天使の髪


「将臣くん、ちゃんと髪、綺麗になるよね?」
 昼寝をしていて、髪がぐちゃぐちゃの”雀の巣”のような状態になってしまい、望美は一緒にいた将臣に泣き付いた。
 将臣は直ぐに祖母が使っていた柘植のくしを取り出し、丁寧に梳いてくれる。
「大丈夫だって」
「ホントに?」
 キッパリと言い切ってくれた将臣の言葉が、望美を慰めてくれた。今朝、母親にしてもらったように、綺麗な状態が戻るだろうか。
「ああ。望美の髪、さらさらしていてすげぇ綺麗だよな。このまま伸ばせよ」
 絡まった髪で泣きだしそうだった望美を、将臣は髪を梳いて綺麗にしてくれている。
 イジワルで、いつもからかわれたりしているが、肝心の時には優しく護ってくれる頼もしい存在。それが将臣だ。
 今日も絡んだ髪を綺麗に梳いて元通りにしてくれている。器用な将臣の指先が好きだ。母親に髪を梳いてもらうよりも、将臣に綺麗にしてもらうのが好きだった。
 だからこそ、将臣に褒められたのが嬉しくて、髪をもっともっと伸ばしてみたくなる。
「ホントに? じゃあ望美、一生懸命に髪を伸ばすよ! 将臣くんに綺麗だって思われるように頑張るよ!」
「ああ。俺も綺麗にしてやるからな。お前の髪!」
「うん! ずっとそうしていてね!」
 無邪気な幸福が麗らかに香る午後。
 この時から、望美は髪を伸ばすことに決めたのだ。


 あれから10年の歳月が流れ、肩までだった望美の髪は、腰までに達していた。綺麗に伸ばす為に、毛先にハサミを入れたり地道な努力を重ねて、今、自慢できる髪になった。
 髪を伸ばすきっかけになった将臣は、そんなことがあったことを覚えているだろうか。
 今も望美は将臣に褒められたくて、髪を伸ばしている。
 小さな頃から、ずっと頼もしいと思っていた。いつしか憧れは、恋に変わった。
 将臣への想いの象徴だともいえる。
 なのに、将臣からは一度も恋愛対象として見られたことはなく、将臣の横にいる女の子たちを羨ましく思っていた。
 いつも短すぎるサイクルで横にいる女の子が変わっている将臣だったが、最近、固定されつつある。
 綺麗な将臣に似合いの女の子だ。
 この髪に意味はあるのだろうか。ただ惰性で伸ばしていても切なくなるからと、望美はイメージを変えようかと考えてしまう。
 もう、髪に触れて貰えることもないだろうと、哀しい気分になっていた。
 早速、ヘアスタイルを特集を組まれた雑誌を読み、望美は新しいヘアスタイルを熱心に見ていた。
「望美、あなたヘアスタイルを変えるの!?」
 友人が驚いたように雑誌を覗き込み、いったいどういうことなのかと、視線で話し掛けてくる。
「心境の変化だよ。ずっとストレートだったから、たまには変えてもいいかなあって」
 何もないと笑ってごまかすと、余計に不審に見られる。
「勿体ない!」
「何だかたまには違う髪形したいって思って。思い切ってショートボブとか」
「ダメ!」
 友人は怒るぐらいの勢いで、反対してくる。断固としてダメだという雰囲気が、滲み出ている。
「どうして?」
「だって髪を切ったら、望美が望美じゃなくなっちゃうじゃないっ!」
「何だかそれ、髪以外に私が個性ないみたいじゃん」
 望美が苦笑すると、友人は眉間にシワを寄せて考えこんでしまう。
「…だけど、望美のロングは凄く綺麗だから…。誰だって髪を伸ばしたいって思っても、こんなに綺麗には伸ばせないよ。ごわついたり、綺麗じゃなくなったりするんだよ」
 友人は一生懸命に望美を説得してくれている。
 だがこの髪を伸ばしている限りは、将臣から卒業出来ないような気がした。
「感じを変えるのもいいかなって、思うようになったんだ。伸ばしたいと思えば、また伸ばせばいいんだし」
「だけど!」
 友人がしつこく食い下がってくるタイミングで、将臣が教室に入ってきた。
「あ! 有川くん! ちょうど良かったわよ! 望美がね、髪を短くするって言うんだよっ! 勿体ないから、止めてよ!」
 友人のまくし立てる言葉に、将臣は立ち止まった。
「髪を切る?」
 将臣の声が険悪に低くなる。
「切るよ」
「切るな」
 将臣は明らかな不快感をあらわにすると、望美を鋭い眼差しで見つめてくる。恐いとすら望美は思った。
だが怯まない。
「私がしたい髪形をするだけだよ。将臣くんには関係ないじゃない」
 望美は将臣に顔を合わせぬまま、わざと強い口調で言う。そうしなければ、屈服してしまいそうな気がしたから。
「関係ないはねぇだろう!? 俺はお前の幼なじみだぜ!」
 将臣は今にも爆発しそうな口調で、たたき付けるように言う。その視線は冷たい炎で燃えさかっていた。
「幼なじみだよ。将臣くん。友達には束縛する力はないよ」
 望美の言葉に将臣は舌打ちをすると、机を思い切り叩いた。
「勝手にしろ!」
「うん、勝手にするよ!」
 ぽんぽんと遠慮がない言葉がどんどん出てくるのは、ふたりが遠慮がいらない関係だから。
 間に入る友人がおろおろしているぐらいだ。
 将臣は自分の席に戻ってからも、背中で怒りを表している。
 それが望美には恐ろしくてしょうがなかった。

