手を繋いだ先には…


 最近の日課と言えば、毎日お隣りに行き、他愛ない話をすること。
 庭に面したリビングの掃き出し窓のところにじっくり腰を落ち着けて、将臣と話をするのが、ここのところ最大の愉しみになっている。
 それは勿論、将臣の心のリハビリを兼ねているが、本当は望美こそリハビリになっている。
 今日も将臣相手にお喋り。長谷の鎌倉いとこでとっておきのきんつばも買ってきたし、準備は万端だ。
「こんにちは」
 望美が有川家の格子戸をくぐり抜けると、玄関先で譲とかちあった。
「譲くん、クラブ?」
「はい…」
 譲は苦悩するようにスッと目を細めると、望美の顔を複雑な表情で眺めてくる。
 余りに深刻な表情だったから、望美は胸に矢が重苦しく突き刺さった気分になる。切ない気分だ。
 八葉たちが還ってからというもの、譲は明らかに望美を避けるようになっていた。
 以前のように接して貰えないのが哀しくて、望美は長い友人を亡くした気分になっていた。
「…こんにちは、先輩。兄さんですか?」
 厳しくこちらを責めるような視線に目を合わせることが出来ずに、望美は気まずい気分のままで俯く。
「うん、いるかな?」
「先ほど庭にいましたけれど」
「有り難う」
 これ以上冬の鈍色の昊のような雰囲気には堪えられない。望美はシンプルな挨拶をすると、するりと横を擦り抜けようとした。
「先輩…!」
 魂の奥底から搾り出されたような声に行く手を阻まれ、譲の腕にしっかりと捕らえられる。
 今まで弟のように思っていた相手が、突然、男に豹変する。
 余りにもの激情に、望美はうろたえることしか出来なかった。
「俺じゃ駄目ですか!? 先輩…っ!」
 今まで堪えていたであろう感情が関を切り、望美に向かって逆流してくる。
 だがその強さをもってしても、望美は動かされやしない。
 胸は痛い。
 そのような感情を持ってくれていることは嬉しい。
 だが受け入れられないのは、もう人生を賭けると決めた相手がいるから。
「…譲くん…ごめんね…。私…将臣くんじゃないと…」
 唇を噛むと血の味がした。それはまるで譲の心から吹き出した血のように思えた。
「…先輩…っ!」
 腕に強く指が食い込んだところで、かさりと物音がし、望美の心臓は飛び出すほどの勢いで跳ね上がった。
「すまねぇ、ちょっと外に出たいんだけれどな」
 クールに響く低音は、まるでここに感情がないかのようだ。
「ま、将臣くん、待って! 私も…!」
 将臣が望美の掴まれた腕に一瞥を投げてくる。まるでそこから血が流れてしまうのではないかと思う程に痛かった。
 将臣は何も言わずにそのまま外に出ていく。慌てて望美も追い掛けようとしたが、譲に腕を掴まれたまま動けなかった。
「譲くん…っ!」
「…行かせません…! 今、先輩を行かせてしまえば俺はきっと一生…」
 譲はそれ以上は言葉に出来ないようで、声を詰まらせた。
 望美も同じ気分だった。
 ここで行かなかったら、一生後悔する。ひょっとすると一生譲を怨んでしまうかもしれない。
「…お願い…離して…。じゃないと私…」
 余りにつらすぎたのか、望美の声は震え、いつしか大粒の涙が零れ落ちて来た。
 現実をまじまじと見せ付けられたのか、譲が息を呑む。
「…先輩…」
 やる瀬ない程に力が抜けた声を出したかと思うと、望美の涙に降参したかのように譲が手を離してくれた。
「譲くん…」
 掴まれていた場所がまだジンジンと痛い。空回りをするお互いの心を象徴するかのように。
 譲の気持ちを想うと、胸の奥が張り裂けて散り散りになってしまいそうだった。
 恋をする気持ちは、望美こそ強く解っているから。
「…行って下さい…」
 掠れた声で紡がれた言葉は、余りに切なくて望美の心を掻き乱す。
「…うん、有り難う…」
 望美は踵を返すと、将臣の後を追う。
 この瞬間、有川兄弟との蜜月のようだった幼なじみの日々が終わりを告げたことを悟った。
 駅に向かって小走りをすれば、すぐに将臣に追い付く。視界に映った背中は、ひどく孤独を背負っているように思えた。
 その背中を護りたい。縋りたい。
 相反する感情が望美のなかで沸き上がり、泣きそうになる。
 このまま背中ごと抱き着きたい衝動に駆られて、望美は思わず広い背中に抱き着いていた。
「将臣くん…っ!!」
 切迫した想いにかられ、望美は将臣から離れない。
「どうしたんだよ?」
「将臣くんが…どこかに行ってしまうんじゃないかって私…」
 将臣に顔を見せられなくて、望美は顔を背中に押し当てたまま話す。
「…言っただろ? もう何処にも行かないって」
「うん。だけどね」
