☆天泣☆


 晩夏から初秋にかけての天気は、いつも不安定だ。信じられない人間の心のように、ころころ変わってしまう。
 いつものように江ノ電に揺られて、のんびりと帰宅する。望美は車窓から、雲ひとつない空を、じっと見つめていた。
「将臣君、また雨降りそうだよ」
「はぁ? こんな天気がよいのに、雨なんか降るはずねェだろ!?」
 将臣は全くお話にならないとばかりに軽くあしらうと、ドアに逞しい背中を凭れさせた。
「私には解るの!」
「じゃあ、お前、気象予報士になれよ」
「うん! なる!」
 望美は鼻息荒くしながら、力強く宣言する。まるで子供が負けず嫌いに宣言しているようだ。
「『春日望美の明日のお天気』なんてやったら、きっと疲れたリーマンが、お前のにぱ〜とした笑顔に、癒やされるんじゃねぇの? 俺は癒やされねぇけれど」
「ったく! 将臣君はいっつも一言多いんだから!!」
 望美がぷりぷり音を立てて怒りながら、将臣の胸を叩く。子供の頃からの、ふざけあいっこの定番だ。だが、一度叩いたところで、望美は叩くのを止めてしまった。
「……」
「どうしたんだよ、望美」
 固まってしまった望美を、将臣は怪訝そうに眺めた。じっと見つめると、どこか戸惑っているように見える。
 その表情に『大人の女』を感じてしまい、将臣は眉間に深い皺を刻んだ。どうかしている。自分のうちにあるオスが荒れ狂うような気がして、胃が強張った。
「ごめん、怒った?」
 望美が困ったように、将臣の機嫌を視線で探ってくる。
「別に怒っちゃいねぇよ」
「怒ってる!! その顔見たら!」
「怒ってねぇって!!」
 将臣は声を荒げた自分に溜息を吐くと、望美の頭にぽんと自分の手を乗せた。
「マジで怒ってねぇから。あんまり気にするな」
「うん…。私もちょっと戸惑っちゃった。将臣君があんまり…」
 望美は言葉を濁すと、頬を少しだけ赤らめた。
「何だか、大人になっちゃったなあって」
「何だよそれ?」
「…その逞しくなったって言うか…」
 望美はこれ以上言えないとばかりに、はにかんでしまう。上目遣いで見せた眼差しが、純粋で華やいでいた。
「バーカ、いつまでもガキのままなわけねぇだろ? 俺もお前も」
 自分で言った一言が酷く胸にしみこんだ。それは望美も同じようで、心許ない顔をしている。
 いつまでも子供ではいられない。それは生きていく上での自然の摂理だ。だがその事実に胸を痛めるのは、何故だろうか。
 いつまでもこうして、じゃれ合うことが出来ないからだろうか。
 お互いに『幼なじみ』と言う名の、ふかふかのゆりかごに揺られ、いつまでもしがみついていた。そこから出てしまうのは、もう時間の問題かも知れない。
 胸が痛くて、これ以上何も言う気にはなれなくて、ふたりとも押し黙ってしまった。
 空を見上げると、相も変わらず脳天気に、雲一つなく晴れ上がっている。
 ふたりで車窓から見える空を、ただぼんやりと眺める。
 将臣は視線がかなり下になってしまった望美を見つめながら、確実に蕾は大きくなり、華を咲かせ用としていることを感じた。将臣すらも惑わせてしまう華麗な花を  

