晩夏から初秋にかけての天気は、いつも不安定だ。信じられない人間の心のように、ころころ変わってしまう。 いつものように江ノ電に揺られて、のんびりと帰宅する。望美は車窓から、雲ひとつない空を、じっと見つめていた。 「将臣君、また雨降りそうだよ」 「はぁ? こんな天気がよいのに、雨なんか降るはずねェだろ!?」 将臣は全くお話にならないとばかりに軽くあしらうと、ドアに逞しい背中を凭れさせた。 「私には解るの!」 「じゃあ、お前、気象予報士になれよ」 「うん! なる!」 望美は鼻息荒くしながら、力強く宣言する。まるで子供が負けず嫌いに宣言しているようだ。 「『春日望美の明日のお天気』なんてやったら、きっと疲れたリーマンが、お前のにぱ〜とした笑顔に、癒やされるんじゃねぇの? 俺は癒やされねぇけれど」 「ったく! 将臣君はいっつも一言多いんだから!!」 望美がぷりぷり音を立てて怒りながら、将臣の胸を叩く。子供の頃からの、ふざけあいっこの定番だ。だが、一度叩いたところで、望美は叩くのを止めてしまった。 「……」 「どうしたんだよ、望美」 固まってしまった望美を、将臣は怪訝そうに眺めた。じっと見つめると、どこか戸惑っているように見える。 その表情に『大人の女』を感じてしまい、将臣は眉間に深い皺を刻んだ。どうかしている。自分のうちにあるオスが荒れ狂うような気がして、胃が強張った。 「ごめん、怒った?」 望美が困ったように、将臣の機嫌を視線で探ってくる。 「別に怒っちゃいねぇよ」 「怒ってる!! その顔見たら!」 「怒ってねぇって!!」 将臣は声を荒げた自分に溜息を吐くと、望美の頭にぽんと自分の手を乗せた。 「マジで怒ってねぇから。あんまり気にするな」 「うん…。私もちょっと戸惑っちゃった。将臣君があんまり…」 望美は言葉を濁すと、頬を少しだけ赤らめた。 「何だか、大人になっちゃったなあって」 「何だよそれ?」 「…その逞しくなったって言うか…」 望美はこれ以上言えないとばかりに、はにかんでしまう。上目遣いで見せた眼差しが、純粋で華やいでいた。 「バーカ、いつまでもガキのままなわけねぇだろ? 俺もお前も」 自分で言った一言が酷く胸にしみこんだ。それは望美も同じようで、心許ない顔をしている。 いつまでも子供ではいられない。それは生きていく上での自然の摂理だ。だがその事実に胸を痛めるのは、何故だろうか。 いつまでもこうして、じゃれ合うことが出来ないからだろうか。 お互いに『幼なじみ』と言う名の、ふかふかのゆりかごに揺られ、いつまでもしがみついていた。そこから出てしまうのは、もう時間の問題かも知れない。 胸が痛くて、これ以上何も言う気にはなれなくて、ふたりとも押し黙ってしまった。 空を見上げると、相も変わらず脳天気に、雲一つなく晴れ上がっている。 ふたりで車窓から見える空を、ただぼんやりと眺める。 将臣は視線がかなり下になってしまった望美を見つめながら、確実に蕾は大きくなり、華を咲かせ用としていることを感じた。将臣すらも惑わせてしまう華麗な花を 最寄り駅に着いて、いつものように駐輪場に向かう。今日はふたりとも言葉数が少なくなってしまう。 荷台に跨ると、望美はぽつりと呟いた。 「雨、降るかな?」 「降らねぇだろ? たぶん」 将臣は自転車のハンドルを強く握ると、スムーズに駐輪場から出た。 家に向かって暫く走ると、頬に冷たい雫が下りてくる。空はこんなにからっとしているのに、雨だけが激しく冷たい。 「ほら、言った通りだったでしょ?」 得意げに言う望美に、将臣は苦笑しながら頷く。 「ああ。お前の勝ちだ。で、将来の気象予報士さんは、傘ぐれぇは持っているんだろうな?」 「持ってないよ。だってさっき、何となく、雨が降るかなあって、思っただけだもん」 望美はあっけらかんと言う。小さな頃から、不思議なところはあったが、時々、こうやってものの見事に予想して見せる。何か特殊な力があるのではないかと、思ったこともある。 「天気雨だな。ヘンな気分だ」 「狐の嫁入りって言うもんね。だけど、何だか神様が泣いてるみたい。