 声がひっくり返って、望美は泣いてしまう。まるで小さな子供が、お母さんに縋り付いているかのようだ。
「…ふたりでぶらぶらするか…」
「うん…」
 将臣の背中から恐る恐る離れると、しっかりと手を握り締めてくれた。
 繋がれた手は、望美の心に安寧を齎してくれる。
「どこ行く? 七里ガ浜か?」
「ううん。なんかぶらぶらと歩きたいよ」
「だったら大佛の小径は?」
「うん、良い感じ」
 ふたりは江ノ電に乗ることなく、長谷に向かって歩き始める。
 いにしえの香りがする路地は趣があり、いつもの騒ぎを忘れてしまいそうになった。
 静かで心が落ち着く路地裏だ。
 小さな頃も、将臣とふたりでこうして手を繋いで歩いたのを覚えている。
 走ったり、かくれんぼをしたり、ふたりはよく笑いながら過ごしたものだ。
 ふたりが歩いていると、幼稚園ぐらいの男の子と女の子が仲良く手を繋いで、ふたりの横を駆け抜けていく。
「…あ…」
 ふたりの姿が、記憶のなかにいる自分たちに重なる。
 こうして将臣と一緒に手を繋ぐのが、あの頃からどうしようもないぐらいに好きだった。
 指と指がしっかりと絡み合ったときめきを、今も簡単に思い出すことが出来る。
「…懐かしいね。小さい頃はいっつもこうやって手を繋いでいたよね…。だけど何時からだろう…。こうして頻繁に手を繋がなくなったの」
 俯きながら言うと、将臣は懐かしそうに口角を上げる。どこかノスタルジアに浸っているかのようだ。
「いつからだったろうな。きっとそれは俺達が異性だってことを意識し始めたからじゃねぇかな」
 確かにそうだ。男女の仲を越えて、ころころと育っていた時期を越え、お互いが明らかに一対の異なる存在と気付いた、小学生の中学年。
 あれから年を重ねるにつれて、自分たちの世界が出来、ふたりの間に距離が出来た。
 時空に行く前よりも、今のほうがより一緒にいて、こうして手を繋いでいる。
 ずっと傍にいたいのに、もどかしい程にふたりの距離が遠かった。
「だったら、今は意識していないの?」
「そうだな…」
 将臣は考え込むように黙り込むと、望美をじっと見つめて来た。
「…今のほうがお前を意識しているかもしれねぇな…」
 ぽつりと、まるで他人事のように将臣は呟く。言葉の響きは、望美の心を掻き乱していく。
 甘くそして狂おしいほどに熱く乱され、望美は鼓動の音で鼓膜が破れてしまうかと思うほどに、心臓を激しく跳ね上げさせた。
「…私は…意識し過ぎているよ…。じゃないと、毎日将臣くんとお喋りしたり、こうして着いて行ったりしないよ…」
 望美がぎゅっと手を握り締めると、将臣は想いに応えるかのように握り返してくれた。
「…どうしても将臣くんが良かったの…」
「俺もどうしてもお前が良かったけれどな」
「嘘」
「嘘じゃねぇよ」
 将臣は乱暴に言うと、望美を強く引っ張っていってくれる。
 まるで人生もこうやって引っ張って、引っ張られていくような気がした。
「…腕、見せてみろよ」
「ん」
 望美が譲に掴まれた側の腕を差し出すと、将臣は袖をめくり上げた。
 余りに強く掴まれたせいか、くっきりと指の痕がついていた。
「痛かっただろ?」
「痛くないよ。痛くても、私は将臣くんに着いて行きたかったんだよ」
 将臣は望美を眩しそうに見つめた後、くっきりと付いた痕に唇を落とした。
「…やっ…!」
「治療してやってんだよ」
 こんなに甘美な治療方法を望美は知らない。胸も躰の奥も、総てが触れられないと思うぐらいに熱かった。
 肌が震え、将臣を求めている。
 帯びた熱に、望美は甘い声を上げた。
 将臣は唇を外すと、何事もなかったかのように袖を下ろしていく。譲の付けた痣は、いつの間にか将臣のくちづけの痕に変わっていた。
 望美は顔を上げる。
 すると陽射しで輪郭がぼやけた将臣の精悍な顔が、視界に入ってきた。
 目が眇むほどに、将臣の存在が眩しい。
 どこへも行けないような気分になり、望美は立ちつくす。
 静かな大佛の小径。
 ふたりは、東勝寺橋から動けないでいる。
 時間が止まる。
「…離れるかよ、お前から…」
 将臣の引き締まった顔が、望美の顔に近づいてくる。
 そこから先は…。
 唇が触れられた瞬間に、もう二度と離れない永遠を見出した------
 繋がれた手は離さない。
 二度と離れないから。
 望美は恋心を抱きしめ、切ない幸せを知った-------
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迷宮の後です。





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