カレーライスはいかが?


 もう将臣は、還内府でもなければ、望美の八葉でもない。
 元の幼なじみに戻ったのだ。
 望美も神子ではないから、将臣に護られることもないし、護って欲しいと強制することは出来ない。
「あっちにいた時から、”護って”だなんて、言えなかったけれどね…」
 望美は苦笑しながらひとりごちた。
 もう将臣は自由だ。誰を護ろうが関係はないのだ。なのに最近は、自分以外の誰も護って欲しくないと、狡いことを思ってしまう。
 腹が立つぐらいにあっけらかんとした空を見つめていると、玄関先が華やいでいるのに気付いた。
「望美! 将臣くんが来てるわよ!」
「うん!」
 慌ててドアを開けると、既に部屋の近くまで将臣が来ている。
「よお、昼飯食いに行かねぇか?」
「うん! 行くっ!」
 望美が即答をすると、将臣は子供を見るような優しい目付きで望美を見つめた。精神的にずっと大人だと言うことを見せ付けられている気分になり、心に切なさが滲む。
「すぐに荷物を取るから待ってね!」
「ああ」
 望美は、まるで突然遊園地に連れていって貰える子供のような気分になり、頬を紅潮させた。
 財布の入った、肩からかけられるバッグだけを引っ掛けて笑うと、将臣が目をスッと細める。
 紅潮した頬を撫でられて、胸が大きく揺れた。
「行くか」
「うん」
 将臣の指先から流れる感覚に、望美は胸を締め付けられる。一瞬、泣き出しそうになるぐらいの想いを感じた。
 将臣はフッと払うと、広い背中を見せ付けて、階段を降りていく。望美もその後を追い掛けた。
「チャリ使って小町通のカレー屋まで行こうぜ」
「じゃあ帰りに、ニュージャーマン寄って帰ろうよ」
「はい、はい」
 将臣が自転車を出してくれ、望美は何時ものように荷台に跨がる。将臣の背中に手を伸ばした瞬間、好きだという感情が激流のように押し寄せてくるのを感じた。
 思わずはなを啜って、涙が出そうになる。
 もう呼吸が出来なくて、死んでしまいそうになるとすら想うほど、将臣が好きだ。
 この逞しい背中に縋り付いて、自分だけのものにしたいなどとよこしまなことを考えながら、望美はぎゅっと音が出てしまうほど強く、将臣に抱き着いた。
 刹那、将臣の逞しい筋肉が揺らぐ。呼吸を止めたように感じた。
 自転車は緩やかに走りだし、早春の冷ややかな風が頬を刺激する。
 このまま時間が流れなければいいのに。何もかも止まってしまい、将臣といつまでもこうしてくっついていられれば良いのに。
 背中の温もりと、その逞しさを独占したくて、望美は更に腕に力を込めた。
 ずっと独占出来なかったひとだから、今からはずっと独占していたい。
 望美は将臣の背中に顔を埋めると、切なさに瞼の奥に涙を滲ませた。
 極楽寺から長谷へと出ると、将臣は小さな店の前に自転車を止めた。
「飯食う前の腹ごしらえをしようぜ」
「そうだね! カレーを食べる前のウォーミングアップが必要かもしれないね!」
 先ずは長谷の新しい名物、甘さを抑えたかぼちゃと小豆のきんつばを買い、それを食べる。
「今日の買い食いと昼飯は奢ってやるよ」
「そんなの悪いよ」
「いいんだ、遠慮すんな。俺がしたいことをさせてくれよ」
「うん、有り難う」
 将臣の大きな手の平が、望美の頭の上にぱふりと乗る。ちょうど良い大きさに、望美は心地よく感じた。だが同時に、子供扱いをされた気分になり複雑な気分だ。
「次は生麸まんじゅうを食うか?」
「そうだねー」
 鎌倉グルメ三昧とばかりに、きんつばを食べた後は、そのまま七里が浜大通りを自転車で鎌倉方面に向かった。
 生麸まんじゅうを頬張った後、また密着をして小町通まで走る。
 登下校などでは、将臣の自転車によく乗るが、こんなに長い間密着するのは、子供の頃以来ではないかと、望美はぼんやりと思った。
 中学生になってからは、お互いに意識をしているのか、こうして自転車に乗って距離を走ることはなかった。
「小町通のカレーって久しぶりだよね! 相変わらず大盛で、美味しいんだろうなあ」
「俺はすげえ食いたかった」
「私もだよ」
 望美はまた甘えるように将臣にぴったりとくっついていく。
 許されるなら、ずっとこうしていたいと思わずにはいられない。
 いつしかお互いに無言になった。
 望美は好き過ぎて、この感情を曖昧にごまかす言葉なんて思いつかなかったから。
 言葉よりも、もっともっと強い感情を、背中を通して将臣に訴えかけていた。

