浴衣を手早く着て、髪をアップする。リップグロスを小指で塗れば、完成だ。 望美は何度も姿見で確認をした後に、隣へと向かった。 幼なじみは今頃、きっとうつらうつらとしているに違いない。 望美は、勝手知ったる有川家に上がり込むと、将臣の母親に声をかけた。 「こんにちはおばさん。おじゃまします」 「ゆっくりしていってね」 声をかけられると、望美は素早く将臣の部屋に向かった。 「将臣くん、入るよ」 「ああ」 ドアを開けるのと同時に声をかけると、将臣のけだるい声が響き渡った。 薄目を開けて望美の姿を確認すると、将臣は前髪を悩ましげにかきあげる。 眠たそうにしている将臣はとても色気があり、見つめるだけで鼓動が激しさを増した。 「…ねぇ、今日は何の日か識っている?」 覚えているときくのが正しいのかもしれない。だが望美は、わざと謎々をかけるかのように呟いた。 「今日か? 鳩の日。鳩サブレーが810円で安いぜ。今から、長谷に行くか?」 将臣はからかうようにニヤニヤと笑いながら、望美に顔を近付けてくる。 「た、確かに鳩サブレーは美味しいけれど、そんなんじゃなくって、これを見れば解るでしょ」 「…花火大会だろ?」 将臣はニヤリと微笑むと、望美を腕の中に閉じ込める。ふわりと男らしい香りがし、望美は胸の奥が切なく甘くなった。 「水中花火に、花のかまくらを表した数々の花火…だろ? 打ち上げは俺の部屋からも見られるが、流石に水中花火は見られねぇからな」 将臣は望美の躰を抱き寄せたまま、首筋に唇を宛てがってきた。強く吸い上げられて、望美は肌を震わせる。 「…ま、将臣くん…」 「涼しくなったら、花火大会へぶらぶらするか」 「…そうだね」 「その前に鳩サブレーを買うか?」 「美味しいものね」 将臣は望美の唇に掠るだけのキスをすると、うなじに指を這わせてきた。 「花火が終わったら、俺の部屋に来いよ」 「…いやらしいことするんでしょ?」 甘える声が響き渡り、将臣に熱っぽく笑われる。 「決まってる」 将臣は華やかに綺麗に笑うと、望美を軽く抱きしめてきた。 「支度するから待っていろよ」 「うん」 将臣は今日はただの花火大会だと思っているのか、態度がさらりとしている。 望美は胸にかかるペンダントをそっと握り締めると、胸にやる瀬なく痛い気持ちが滲んで行くのを感じた。 将臣が身支度を纏めている間、望美はじっと背中をみつめる。 小さな頃に交わした、夏の夜の華やかな約束。あの頃は、ふたりとも小さくて、本当の恋や愛がどのようなものであるかを、解ってはいなかった。 お互いに、まだまだ小さくて、男女の垣根などは全く感じられなかった。 ただお互いに”好き”という気持ちだけが、心に滲んでいたのだ。 小さな小さな、”将臣くん”と”望美ちゃん”。 ごくごく小さな頃から、名前を呼び捨てられていたから、望美にとっては、将臣は呼び捨ててくるものだった。 「さてと、支度が出来たから行くか」 「そうだね」 将臣に手を取られて、花火大会へと向かう。 しっかりと恋人繋ぎをしているというのに、どこか胸が痛い。 忘れてしまったのだろうか。 ふたりで家をこっそりと抜け出して、花火を見に行った幼い想い出を。 夏が遠ざかり始める風が、吹きおろす海岸での、甘酸っぱい想い出を、将臣は覚えているのだろうか。 浴衣の下に揺れる、錆びた指輪にチェーンを通したペンダント。 ずっと大切にしてきた指輪をくれたのは、横にいる大好きなひとなのに。 望美の心に暗い影が伸び、胸の奥が窒息してしまうほどに苦しくなった。 「…今夜、またまたまたまた家は俺ひとりだからな。ベッドから花火を見ても良かったんだけれどな」 「だって、将臣くんの部屋からだったら、花火をろくに見られないじゃない…」 「逆にお前の肌にいっぱい花を咲かせてやるじゃねぇか」 官能的で悪びれた笑顔に、望美は真っ赤になって将臣の広くて硬い背中を叩いた。 