☆爪紅☆


「有川君!」
 電車に乗り込もうとして、突然、背中に突き刺さった声に、望美と将臣は振り返った。そこには肩までの髪をふわふわさせた、柔らかい雰囲気の女の子が立っている。大きな瞳を揺らがせて、将臣だけを真っ直ぐと見ていた。
 望美は心の中で「またか」と呟きながら、事の成り行きを見つめる。
 望美は完全に乗り込んでいたが、将臣は車内に一歩踏み入れた足を、ホーム側に引っ込めた。
 そんなことをして欲しくないと、本当は言いたいくせに、喉まで出かかったまま言えない。心臓の鼓動だけが、やけに煩い。
「…行き発車します」
 ぐずぐずしている間に、駅員の慇懃な声と発車ベルがホームに響き渡り、望美の鼻先でドアが閉まった。
「「あっ…!」」
 ふたりの声が重なったが、もう後の祭だ。二人の間が、一枚のドアで隔たれる。
 ただ、将臣が電車に乗れなくて、自分が乗り込んだだけ。なのに、遣る瀬無い気分でいっぱいになる。まるで、同じ道を歩いて来て、突然引き裂かれたみたいで、望美は胸がズキンと傷むのを感じた。
「…ろ!」
 ガラス一枚隔てたドアと、電車が走り出す音が邪魔をして、将臣が何を言ったか全く聞こえない。
「何!? 将臣君…! 聞こえないよっ!」
 将臣と離れ離れになった不安からか、望美は半ばパニックに陥ってしまう。いつもなら冷静に対応出来るはずなのに、今日に限って半泣きになるぐらいに辛かった。
 涙で瞳に映る視界は歪む。
 いつの間にかホームが遠くになってしまい、望美はおびょおびょと泣いた。これでは、感情が上手くコントロール出来ない子供のようだ。
 将臣と一緒に遊んでは、帰りにべそをかいていたあの頃。小さな時と、望美は何ら変わってはいないのだ。寂しがりやで、いつも将臣の後ばかりを追い掛けていた小さな望美が、まだ心の奥に住んでいる。将臣を求めて泣いているのだ。
 一緒にいるのが当たり前。同じ道を歩くのが当たり前。そんな感覚で、今までずっとやってきた。
 いつまでもどこまでも、ふたり一緒にいたい  傍にいられるなら、それで良かった。そういう意味では、
”幼なじみ”の肩書きは都合が良かった。
 こちらから「好き」だと言って、もし傍にいられなかったら。もし、嫌われたら。臆病な気持ちが、幼なじみの地位に甘んじていた一番大きな原因だった。。
 そして、破綻した理論の向こう側にある、『何時までも”幼なじみ”だけでは隣にいられない』ことを、気付かないふりをしていた。
 本当は知っていた。ただ、”幼なじみ”という心地良い関係を壊すことが、怖かったから、現実を無視していただけ。
壊れる瞬間を、臆病な恋心が、だらだらと後回しにしていただけなのだ。
 それが今、骨身に染みる。小さな女の子のままの心に染みてくる。
 先に壊すチャンスなんてあったのに。
 もし気持ちが報われないとしても、態度を変えて、幼なじみの関係を否定するような将臣ではないのに。
「バカだな…私…」
 望美は誰にも聞こえないように、ひとりごちた。
 緩やかに走る江ノ電。小さなコンパートメントが、今は拷問を待つ控えの間のように思えた。
 ただ、ホームと車内に別れてしまっただけ。なのにこんなに切なくて、胸が痛いのは、どこかで自分たちの将来を予感させるような気がしたから。
 将臣と離れ離れになるのは嫌だ。
 それだけでも泣きたくなる。
 こんなネガティブな自分を見たら、将臣なら怒るに決まっている。
 これは象徴的な何かかもしれないと考えるだけで、背筋が凍り付いた。
将臣を呼び止めたあの女の子は、きっと告白をしただろう。
 柔らかくてふわふわとした、男なら憧れずにはいられない女の子。
 今までずっと身近にいたから、将臣の好みは解っているつもりだ。正に、将臣が好きそうな女の子だった。
 望美は唇を噛み締め、溢れかえる涙を、何とか堪えようとする。
 こんなことなら、ちゃんと「好き」だと言えば良かった。
 小さな頃から、ずっと将臣の後ろばかりを追い掛けて、背中を見て、生きてきたのだから。
 小さな望美のナイトはずっと将臣だった。それは今まで変わらなかったのに。
 それが恋だと自覚をするには、ごくごく最近までなかったが、今思えば、細胞の総てが囃し立てていたのかもしれない。「早く気付きなさいよ」と。
 絶望にも似た気分になる。
 どんよりと暗くなって、息が出来ないぐらいに胸が痛んだところで、携帯電話が鳴った。
 二ツ折の携帯を開けてみると、メール着信のサインが出ていた。将臣からで、望美は慌ててそれを見た。
