譲は先を歩く将臣の背中を見つめる。横を歩く望美の手をしっかりと繋ぎ、前を見つめている。 悔しいが、横にいる望美は、今までで一番美しいように思えた。 「もう少しだから頑張れよ」 「うん、解ってるよ! 必ず良いことが待っているから、頑張れるんだよね」 いつも欲しいものを与えてくれた兄。 望美のことも、最初は譲に一歩譲ってくれていた。自分も好きだったくせに。 それでも結局、望美は将臣を選んだ。 坂を上がるふたりを見つめながら、譲は幼い頃を思い出す。 眩しい夏の光なのにどこか寂しい雰囲気を滲ませた光が、譲を過去へと運んでくる。 どこかノスタルジアを感じる秋を含んだ光に、譲は幼い甘酸っぱさを心に広げた。 「ふたりとも泣くなよ。歩き終われば、必ず良いことが待ってるから頑張るんだ」 自分だって本当は辛いだろうに、将臣はいつだってふたりに弱音を吐くことはなかった。 小さな子供は好奇心がいっぱいで、今思えば、たいした距離なんかじゃないのに、歩くだけで大冒険だった。20分も歩けば、かなり遠くに来たと思ったものだ。 鎌倉は、東京からかなり近いけれども、まだまだ自然が溢れた、歩くだけで楽しむことが出来る。 家にはちゃんとイマドキの子供と同じようにテレビゲームはあるが、どちらかと言えば、こうして外で歩くのが好きだった。 蝉やカブトムシを入れるためのカゴを肩からかけ、虫取り網を片手に持って、勇んで鎌倉の町を歩いていた。 まだまだ良い日本の夏の匂いが残る鎌倉は、ノスタルジアな遊びが流行っていた。 いつも勇んで遊びに行くのに、帰りは大概疲れ果てて閉口する。 熱くて、長くて、大変な、家までの坂。 今なら、自転車に乗れば直ぐの距離も、長くて堪らなくて、いつも泣きそうになっていた。 首筋に滲む汗や、背中の皮膚がじっとりと汗の膜で覆われる不快感。 望美を見ると、泣きそうになりながら、鼻を啜って我慢しているのが、ありありと解った。 「将臣くーん」 泣きそうな顔で望美は将臣を見上げる。譲は唇を噛み締めて、じっと我慢をしていた。 ふたりとも暑さと疲労が躰に滲み、今にも座り込んでしまいそうになっている。こうなるとたいしたことではないのに、惨めな気分になって泣けてくる。 「帽子がしょっぱいよ。喉が渇いたよ」 最初に根を上げるのはいつも望美だ。顎にかかるゴムに汗が滲んでしょっぱくなったのか、舌で舐めて顔を歪ませている。 「おら」 将臣だって本当なこの暑さと距離は辛いに違いない。なのに一言も不満など言うこともなく、ただ望美と譲に手をひとつずつ差し出した。 「もう少しだから、ふたりとも頑張れ。少し歩いたら、必ず良いことが待っているからさ」 将臣に力強く言われると、不思議とそんな気分になる。 もう少し頑張れば、その先にとても良いことが待ち構えているような気分になった。 しっかりと手を繋がれて、再び一生懸命歩き始める。 午後の陽射しはとてもきつくて、容赦なく自分の存在を望美たちに知らしめている。 「あとちょっとだから」 「うん!」 三人で歩幅を合わせて、坂を上りきると、そこには古びた駄菓子屋があった。 「将臣くん、喉渇いたよ」 「お兄ちゃん、僕も!」 家まで後少し。だが、汗で濡れた髪がべったりと頭に張り付いて気持ちが悪くて、ふたりは涼を求めて将臣をねだるように見上げる。 将臣は仕方がないとばかりに、半ズボンのポケットからなけなしのお小遣を取り出した。 持っているのは僅かで、三人分には到底足りない。せいぜい瓶に入ったラムネを一本買えるぐらいだ。 「ラムネを三人で一緒に飲むか」 将臣の提案に、ふたりは神様がやってきたとばかりに微笑み、しっかりと頷いた。 「おばちゃん、ラムネ一本ちょうだい!」 「はいよ」 冷たく冷やされたラムネを渡されて、将臣は先ず望美に渡す。 「ありがとう!」 望美は、とっておきのきらきらと輝く笑顔を将臣に向け、それを将臣は優しい笑顔で受け取っている。 近所では、悪ガキで通っている将臣だが、親分肌を持つ、本当は誰よりも気遣いに長けている。 「望美、譲も飲むから、少し残してやってくれな」 「うん!」 望美はまた将臣だけを真っ直ぐに見つめて笑う。親にも見せることのないとっておきの望美の笑顔は、いつだって将臣のものだった。 ラムネを受け取る望美の左手薬指には、将臣が買ってくれた玩具の指輪が光っている。 最近のお気に入りで、ずっと大切につけている。 それが少しだけ、譲には悔しかった。 望美は喉を美味しそうに何度もゴクゴクと鳴らしながら、ラムネを一気に飲み干している。 三分の二弱飲んだところで、素直に譲に渡してくれた。 「譲も飲め」 「ありがとう」 譲はラムネの瓶に口をつけ、夢中になって飲む。ラムネはいつだって夏休みのご機嫌な味がする。 何時しか夢中になってしまい、全部飲み干してしまった。 「あ…」 カランとビー玉の渇いた音がした時には後の祭りで、将臣の分なんて一滴も残ってはいなかった。 しょんぼりとラムネの瓶を差し出すと、譲は申し訳なくて視線を伏せる。 「…ごめん」 「いいさ。それでお前は喉が渇かなくなっただろ? だったらそれでいいじゃねぇか」 将臣の手が、譲の頭にぽんと乗せられる。顔を見ると、本当に心から笑ってくれている。 「行くか、もう少しだからな」 「うん!」 再び、ふたりの手を引いて、将臣は坂を上がっていく。 あの頃から本当は将臣には敵わなかった。 だからこそ、”いい加減”だとか、”どうしようもないひと”だとか、思い込もうとしていた。 そうしなければ、敗北で胸が苦しくなってしまったから。 いつの間にか、ごく自然に同じ女を好きになってしまっていた。 将臣と小さな頃から手を繋いでいた、幼なじみのお姫様。 譲の気持ちをいち早く見破り、見守ってくれていた兄。 本当は自分も、誰よりも望美が好きだったというのに。 それが気に入らなくて、夏祭りに喧嘩をしたこともあった。 豪快でおおらかな兄を、いつもクールに見つめるふりをしていた。 巷の評価も、”兄はやんちゃで子供じみている””弟はクールな優等生でおとなびている”だったが、本当は兄が大人だったのだ。 それを誰よりも見抜いていたのが、いつも一緒にいた幼なじみだった。 ただ将臣だけを見つめ、敵同士になっても、いつも兄のことしか考えてはいなかった。 譲は前を歩くふたりに視線を這わせる。 しっかりと手を繋ぎ、ふたりはあの坂を上っていく。 かつて三人で一生懸命上った坂道を。 「来年にはちびもこの坂を上るんだよな」 「まだよちよち歩きも出来ないぐらいだよ、多分。だけどいつかは上るんだよね、私たちみたいに」 ふたりの会話を聞きながら、譲は胸の奥が切ない痛みに支配される。夏の終わりは、どこかしんみりとなるものだから。 秋にはふたりには子供が生まれる。 この坂の思い出をいつか語ってやろう。 譲はしっかりと思った。 |
| コメント 夏のノスタルジーをテーマに書きました |