 放課後の清掃が終わり、望美が席を立とうとすると、大きな手が机についた。
「帰るぞ!」
「へ?」
 教室の外には将臣の彼女だって待っているというのに、こんな提案をするなんて。望美は素っ頓狂な声を出さずにいられなかった。
「…将臣くん、彼女が待っているよ? どうして…」
「いいんだ。あいつにはやんごとなき用があるって言ってある」
「私はやんごとなき用じゃないわよっ!」
「俺にとってはそうだ」
 将臣は本気で怒ると、望美の腕を強く握る。
 まずい。将臣は本気で怒っている。
 望美が困った視線を向けると、将臣はまるでナイフのような視線で、それを掻き消してしまった。
「行くぞ」
「ちょっと待ってよ!」
 望美が抵抗しても将臣は気にも止めない。そのまま引きずられるように教室を出ると、望美は将臣の彼女と鉢合わせになってしまった。
 気まずい雰囲気の望美とは裏腹に、将臣はすたすたと歩いていく。
「いいの? 彼女は?」
「…さっき、別れた」
「別れた!?」
 望美は思わず耳を疑う。
「別れたって言っても、結局は、ちゃんと付き合ってなかったし俺達。ただ、あいつが、少しでいいから友達としていたいって言ったからだけだしな」
 将臣は何もないことをいとも簡単に言ってのけた。
「正確には恋人という意味の彼女じゃねえな」
 望美は半ば呆れかえると同時に、少しばかりホッともした。
「だから気にせず着いてこい」
 望美は返事はせず、ただ将臣の後ろを着いていった。
 連れて行かれたのは、いつもの海岸。
 駅前の踏切と信号を渡れば行けるお気に入りの場所だ。
 江ノ島までよく見渡せる場所で、ふたりは並んで海を見た。
 潮風が望美の髪を綺麗に靡かせている。
「…切るなよ。ずっと伸ばすって言ってたじゃねぇか」
 将臣はまるで独り言のように言うと、望美の髪を手に取った。
「あれは小さい頃の話だし」
「俺はずっとこの髪が好きだった。短くするなんて言語道断だ」
 余りに将臣が好き勝手なことを言うものだから、望美はムッとして、あからさまに睨みつける。
「命令しないでよっ! 私は、将臣くんの彼女じゃないもん!」
 一瞬、将臣が切なげな表情をしたので、望美はドキリとする。こんな切なくて苦しそうな将臣は、見たことがなかった。
 望美も喧嘩をする気が萎えてしまう。
 迷子のような顔をすると、将臣は望美の髪をひと房取り、口づけた。
 瞳を閉じて愛おしそうにキスをされて、望美は躰の奥底がきゅんと甘く傷むのを感じる。
 恋の雰囲気がする。
「お前の綺麗な髪を梳いたり、触れたりするのは俺の特権だからな。俺を哀れむと思って髪を切るなよ。…確かにお前は今まで俺の彼女であったことは一度もねぇし、こんなことを言えた筋合いもねぇけれど…」
 将臣はそこまで言うと、精悍で整った顔を、更に素敵にさせて望美に向き直った。
「望美……、俺はお前を幼なじみとしではなく、女として好きだ」
 まさかそんな言葉を、将臣から直接聞けるだなんて、望美は思わなかった。
 今まで、自分勝手になっていた望美の心が、甘く溶け出してくる。
「将臣くん…それホント?」
 恐る恐る聞いてみる。
「バカっ! んなこと、冗談で言えるかよ!」
 将臣の眼差しが照れる余り朱くなる。それを見ていると、望美は幸せ過ぎて泣き笑いの表情を浮かべた。
「…私も好きだよ、将臣くんが他に好きなひとがいるって思ったから、ふっ切る為に髪を切ろうと思ったんだもん」
 幸せなのに、何故か涙声になるのは何故だろうか。
 望美が鼻をぐすぐすさせていると、将臣が抱きしめて髪を撫でてくれる。
「好きだぜ」
 とっても甘い言葉を囁いた後、将臣はとっておきに甘いキスをくれた。


 あれからふたりの人生に試練が訪れて、それを乗り越えて…。
 やがて南の島で新婚生活を始めた。
 甘い生活でいつもかかさず行われていること。
 それは将臣が望美の髪を手入れすること。
「やっぱり将臣くんがすると、髪は綺麗になるんだよねー」
 望美が幸せそうに目を閉じると、将臣は甘やかすように髪を撫でる。
 髪を特梳く。それはたりにとっての幸せな魔法だから。




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