秘密のささやき


 軽く抱きしめられたり、軽くキスをされるだけで、とろけるほどに幸福になれる。
 天気がいくら嵐だろうと、そんなことは関係ない。望美にとっては将臣が太陽であるから、ただ傍にいられるだけで、そこが日だまり以上に心地良いサイトになる。
 望美は将臣の横で、幸福過ぎる朝を迎えた。だいすきなひとの腕の中で迎える朝ほど幸福なものはないと思う。
「…今…何時だよ…」
「…えっと…7時だよ…」
 まだまだ思考が上手く働かず、望美はぼんやりと呟いた。
「起きるぜ」
「え!? まだ早いよ!」
「こうやってのんびりするのも良いけど、今日は綺麗に晴れているからな。スキンダイビングの仲間から、海に行こうってメールが来たんだよ。あ、お前も来いよ」
 将臣はベッドから下りると、素早くTシャツを上から被り、ジーンズを穿く。
「お前も早く仕度をしろよ」
「う、うん」
 望美は寝起きで顔が腫れているのを憂鬱に思いながら、カプリパンツにTシャツ、その上にパーカーを羽織った。
 顔を洗い、日焼け止めを塗ると、将臣に上から帽子を被せられる。
「早く言ってくれたら、お弁当の準備が出来たのに」
 悔しい気分で呟くと、将臣は苦笑した。
「いいって、突然言ったのはこっちなんだし」
 子供の頃から望美を宥めるときにはいつも頭を撫でてくる。まだ将臣の手の平が小さな頃から、心地良さはずっと同じ。胸の奥が収縮してきゅんと音が鳴るのも同じだ。
「朝飯は、適当に喰わねぇとな」
「べーグルとクリームチーズが残っているから、それに余った野菜を挟めばいいかな」
 望美は冷蔵庫を家捜ししながら、朝ごはんのメニューを決めた。
「本当は本格的な和食朝食にしたかったんだけれどな」
「嘘つけ」
 ふたりで協力して朝食の準備をした後、小さなダイニングテーブルで食べる。望美がひとり暮しを始めた時に買った大切なものだ。将臣と一緒に朝食が出来ればなんて幸福だろうかと、考えて買ったものなのだ。
 だから余計に愛おしい。
 大学に入ってからひとり暮らしを始めた。同時に将臣もひとり暮らしを始めたが、ふたりは”同棲”という形は取らなかった。
 お互いに相手を識り尽くしているところと、そうではないところがまだまだ沢山あり、程よい距離を保つことで、これらを埋めてきたのだ。
 ひとり暮らし同士だとは言っても、歩いて数分の距離だし、ほとんどくっついて過ごしている。望美の部屋には将臣の日常生活品が転がっているし、将臣の部屋もまたしかりだ。
 なので実質は、離れて暮らしているとは言えないのかもしれないが、それでもふたりは離れて暮らしてきた。
 お互いを尊重するかのように。
 朝食を終えて、マンションから出ると、気持ちが良いぐらいに見事に晴れていた。
 昨日までは嵐かと思えるほどの激しい雨が降っていたというのに、今日はあっけらかんとしている。きっと昨日の雨が要らないものを総て、洗い流してくれたのたろう。
 ふたりのマンションからちょうど中間地点に将臣は駐車場を借りている。
 そこまで歩いて、何時ものように車に乗り込んだ。
「どこでダイビングをするの?」
 シートベルトをしながら聴くと、将臣はフッと微笑んだ。
「鎌倉」
 望美は驚いて将臣を見る。鎌倉は今の時期サーファーが多く、ごった返している。
「鎌倉なんだ。なんだかんだ言って、あまり家に帰っていないから、帰りに寄るのも良いかもね」
「まあな」
 久しぶりの故郷。ひょっとして里帰り以外の目的で行ったことなどないのかもしれない。
「…何だか愉しみかも」
「そうだな。俺達の原点だもんな」
「うん」
 心がまるで小さな子供のように弾んでくる。遠足に行くような気分になりながら、望美は鼻歌を混じらせた。
「ご機嫌だな? 早起きをして良かったか?」
「勿論だよ!」
 力強く言えば、将臣は嬉しそうに頷いてくれていた。