何か哀しいことがあったのかな…」 とりとめのない話のはずなのに、望美の一言は、将臣をハッとさせる。自分に流れる血が、切なさを訴えているような気がする。 不意に、天気雨が激しさを増す。 「急ぐぞ!」 「でもびちゃびちゃだよ! 直ぐ止むなら、雨宿りした方が賢明じゃない?」 「OK」 将臣は近くの公園に入ると、自転車を藤棚の下に止めた。ふたりで降り立ち、暫く様子を見ることにする。 湘南の方向は稲光がしている。晴れ上がった空に稲光とは、なんとも不思議な状況だった。 「このまま家まで飛ばしても良かったかもな。俺もお前も結構濡れてるぜ」 「…うん、そうだね…」 望美は真っ直ぐに伸びた長い髪に、雫を滴らせながら、潤んだ瞳で将臣を見上げる。 濡れた制服のシャツが、べっとりと望美の躰に張り付き、躰のラインを露わにしている。 丸みを帯びた柔らかな躰が、将臣の奥深い場所に住むオスの欲望に火を点けた。 望美も自分に欲情してくれているのだろうか。濡れたせいでは胸に張り付いたシャツをじっと見ている。どこか震えているようにも見えた。 「寒いか?」 「大丈夫だよ…」 自分の躰を抱きしめ震える姿は、強がっているように思える。 「大丈夫そうには見えねぇよ」 将臣は震える望美の肩を取る。髪が濡れ、潤んだ瞳は誰よりも将臣を煽った。 こんなに自分のオスを煽るメスはいない。ギラギラした獲物を捕獲するような眼差しで、望美をひとりの女として見た。 「…将臣君…」 高 く掠れた声で名前を呼ばれれば、背筋がゾクリとする。 堪らない。 オスが熱を帯びて一気に沸騰した。 将臣は濡れたシャツを脱ぎ捨てると、剥き出しになった胸に望美を抱いた。 驚いた甘くセクシュアルな吐息が、望美の濡れた唇から漏れる。望美も自分を『異性』と感じてくれているのが、嬉しかった。 全身のありとあらゆる細胞が、強く化学変化を起こし始める。 こんなことは将臣にとっては初めてだった。正直、望美に惚れていると気付くまでは、火遊びをした。だが一度もここまで煽られたことなどなかった。 望美だけだ。 ここまで自分を煽ってしまうのは、望美以外にいない。 「…望美」 名前を呼ぶと、愛しい少女は顔を上げた。幾分か頬を紅潮させ、表情は艶が滲んでいる。 「将臣くん…」 柔らかな頬に触れると、とても温かかった。 「寒いか?」 「…寒くないよ…。それよりも熱いよ…」 「俺も熱い…」 将臣は膝を曲げると、望美と同じ視線になった。宝石よりも光り輝く瞳を覗きこむと、清らかな湖の底のように澄んでいる。 「俺をもっと温めてくれ…」 好きだと、素直に言えない。 言ってしまえば、『幼なじみ』と言う名の危ういバランスが取れた自分たちの関係が、壊れてしまうような気がしたから。 たった一言が言えない。だから、言葉よりも雄弁な気持ちを唇に乗せる。小さくも熱い恋の願いを込めて、将臣は望美に口づける。 最後のひと鳴きをする蝉。 神様の涙のような天気雨。 注いだ混じり気のない太陽の光。 秒針のない砂時計のように、緩やかな奇跡の時間が刻まれる。 1シーン、1シーンが脳裏に印象的にプリントされた。 夏の終わりの華やいだ出来事。 キスは神様の涙とひなたの味がした * あれ以上の切なくも幸せな夏を経験したことはない。 もう四度もこの場所で夏を迎えたのに、あれほど狂おしく、心に響くものはなかった。 将臣にとっては、遠い遠いセピア色の夏。春に望美と再会した時にも、鮮やかに思い出された夏。 そして、想い出の季節に、また望美との再会を果たした。これが吉か凶かは、自分にも解らない。 ただ解ることは、もう、あれ以上の夏を経験することなんて、出来やしないだろう。 この時空に来てから、望美には言えないほどに女を抱き、人を殺めるような、ギリギリの生を生き抜いてきた。 今更、望美をこんな状況に引きずり込む訳にはいかない。 木立に寄りかかり太陽を見ていると、不意に優しい温もりを感じた。 「将臣君、こんなところでどうしたの?」 記憶よりも華やかな望美な声が、心に染み込んでくる。 「息抜き。お前こそ何をしているんだよ」 「私も息抜きだよ。ぶらぶら散歩しているの。本宮までまだまだだしね。