 最寄り駅に着いて、いつものように駐輪場に向かう。今日はふたりとも言葉数が少なくなってしまう。
 荷台に跨ると、望美はぽつりと呟いた。
「雨、降るかな?」
「降らねぇだろ? たぶん」
 将臣は自転車のハンドルを強く握ると、スムーズに駐輪場から出た。
 家に向かって暫く走ると、頬に冷たい雫が下りてくる。空はこんなにからっとしているのに、雨だけが激しく冷たい。
「ほら、言った通りだったでしょ?」
 得意げに言う望美に、将臣は苦笑しながら頷く。
「ああ。お前の勝ちだ。で、将来の気象予報士さんは、傘ぐれぇは持っているんだろうな?」
「持ってないよ。だってさっき、何となく、雨が降るかなあって、思っただけだもん」
 望美はあっけらかんと言う。小さな頃から、不思議なところはあったが、時々、こうやってものの見事に予想して見せる。何か特殊な力があるのではないかと、思ったこともある。
「天気雨だな。ヘンな気分だ」
「狐の嫁入りって言うもんね。だけど、何だか神様が泣いてるみたい。何か哀しいことがあったのかな…」
 とりとめのない話のはずなのに、望美の一言は、将臣をハッとさせる。自分に流れる血が、切なさを訴えているような気がする。
 不意に、天気雨が激しさを増す。
「急ぐぞ!」
「でもびちゃびちゃだよ! 直ぐ止むなら、雨宿りした方が賢明じゃない?」
「OK」
 将臣は近くの公園に入ると、自転車を藤棚の下に止めた。ふたりで降り立ち、暫く様子を見ることにする。
 湘南の方向は稲光がしている。晴れ上がった空に稲光とは、なんとも不思議な状況だった。
「このまま家まで飛ばしても良かったかもな。俺もお前も結構濡れてるぜ」
「…うん、そうだね…」
 望美は真っ直ぐに伸びた長い髪に、雫を滴らせながら、潤んだ瞳で将臣を見上げる。
 濡れた制服のシャツが、べっとりと望美の躰に張り付き、躰のラインを露わにしている。
 丸みを帯びた柔らかな躰が、将臣の奥深い場所に住むオスの欲望に火を点けた。
 望美も自分に欲情してくれているのだろうか。濡れたせいでは胸に張り付いたシャツをじっと見ている。どこか震えているようにも見えた。
「寒いか?」
「大丈夫だよ…」
 自分の躰を抱きしめ震える姿は、強がっているように思える。
「大丈夫そうには見えねぇよ」
 将臣は震える望美の肩を取る。髪が濡れ、潤んだ瞳は誰よりも将臣を煽った。
 こんなに自分のオスを煽るメスはいない。ギラギラした獲物を捕獲するような眼差しで、望美をひとりの女として見た。
「…将臣君…」
高 く掠れた声で名前を呼ばれれば、背筋がゾクリとする。
 堪らない。
 オスが熱を帯びて一気に沸騰した。
将臣は濡れたシャツを脱ぎ捨てると、剥き出しになった胸に望美を抱いた。
 驚いた甘くセクシュアルな吐息が、望美の濡れた唇から漏れる。望美も自分を『異性』と感じてくれているのが、嬉しかった。
 全身のありとあらゆる細胞が、強く化学変化を起こし始める。
 こんなことは将臣にとっては初めてだった。正直、望美に惚れていると気付くまでは、火遊びをした。だが一度もここまで煽られたことなどなかった。
 望美だけだ。
 ここまで自分を煽ってしまうのは、望美以外にいない。
「…望美」
 名前を呼ぶと、愛しい少女は顔を上げた。幾分か頬を紅潮させ、表情は艶が滲んでいる。
「将臣くん…」
 柔らかな頬に触れると、とても温かかった。
「寒いか?」
「…寒くないよ…。それよりも熱いよ…」
「俺も熱い…」
 将臣は膝を曲げると、望美と同じ視線になった。宝石よりも光り輝く瞳を覗きこむと、清らかな湖の底のように澄んでいる。
「俺をもっと温めてくれ…」
 好きだと、素直に言えない。
 言ってしまえば、『幼なじみ』と言う名の危ういバランスが取れた自分たちの関係が、壊れてしまうような気がしたから。
 たった一言が言えない。だから、言葉よりも雄弁な気持ちを唇に乗せる。小さくも熱い恋の願いを込めて、将臣は望美に口づける。
 最後のひと鳴きをする蝉。
 神様の涙のような天気雨。
 注いだ混じり気のない太陽の光。
 秒針のない砂時計のように、緩やかな奇跡の時間が刻まれる。
 1シーン、1シーンが脳裏に印象的にプリントされた。
 夏の終わりの華やいだ出来事。
 キスは神様の涙とひなたの味がした  