”自転車置き場で待っていろ”
 将臣らしいシンプルなメールに、また涙が滲んでくる。
 結局、想いを受け入れてあげたのだろうか。望美は酷く気になった。
「……駅、……駅!!」
 最寄の駅に着いて、望美はとぼとぼと駐輪場に向かう。荷台に乗り込み将臣の背中に縋り付いたら、泣いてしまうかもしれない。
 ぼんやりと考えていた時だった。
「春日さん!」
 名前を呼ばれて、望美ははっと顔を上げる。そこには、同じ高校の制服を着た男子生徒がいる。中学から一緒だと記憶しているが、名前も思い出せないぐらいに、薄い存在だった。
「あ、こんにちは」
 月並みな挨拶しか出来ないぐらいの”知り合い”だった。
「こんにちは。有川は?」
 いきなり、将臣の名前を出すところを見ると、きっと『にこいち』だと思われているのだろう。
「将臣君は一本後の電車に乗っているの。だからここで待っているんだ」
「そう」
 どこかホッとしたように溜め息を吐くと、男子生徒は照れたように頭をかいた。
「だったら、俺に少しだけ時間をくれる?」
「うん。いいよ」
 望美は素直に応じると、少しだけ笑顔を見せる。
「…俺な、中学の頃から、君のことが好きだったんだ…。ずっと有川が、君をガードしていたから、中々言えなかった…」
 きっと決死の告白なのだろう。一生懸命自分の想いを伝えてくれている。
 その姿勢が、望美の心に深く染み込んだ。自分にはない快い潔さだ。将臣への温めていた恋心が、切ない痛みを覚える。
 堂々とした勇気があるのが、とても羨ましい。だからこそ、ここは曖昧にしてはならない。きちんと伝えてあげなければならない。真実を。
「ごめんなさい、私、好きなひとがいます」
「有川?」
 眉を潜めながら、少し悲しげにそのひとは言った。瞳には諦めの微笑みが浮かんでいる。
 望美は驚いたように息を小さく呑み、目を大きく見開く。そんなに簡単に、気持ちは晒されているものなのだろうか。
 胸が詰まった。
「…どうして解ったの…?」
 望美は瞳に泉のような涙が溢れるのを感じながら、切ない気持ちで呟いた。
「それは簡単なことだよ。だって…、僕はずっと君ばかりを見ていたんだから。だから、君が誰を見ていたか、知っていたんだよ…」
 淡々と話すと、にっこり笑って礼を言った。その爽やかさに、望美も思わず頭を下げて笑ってしまう。
 本当に羨ましい男性だ。こんな風になれたらいいのにと、思わずにいられないほどの凛然とした心を持っている。
「私こそ有り難う。私なんかを好きになってくれて、有り難う」
 望美が言い終えた時だった。
「望美…」
 険しくも低い声が背中から聞こえ、振り返ると、将臣が眉間にシワを寄せて立っていた。横には、先ほど将臣に告白した女の子がいる。
 そこは自分の場所なのに取らないでと、心が叫んでいる。視界に入るだけで痛くて、望美は視線を伏せた。
 躰も心も大きく震える。どうして良い変わらなくて、その場にただ佇むだけ。掌に汗が滲んだ。
「じゃあ、春日さん、また」
 気まずい雰囲気を察したのか、先ずは男子生徒が離れる。
「有川くん、またね」
 続いて、告白をした女の子も。ふたりとも自分の自転車を取りに行き、そそくさと駐輪場から出て行く。
 足音がして顔を上げると、将臣がじりりと近づいてきた。
「どうして怒ってるのよ?」
「別に。で、お前は告白されてたのかよ? アイツに見せたのは、良い笑顔だよな」
 将臣の声は、怒りと手を結んでいる。望美を捕らえる瞳は、激しさと脆さで揺らいでいた。
 近づく将臣の匂いも、眼差しも、躰も、すべてがオスに思える。望美は呼吸を速めた。
「ま、将臣君だって、告られたんでしょ!? で、受けたから、い、一緒にここまで帰って来たんでしょ!?」
 責める気などは毛頭ない。だが、どこかいきり立つ自分がいる。悔しいのか、嫉妬なのか、もう解らない。
「ああ。だが、ちゃんと断った。一緒にここに来たのは、同じ方向だってだけだ」
 将臣は面倒くさそうに髪をかき上げながら言うと、望美をじっと見た。
「お前はどうなんだよ?」
 将臣の躰から、烈しい威圧感が滲み出ている。恐ろしいぐらいのそれに、望美は息を詰まらせた。
「ここで声をかけられただけだよ。将臣君が一緒じゃないってことを確認したら、告られたの」
 望美は声を震わせながら、事の成り行きを説明する。こんなに緊張をするのは、久しぶりだった。
「で、どうしたんだよ」