ちゃんと息抜きしないとね」 「だな」 望美は将臣の横に並ぶと、雲ひとつないクリアーな空を見上げた。 「将臣君、また一雨くるかもしれないよ。私には解るの」 「また気象予報士春日望美か? それとも白龍の神子殿は、天気も解るか?」 将臣はわざとからかうように言い、望美を拗ねさせる。こういう子供っぽい表情も好きだった。 「もう! 茶化して!」 「まあ、お前は奇妙な勘が昔からあるからな。また、雨が降るかもな。マジで」 「…あの時みたいにね」 望美もまたあの特別な夏に想いを馳せているのだろう。その眼差しは、遠い時空を見ているようだった。 「散歩しようよ」 「ああ」 望美はニッコリと笑うと、将臣の一歩前を歩く。子供の頃と同じように、無邪気に先を急ぎたがる。 「早く、行こうよ! 将臣君!」 望美は一歩足を踏み出した瞬間に、お約束にも木の根に躓いた。こんなところも変わってはいない。 「きゃあっ!」 「おっと…!」 将臣は腕で望美を抱き留めると、その柔らかさに戸惑った。記憶の中に住む望美よりも、柔らかくそして綺麗なラインだった。 将臣は眉を寄せる。自分の気持ちが、赦されないような気がしたから。 悪い意味で変わってしまった自分。良い意味で変わらない望美。その立場の差が、心を打つ。 「…あ、有り難う…」 強張った顔を見て、望美が明らかに困惑していたのは確かだった。将臣は直ぐに何時もの表情に戻る。 「相変わらずなヤツだな。お前。お約束にもほどがある」 将臣は望美の額を指で弾き、わざとバカにしたように笑う。自分の、複雑な気持ちを隠したかった。 「将臣君だって相変わらずだよ! イジワルなのは同じだもん!」 望美は憤慨したように鼻を赤くして怒っている。将臣には、それが愉快でたまらない。 きらきらした時間が、また戻ってきたように思える。とても貴重な、宝物みたいな時間だ。 「こうしねぇと、お前はまともに歩けねぇみてぇだからな」 「へ?」 将臣は望美の小さな手を取ると、しっかりと握って、歩き始めた。望美は可愛いらしく照れながら着いてくる。 「将臣君…。優しいところも変わらないよ…」 甘い唇から呟かれた言葉が、珠玉のように思えた。 ふたりで歩いていると、あの時と同じように、冷たい雫が頬に落ちた。将臣が空を見上げると、大粒の雨が降りて来る。 あの時と同じ。天気雨だ。 「将臣君…っ! 雨だよっ!」 「望美! 走るぞ!」 「うん!」 あの時と同じように、明るくクリアーな空に烈しい雨。 将臣と望美は、ふたりして木陰に避難をした。 お互いの躰が雨によって濡れる。 ふたりはびしょ濡れの姿で見つめあう。官能的な空気が、肌に纏わる。 意識し過ぎて、総てが敏感になる。胸が痛いぐらいに鼓動を刻み、全身が熱くてたまらなくなった。 望美は震えていた。あの時と同じように切なげに。 「…望美…っ!」 華奢な望美を、将臣は力強く抱きしめる。鎖骨が軋むぐらいに強く、烈しく。 今だけは、この瞬間だけは、望美を自分だけのものにしたかった。その腕に温もりを刻み付けたかった。 自分だけのものだという証を刻む為に、着物を少しだけ肩からずらすと、将臣は望美の首筋を思いきり吸い上げる。噛み痕を強くつけてやりたかった。 雨が烈しさを増す。将臣の情熱を追い立てていくかのように。 「…やっ…! 将臣君…っ!」 苦しげな望美の声に、将臣ははっとする。愛しい余りに、冷静さを欠いていた。欲望の余りに、強く奪い過ぎた。 「すまねぇ…」 「だ、大丈夫だよ…」 望美は笑ってはくれたが、どこか切なげな眼差しだった。 そんな瞳を見せられると、たまらなくなり、将臣は俯いた。 全身に血がたぎる。冷まさなければ意味はない。将臣は、熱い感覚を断ち切る為に顔を上げると、雨のなか飛び出していく。 「将臣君…っ! 濡れるよ!」 「いいんだ。頭を冷やしたいだけだ」 将臣は低い声で言うと、望美が見えない場所まで走ると、そのまま雨に打たれた。まるで、懺悔をするかのように。 空を見上げると青い空。なのに雨が、涙のように烈しく降る。 将臣は雨の行方を追いながら、神様が自分たちの恋に、嘆き哀しんでいるように思えた。 THE END |