   *

 あれ以上の切なくも幸せな夏を経験したことはない。
 もう四度もこの場所で夏を迎えたのに、あれほど狂おしく、心に響くものはなかった。
 将臣にとっては、遠い遠いセピア色の夏。春に望美と再会した時にも、鮮やかに思い出された夏。
 そして、想い出の季節に、また望美との再会を果たした。これが吉か凶かは、自分にも解らない。
 ただ解ることは、もう、あれ以上の夏を経験することなんて、出来やしないだろう。
 この時空に来てから、望美には言えないほどに女を抱き、人を殺めるような、ギリギリの生を生き抜いてきた。
 今更、望美をこんな状況に引きずり込む訳にはいかない。
 木立に寄りかかり太陽を見ていると、不意に優しい温もりを感じた。
「将臣君、こんなところでどうしたの?」
 記憶よりも華やかな望美な声が、心に染み込んでくる。
「息抜き。お前こそ何をしているんだよ」
「私も息抜きだよ。ぶらぶら散歩しているの。本宮までまだまだだしね。ちゃんと息抜きしないとね」
「だな」
 望美は将臣の横に並ぶと、雲ひとつないクリアーな空を見上げた。
「将臣君、また一雨くるかもしれないよ。私には解るの」
「また気象予報士春日望美か? それとも白龍の神子殿は、天気も解るか?」
 将臣はわざとからかうように言い、望美を拗ねさせる。こういう子供っぽい表情も好きだった。
「もう! 茶化して!」
「まあ、お前は奇妙な勘が昔からあるからな。また、雨が降るかもな。マジで」
「…あの時みたいにね」
 望美もまたあの特別な夏に想いを馳せているのだろう。その眼差しは、遠い時空を見ているようだった。
「散歩しようよ」
「ああ」
 望美はニッコリと笑うと、将臣の一歩前を歩く。子供の頃と同じように、無邪気に先を急ぎたがる。
「早く、行こうよ! 将臣君!」
 望美は一歩足を踏み出した瞬間に、お約束にも木の根に躓いた。こんなところも変わってはいない。
「きゃあっ!」
「おっと…!」
 将臣は腕で望美を抱き留めると、その柔らかさに戸惑った。記憶の中に住む望美よりも、柔らかくそして綺麗なラインだった。
 将臣は眉を寄せる。自分の気持ちが、赦されないような気がしたから。
 悪い意味で変わってしまった自分。良い意味で変わらない望美。その立場の差が、心を打つ。
「…あ、有り難う…」
 強張った顔を見て、望美が明らかに困惑していたのは確かだった。将臣は直ぐに何時もの表情に戻る。
「相変わらずなヤツだな。お前。お約束にもほどがある」
 将臣は望美の額を指で弾き、わざとバカにしたように笑う。自分の、複雑な気持ちを隠したかった。
「将臣君だって相変わらずだよ! イジワルなのは同じだもん!」
 望美は憤慨したように鼻を赤くして怒っている。将臣には、それが愉快でたまらない。
 きらきらした時間が、また戻ってきたように思える。とても貴重な、宝物みたいな時間だ。
「こうしねぇと、お前はまともに歩けねぇみてぇだからな」
「へ?」
 将臣は望美の小さな手を取ると、しっかりと握って、歩き始めた。望美は可愛いらしく照れながら着いてくる。
「将臣君…。優しいところも変わらないよ…」
 甘い唇から呟かれた言葉が、珠玉のように思えた。
 ふたりで歩いていると、あの時と同じように、冷たい雫が頬に落ちた。将臣が空を見上げると、大粒の雨が降りて来る。
 あの時と同じ。天気雨だ。
「将臣君…っ! 雨だよっ!」
「望美! 走るぞ!」
「うん!」
 あの時と同じように、明るくクリアーな空に烈しい雨。
 将臣と望美は、ふたりして木陰に避難をした。
 お互いの躰が雨によって濡れる。
 ふたりはびしょ濡れの姿で見つめあう。官能的な空気が、肌に纏わる。
意識し過ぎて、総てが敏感になる。胸が痛いぐらいに鼓動を刻み、全身が熱くてたまらなくなった。
 望美は震えていた。あの時と同じように切なげに。
「…望美…っ!」
 華奢な望美を、将臣は力強く抱きしめる。鎖骨が軋むぐらいに強く、烈しく。
 今だけは、この瞬間だけは、望美を自分だけのものにしたかった。その腕に温もりを刻み付けたかった。
 自分だけのものだという証を刻む為に、着物を少しだけ肩からずらすと、将臣は望美の首筋を思いきり吸い上げる。噛み痕を強くつけてやりたかった。
 雨が烈しさを増す。将臣の情熱を追い立てていくかのように。
「…やっ…! 将臣君…っ!」
 苦しげな望美の声に、将臣ははっとする。愛しい余りに、冷静さを欠いていた。欲望の余りに、強く奪い過ぎた。
「すまねぇ…」
「だ、大丈夫だよ…」
 望美は笑ってはくれたが、どこか切なげな眼差しだった。
 そんな瞳を見せられると、たまらなくなり、将臣は俯いた。
 全身に血がたぎる。冷まさなければ意味はない。将臣は、熱い感覚を断ち切る為に顔を上げると、雨のなか飛び出していく。
「将臣君…っ! 濡れるよ!」
「いいんだ。頭を冷やしたいだけだ」
 将臣は低い声で言うと、望美が見えない場所まで走ると、そのまま雨に打たれた。まるで、懺悔をするかのように。
 空を見上げると青い空。なのに雨が、涙のように烈しく降る。
 将臣は雨の行方を追いながら、神様が自分たちの恋に、嘆き哀しんでいるように思えた。

         THE END




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