 将臣は顎をしゃくると、その先を言えとばかりに睨んでくる。望美は何だか怒られている気分になった。
「断ったよ、ちゃんと」
「何て!?」
 将臣はとことんまで訊かないとすまないのか、望美を追いつめてくる。言葉で、視線で。
「なんと断ったんだよ、望美!?」
「それだったら、将臣君だって…!!」
 望美もまた、将臣にたたみかけていく。喧嘩をしたら叶わないのは解っているのに、どうしても対抗せずにはいられない。
 結局は仕掛けたのに、先に折れたのは将臣だった。観念するとばかりに溜息を吐く。
「俺はちゃんと断った。他に好きなヤツがいるってな。正当な理由だろ?」
 将臣は厳しい顔のまま、何事もないかのように淡々と言った。だがこの言葉ほど、望美の心に突き刺さるナイフはなかった。
 胸の痛みを耐えるために、唇を噛んだことを知られたくなくて、望美はずっと下を向いていた。
 ”他に好きなひとがいる”  
 これ以上の凶器はないだろう。
「お前はどうなんだよ?」
 将臣がきちんと離してくれたのだから、ここは正直になるしかない。望美は小さく唇を開いた。
「私も言ったよ? ”他に好きなひとがいる”って」
 ”好きなひとがいる”。そう呟くときだけは、将臣の瞳を真っ直ぐと見つめた。
「”好きなヤツがいる”か…。それで相手は納得したのか?」
 将臣は駐輪場の屋根を見ながらも、遠い場所を見ているように思える。
「うん。納得してくれたよ。将臣君のほうは?」
「俺も同じだ」
 将臣はようやく微笑みを瞳に滲ませて、望美を見てくれた。その甘やかな眼差しに、また胸が切なく痛む。
「ねえ、将臣君、好きな人って誰?」
 内心、望美の心は血が流れていたが、どうしても知りたくて、つい口にする。それが自分に徹底的なダメージを与えたとしても、構わなかった。
「俺の好きなヤツ?」
 将臣はフッと目を眩しそうに細めると、望美を真摯な眼差しでじっと見つめてきた。今までにないシリアスな雰囲気に、望美は心を射抜かれたように動けなくなる。
「どうしようもない女が好きだ。俺が好きなこと気づかずに、他の男に告られるような女」
 将臣は半ば茶化すように言うと、ほんの少し頬を赤らめた。
 紅が伝染したのか、そうではないのか。望美の頬もまた、しっかりと紅くなる。
 もしかして、もしかして。
 期待感が大きく膨らみ、望美の鼓動は一気に跳ね上がる。頬に触れると、熱い。
「お前はどうなんだよ」
 将臣は照れの混じった微笑みを浮かべながらも、どこか刺すような眼差しを持ったままだ。
「私? 私はどうしようもない男の人が好きだよ。私が電車の中にいるのに、わざわざホームに出て、告られるようなひと…」
 将臣の瞳から、刺すような厳しさが消えた。
 代わりに、深みを帯びた眼差しが、望美の瞳に下りてくる。もうどこにも、苛立った雰囲気などなかった。
「俺たち、お互いにどうしようもねえ相手を、好きでいるみてぇだな」
「そうだね」
 お互いに照れ隠しのように笑うと、自然に距離を近づける。萎縮した心が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
「もう置いていっちゃ、嫌だよ」
「解ってる。お前が泣きそうな顔して電車に揺られていくときは、正直、焦ったけれどな」
 将臣は望美の頬に触れると、ゆっくりと顔を近づけてきた。
 最初は小鳥のように触れるだけ。何度か触れていくうちに、やがて深いものになった。
 今まで『幼なじみ』と偽っていた時間が、唇の熱さで溶けていく。今度は『恋人』として、真実の時間を生きていくのだから。
 唇がお互いに触れていたのは、次の電車が来るまでの、僅かな時間。その間、幸せは大きくなるばかり。
 人の気配を感じて、ようやくふたりは唇を離した。
「行くか、望美」
「うん!!」
 ふたりで手を繋いで、自転車を取りに行く。
「ちょっと寄り道して、海にでも行こうぜ?」
「うん!!」
 望美は荷台に乗り込むと、将臣の背中にしっかりとしがみつく。ここは自分だけに許された場所だ。誰にも渡すつもりなんかない。
 望美はしっかりと将臣の躰に腕を絡めると、顔をくしゃくしゃにして微笑む。
 幸せの場所。
 だがこの場所が運命の渦の中で消えてしまうなんて、このときは少しも考えなかった
        THE END




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