とは言えない水に浸される。
「…ったく、マジで学習能力がねぇヤツだな」
「無くてもいい…そんなもの…」
 私は小さく言うと、しょっぱい涙で頬を濡らした。それが本当の涙なのか池の水なのかは私には解らない。
「おいっ! 凄い音がしたが侵入者かっ!」
 九郎さんが慌てて駆け付ける音がする。将臣君と言えば、全くの冷静沈着だった。
「大丈夫だ。望美が池に落ちただけだ」
「池に落ちたのか!?」
 落ちるのを目の当たりにした将臣君よりも、九郎さんのほうが余程慌てている。
 じっと見つめていると、将臣君は九郎さんの前に静かに立ちはだかった。
「望美は大丈夫だ。俺が何とかする」
「だが…」
「いいから、俺に任せろ!」
 将臣君の声が尖り、九郎さんに向けて冷たく向けられる。
 その声に気圧されるかのように、九郎さんは怯んだ。
「わ、解った…」
 静かに九郎さんが戻っていく。それを緊張した将臣君の背中が見送っていた。
「おら」
 すっと伸びた将臣君の手。知っていた頃よりもごつごつとして、そこには年輪と鍛えられた強さを見た。
 逞しく、守ってくれそうな手…。
 だが、真の意味で私が護られたことはない。
 将臣君には護るべきものがある。それは私じゃない…。
 そんなの切なすぎて痛すぎるよ…。
「…自分で立てるよ…。ずっと将臣君がいなくたって、ひとりぼっちで頑張ってきたんだもん」
 強がりなのは解っていた。
 だけど、将臣君の手を取ってしまえは、このままズルズルといってしまうのは解っていたから。
 妹だとか、ただの幼なじみだとか、そんな風には思われたくなかった。
 滑り易い池の底で、慎重に足を動かす。だが、上手くいかない。
「きゃあっ!」
 立ち上がろうとして、するりと滑ったところで、いらだたしげな腕が、私をしっかりと支える。
「…自分で…!」
「バカ…!」
 ガラスの破片のような突き刺さる声と共に、将臣君の指先が、私の背中に強く食い込む。そこには強い意思が感じられた。
「…一緒にいる時ぐらいは、俺だけにおまえを護らせてくれ…」
 魂の奥底から搾り出されるような声だった。
 私はその声に震え、抵抗出来ないぐらいに躰から力が抜ける。
 何も言えなくて、私は将臣君をまともに見ることが出来なかった。
「ほら、立てよ」
 私は俯いたまま、将臣君のなすがままに立ち上がり、池から抱き上げて出された。
 私の躰が濡れていて自分も一緒に濡れてしまうのも構わないとばかりに、将臣君は私を柔らかく抱く。
「バカなことをするんじゃねえよ」
 男の匂いがした。
 私が知っている将臣君は、『男の子』の匂いがしていた。
 でも今は、躰の奥まで染みこむような匂いがする。
 成熟したオスの匂いだ-----
 そう思ったのはきっと、私がメスとして成熟しつつあるからかも知れない。
 ふたりで良く並んで座った七里ヶ浜の時とは違った匂いだった。
 私のメスとしての本能をくすぐり、砂漠のように乾きを欲する匂い。
 離れなくては。でも離したくない。
 耐えかねて、私はたった一言呟いた。
「…濡れるよ」
「構わねぇ」
「…風邪引くよ」
「だったらおまえに看病してもらったらいいさ」
 私は唇を震わせながら、何とか合わせる。
「…妹分だもんね。兄貴分な将臣君の看病は私がしなくっちゃね…」
「何でそんなに”妹みたい”にこだわるんだ」
 将臣君は切って捨てるように言う。単純な問題じゃないかと。
 でも私はそうじゃない。
 私は拗ねながら、顔を反らせた。
「将臣君がそう思っているんだから、それでいいじゃないっ! 私は妹分で、将臣君にとってはそれ以上にはなれないのっ!」
「何がそれ以上になれねえんだよ!?」
「幼なじみ以上には絶対になれないでしょう!」
 誰かに聴かれているかも知れない。そんな意識なんて毛頭もないぐらいに、大きな声でやけっぱちになって言っていた。
 将臣君が舌打ちをしたかと思うと、考えられないことが私の身に起こった。
「--------!!!!!」
 錯愕が電気となって全身を伝い、躰は固まる。
 将臣君の唇が、私の唇と触れあっていた。
 震える唇が艶めかしく赤くなり、熱くなった。
 あの塩辛い泪の味はどこかに消え去り、代わりに知らなかった甘い果実の味がした。
 今まで知らなかった禁断の味だ。
 将臣君の舌の動きは、大人の中で少年の頃の乱暴なぎこちなさを思い出させてくれた。
 初めてのキスなのに、妙に懐かしい-----
 生きるのに必要である酸素が欠乏し始めた頃、唇が離れた。
 髪も、唇も、瞳も…、総てが濡れたまま、私たちは見つめ合う。
「----望月を見る度にお前のこと思い出してた。おまえのこと思ってた。おまえと同じ名前の綺麗な月だってな」
「----将臣君…」
 嫌なくらいにどす黒い感情がゆっくりと溶けだしていくのが解る。
 私は将臣君の腕の中で、初めて素直に躰を預けた。
「----大好き…」
「んなこと、解ってる。俺だって、おまえのこと好きだからな」
 ぶっきらぼうに呟く声は、私が知っている将臣君。
 時間が雫になって溶けていく。
 幸せが歩輪補輪と熱い雫になって、私たちを包み込んでくれる。
「もう妹や幼友達だなんて言わないで」
「ああ」
 また、禁断の味がするキスが唇に下りてくる。
 それから暫く、私は将臣君の腕の中でドキドキしながらも安心して月を見た。
 この腕の中が一番の楽園。
「----夢でも逢いたいね…」
 月を見ながら、今夜の夢のことを考える。
 目を閉じると幸せな懐中時計の音が、着物の裾から聞こえてきた----

コメント

書いてみたかった。それだけです。





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