 やはり日曜日だということもあり、車は渋滞に巻き込まれてしまった。
 将臣と一緒にいられるので望美は渋滞でも苦痛ではないのだが、やはり遅れてしまっては将臣の友人に申し訳が立たない。
「将臣くん、友達は平気なの?」
 望美が眉根を寄せながら、心苦しくきくと、何故か素っ頓狂な声を将臣は上げた。
「あ? あいつら? ああ、大丈夫だ」
「ホントに?」
「ああ、大丈夫だから、気を遣って心配すんな。お前はいつも大袈裟に考えるからな…」
 将臣はまた望美の頭に大きな手の平を乗せて、ぽんぽんと叩いてくる。それが心地良くて、望美は目を閉じた。
 地元の道を識り尽くしている将臣は、渋滞をくぐり抜け、比較的に空いている駐車場に車を停めた。
 時計を見ると、10時半だ。
「ねぇ、みんなに連絡をしなくても良いの?」
 不安げきいても、将臣は相変わらずの豪快さで大丈夫だと請け合う。
「お前は心配しすぎなんだよ」
「そうかな」
「そうだ」
 将臣は望美の手をしっかりと握ると、海岸に向かって歩いていく。
 陽射しが躍動感があって気持ちが良い。大きく深呼吸をすると、懐かしくて新鮮な磯の香りがした。
「あっ! 懐かしい! あの堤防! よく上って遊んだよね!」
 懐かしい風景を見せ付けられ、望美の辞書には、”ひとを待たせている”感覚は霧散してしまった。
 子供の頃に戻ったように、望美は将臣の腕を引っ張っていく。
「ったく…。お前はちっとも変わらねぇな」
 苦笑いしながらも、将臣はどこか楽しそうだ。屈託のない青空のような声が、機嫌の良さを現していた。
「だって久し振りなんだよ!」
「はい、はい」
 望美が堤防に上がると、将臣は下で見ていた。
「落ちたら受け止めてやるよ!」
「もう、失礼だなあ、将臣くんは!」
 絶妙のバランス感覚で望美が歩いていると、不意にバランスを崩す。
「うわっ!」
「望美っ!」
 将臣が腕を延ばしてくれたが、望美は反対側に落ちてしまった。
 望美が落ちたら直ぐに将臣が慌てて駆け寄ってくる。
 ぺたんと反対側に座り込み、望美は将臣にペロリと舌を出した。
「ここは落ちても低いから、尻餅で済むんだよ」
 地元人間だから識り尽くしているのだ。この堤防は、反対側とはほとんど段差がなく、階段程度であることを。
 望美がお茶目に笑っても、将臣の表情は強張ったままだ。それどころか益々厳しくなっていく。
 きつく睨まれて、望美は背筋に恐怖が立ち上るのを感じた。
「このバカッ!」
 低い声できつく叱責され、望美は思わずその身を縮めた。
 恐い。こんな将臣を見るのは久し振りだ。
 身を竦めて、泣きそうなぐらいに心臓をバクバクさせていると、不意に強く抱きしめられた。
 余りに強く切ない抱擁に息が出来なくなる。
「…またお前がいなくなると思ったじゃねぇか…」
 将臣の悲痛な叫びを心に受け止め、望美は涙を零した。
「…ごめん…。ごめんなさい」
「ごめんで済めば警察はいらねぇよな。だから俺がお前を拘束する」
 乱暴に左手を取られると、将臣はジーンズなポケットから指輪のケースを取り出した。
 もしかして…。
 今度はときめきで心臓がどうしようもないぐらいに鼓動を刻んだ。
 指輪はすんなりと望美の左手薬指に納まる。綺麗なピンクダイアモンドだ。
「お前は俺に一生捕まったんだぜ。覚悟しろ」
 嬉し過ぎて言葉に出来ない。
 望美は潤んだ瞳で、ただ将臣を見つめた。
「ダイビングは嘘。鎌倉でプロポーズしようと思ってた。お前のせいで計画が少し前倒しになったけれどな」
 照れ笑いをする将臣が愛おしい。望美はふんわりと微笑むと、将臣に抱き着いた。
「私を一生捕らえて下さい」
 きらきら輝く湘南の空も海も、空気も、祝福してくれている。
 ロマンティックなプロポーズ。
コメント

プロポーズ。
まあ、ふたりとも23,4てとこです。はい。





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