夏の終わりの鎌倉は、寂しくて優しい。 大騒ぎのパーティーの後の会場のように、どこか侘しさや寂しさが遺る。 「どうしたの望美!」 真っ直ぐ家に戻ると、望美はただいまも言わずに、洗面所に駆け込んだ。 直ぐにカランを捻り、豊かな水を出す。 顔を洗ってしまえば、きっとやる瀬ない気持ちを拭い去ることが出来るだろう。 好きだったひとに恋人がいたなんて、思いも寄らなかった。 涼しげに笑うひとは、いつもおとなびた雰囲気を漂わせ、望美の胸を深く打った。 衝撃が下りて来て恋に落ちた。 初めてずっと見ていたいと思ったひとだ。 なのにそのひとには恋するひとがいた。望美のことは一度も見ずに、恋人だけをじっと見ていたのだ。 こんなちっぽけな存在を、きっとあのひとは気付かない。 泣いている顔をごまかすために、顔をごしごしと洗う。 泣くのは一度だけだから。 明日には新しい自分がいて、直ぐに新しい恋を始めているだろうから。 だから顔を洗っている間は。 窒息してしまうのではないかと思うほどに激しく顔を洗い、皮膚が薄くなってしまうぐらいにごしごしと洗った。 きっと恋をしている間に厚くなった面の皮を元通りにしているのだ。 玄関のインターフォンが鳴り、望美はびくりとした。 柔らかな柔軟剤の香りがするタオルで水分を吸い取っていると、母親の声が聞こえた。 「望美! 将臣くんよ! 図書館に行く約束をしているんでしょう? 早く支度をしなさい!」 そんな約束などをした覚えなどないというのに。 望美はタオルを片手に、ひょいと玄関先を覗き込んだ。 「よう、待ってるから着替えて来いよ」 将臣の瞳が、望美の心に染み込んでくるような優しさを滲ませてこちらを見ている。 あんな眼差しで見つめられてしまえば断れない。 「解った、ちょっと待っていて、直ぐに支度をするからね」 「ああ」 バタバタと階上にある自室に向かい、夏の名残を思い起こさせるサマードレスに着替えた。 約束はしていなかったが、将臣と一緒にいればきっと慰められると、望美は思う。 参考書をバックパックに詰め込んで、ばたばたと階段を下りていく。 これでも今年は高校受験だ。夏を過ぎれば本腰を入れなければならない。 ならば、恋をすることなど少しお休みをして、受験に集中するのも良いかもしれない。 「お待たせ!」 「ああ、行こうぜ」 「お母さん、行ってきます!」 先ほどまで沈んでいた雰囲気を払拭するように、望美は笑顔で言うと、外に出た。 「チャリに乗って行こうぜ」 「うん」 自転車の荷台にいつものように乗り込むと、将臣の背中にしっかりと捕まった。 「そろそろ真面目に勉強しないとね」 「そうだな」 幼なじみの背中に、望美は総てを預ける。そうすると安心するのが不思議だ。 自転車は極楽寺の駅までの坂をスピードを激しく出して下りると、図書館とは逆方向に曲がった。 「ちょっと! 逆だよ!」 「いいんだよ」 将臣の声は、どこか切ない優しさが滲んでいる。すとんと心に落ちてくる優しさに、何だか泣きそうになった。 「どこ行くの?」 「落ち穂拾い」 訳が解らないことを言う将臣に、望美は小首を傾げた。 「夏の落ち穂拾いをするんだ。今日から俺的には秋だから、きちんとケジメをつけねぇとな」 将臣の声が、痂だらけでボロボロになってしまった望美の心に、特効薬のように染み渡る。 まるでオキシドールを塗った時の染みる感覚に似ていて、ほんのりと涙が眦を湿らせた。 まるで何もかも解っているような将臣に、少しだけ心を預けたい。 ギュッと幼なじみの背中を握り締め、ただこれからの行方を任せた。 将臣が自転車で目指したのは七里が浜。偶然にも、望美が志望校として一番に上げている、鎌倉高校前の海岸だった。 ここからの海の眺めは秀逸で、ドラマのロケーションにもよく使われている。 開放的な海岸。 夏休みの間は、あんなにも賑やかだったのに、今はサーファーがぽつりと点在するだけだ。 「なぁ、夏休みの葬式をしねぇか?」 「何それ」 将臣は悪たれた笑みを浮かべると、望美に花火を差し出した。 「派手にやろうぜ! 鎌倉の夏さようならまた会う日まで、鎌倉の秋こんにちは記念!」 「何よそれ! 昼間なのに?」 望美がくすくすと笑うと、将臣は優しく見守るような笑みを浮かべてくれた。 一瞬、心臓が大きく一度だけ鳴り、望美の心に痛みを刻み付ける。同時に、胃の上が強張り、苦い感覚が支配してくる。 識っているの? 何かを失ってしまったことを。 望美が将臣を泣きそうな瞳で見つめると、ただ静かに花火を差し出してくれた。 「ほら、やろうぜ。夏休みの葬式」 「うん」 幼なじみから受け取った花火を抱きしめるように見つめ、望美は泣き笑いの表情を浮かべた。 「よっしゃー! 灰色シーズン到来を祝してー!」 「もうバカなんだから」 秋が顔を覗かせ始めた季節。スカートを翻させる風はすっかり秋を孕んでいる。 真昼間だけれど曇り空の下で、ふたりは乱痴気パーティーのように大騒ぎをした。 騒いでいると、感情が溢れてくる。 このまま涙で感情を流してしまいたい。 将臣が傍にいるから、素直な気持ちになれる。泣いてしまえばいいと、視線が言ってくれている。 望美は空を見上げると、大声を上げて泣き始めた。 片思いをしていた恋心が、涙によって躰の外へと出ていく。 「我慢しなくていい。泣いてすっきりしちまえ」 泣き顔を隠すように、幼なじみが肩を抱いてその胸を貸してくれた。 何時からこんなに逞しくなったんだろうか。 何時からこんなに”男”になったのだろうか。 もう少年とは思えない香りや、大人びた横顔に、望美の心はざわついた。 誰かに対して、こんなに心をざわつかせたのは初めてなのかもしれない。 望美はいつの間にか、将臣の背中にしがみついて泣いていた。 「…何時から気付いていたの?」 「最初から」 「どうして…?」 「ずっと見ていたから…」 いつの間にか将臣の声はよく響く甘さが滲んだ男の声になっていた。 望美の心を包み込むような大きさを含んだ声に、益々甘えたくなる。 将臣の顔を見上げると、男らしさと優しさが交差する瞳とぶつかった。 「…将臣くん…、これからもさ、こうやって、見ていてくれる?」 心臓が早鐘のように鳴る。 どうしてこんなに鼓動が早くなるのか、今の望美には解らなかった。 ただ解ることは、これからも将臣に見守って欲しい気持ちだけ。 「見ててやるから、安心しろ」 「うん…」 頭ごと抱えられて、望美は目を閉じる。 失恋をしたはずなのに、もう相手の顔なんて忘れてしまっている。 それがどうしてかは、解らない。 「これからもここで青春しようぜ。俺、鎌倉高校に決めたから」 「私もだよ。ふたりで青春しよう!」 顔を見合わせて笑うと、ふたりは再び花火を始める。 夏休みのお葬式。 それは埋もれていた恋心を気付く瞬間でもある。 |
| コメント 恋に気付く瞬間です。 |