小さな頃から、頼ったり叩いたりしていた背中。だがそれも、いつの間にか逞しく、護ってくれるものになっている。 「って…!」 「えっちなことばっかり言うからだよー」 「健全な男なら当然の欲望だろ?」 将臣はわざとムッとしたように眉間にシワを寄せると、望美を更に近いところで抱き寄せてきた。 「こうしとかねぇと、お前はどこに行くか解らないからな」 「どこにも行かないよ」 「どうだか。リンゴ飴に綿飴、トウモロコシ…。お前の周りには誘惑がイッパイだからな。しっかりと手を繋いでおかねぇとな」 「もうっ! 私はそんなに食いしん坊じゃな…」 将臣を睨みつけようとして、望美は胸を突かれる。まるで迷子になってしまった子供のような心許ない切ない顔をしていたから。 こちらが泣きそうになるような表情に、望美は心が音を立てて軋むような気がした。 将臣が言っていた意味は、食べ物なんかじゃない。本当は望美の周りに潜む、様々な誘惑。 将臣から離れることなんて、もう考えられないというのに。 望美は将臣の傷ついた心を護るように、しっかりと手を握り締める。 「…食べ物の誘惑には乗るかもしれないけれど、それは将臣くんが傍にいるって、解っているからだよ。だから安心して、食べられるの」 将臣はスッと目を切なく細めると、望美に笑いかけた。 「解ってる、そんなこと」 将臣は更に近い位置で望美と寄り添うと、優しくも男らしいオーラで包み込んでくれた。 地元のせいか、穴場をよく識っているふたりは、人込みをかきわけて秘密の場所に向かう。 「タコ焼きとアメリカンドックとイカ焼きにトウモロコシは外せないからね!」 「はい、はい」 ふたりは途中で屋台に寄り、本日の夕食を調達する。普段ならきっと高いだけであまり美味しくない食べ物には見向きもしないが、今日だけは特別のような気がする。 ほくほくと夕食を買った後、望美は玩具のアクセサリーを扱っている屋台を見つけた。 柑橘系の想いが心に溢れてくる。 このような屋台で、小さな将臣に指輪を買って貰ったのだから。 吸い寄せられるようにじっと見ていると、将臣に引っ張られた。 「行くぞ」 「待ってよ」 「んなもんより、もっと良いものをやるよ」 将臣はスタスタと大きなストライドで歩いていき、望美はそれに引きずられるように歩いた。 穴場に着いた頃、花火が始まる。 望美も将臣も、花火を見ながら、ロマンスのかけらなく食べ物をもぐもぐと食べていた。 ふたりして直ぐに食べ尽くし、ゴミを寄せて、色気なく花火を見入る。 「望美」 「何」 「左手出せよ」 「虫を乗っけるんじゃないよね?」 「似たようなもん」 幼なじみだからこそのリズムで会話をしながら、花火を見つめる。 今日は鎌倉の花火大会だけれど、ふたりにとっては重要な日。 左手を将臣が取ると、触れて来る。薬指に冷たい感触がした。 望美はハッとして指に視線を落とすと、そこにはローズクォーツを配った可愛い指輪がはめられていた。 ただ心臓の鼓動を早めて、息を呑むことしか出来ない。 「覚えているぜ、ちゃんと。今日は俺達の婚約記念日だからな」 照れた優しい将臣の瞳と、指輪を交互に見ると、泣けてくるのは何故だろうか。 「…ちゃんとした指輪渡さないとな。グレードアップしていくつもりだからな」 「うん、うん」 望美は花火そっちのけで将臣を見つめる。 花火よりも美しくて幸せな色がする将臣を見ていたかった。 「未来永劫、お前を離す気にはならねぇから」 「うん」 真っ直ぐと見つめ合う。折角、ロマンティックな気分になったというのに、将臣は吹き出した。 「ソースがいっぱいついているぜ」 「え、あっ!」 ロマンスのかけらもないところが、自分たちらしい。 「取ってやるよ」 低い声で甘く囁くと、将臣は誓いのキスをくれた。 いつかウェディングドレスでね。 |
| コメント 8月10日は鳩の日です(笑) |