 相変わらずカレー屋さんは大繁盛をしていた。観光はオフシーズンだというのに、随分と賑わっている。
「将臣くん、今日はバイトじゃなかったの?」
「ああ。流石にもうすぐ受験生だから、休みの日にフルタイムは駄目だと母さんに言われたから、朝のバイトに行ってる」
「朝?」
「漁港の手伝いなんだよ。時間も短くて実入りもいいから気に入ってる」
 望美は将臣らしいと思わずにはいられない。かなり要領が良いのだ。
「そうなんだ。私はパティスリーのバイトを見つけたけれど、沖縄資金はバッチリそう!」
 沖縄に一緒に行こうと言ったことを、将臣は覚えてくれているだろうか。望美は不意に寂しい気分になり、将臣を見た。
「ああ、一緒に行こうな、沖縄」
 将臣に髪をくしゃくしゃに弄られて、望美はほんのりと温かくもやる瀬ない気分になった。
 自分たちの順番が来て、ふたりは小さなふたりがけのテーブルに案内をされる。
 勿論食べ盛りの将臣は大盛を、望美はヨーグルトが付いたセットを頼んだ。
「夢にまで見たカレーだぜ!」
「そうだね。あの時空に行くまでは、カレー食べるのも、何をするのも当たり前だって思っていたからね」
 確かにふたりの肉体には、時間が通り過ぎたことを示す証などは跡形もない。だが、心には時間の流れは確実に刻まれている。
 肉体の時間の経過は、なんとあてにならないものなのかと、最近、望美は思うようになった。
「そうだな…。二度と手に入れることは出来ないって思っていたからな。…こうしてお前と一緒にカレーを食べることとか…」
 どこかしんみりとしている将臣に、望美は涙が零れそうになった。それを何とか堪えた後、スプーンでカレーを掬った。
「次にここのカレーを食う時は、絶対お前と一緒が良かった」
「私もだよ。ここのは特別なカレーだから、将臣くんと一緒に食べたかったよ」
 小さなコンパートメントのような空間は、ふたりを特別な気持ちにさせてくれた。
「食うか、混んでるし」
「慌ただしさが、またここの良いところなんだよね!」
 確かにと将臣は頷くと、カレーを大きな口で頬張った。
 美味しくて無言のままに食べているというのに、とても幸せな気分だ。ふたりで何度も顔を見ては笑い、日常はかけがえのない時間なのだと、改めて感じた。

「食ったなあ!」
「食べた、食べた! 体重計に乗るのが恐いぐらいだよー」
「まあ、お前の場合は少しぐらいふっくらしたほうがいいんじゃねぇか?」
 ふわりと頬を撫でられ、望美は気持ちが良くて思わず目を閉じた。
「腹ごなしに、少し歩くか」
「そうだね」
 将臣は自転車を引いて、鎌倉駅側に歩き始める。望美はその後ろにちょこまかと着いていった。
「こうして一緒に歩けるだけで、何だか幸福だよね」
「そうだな…」
 鎌倉カスターを駅前で買い、望美は一部をお土産に、ひとつは歩きながら食べる。
「お前、すげえ食うな」
「将臣くんが一緒だと、食欲が湧くんだよー。それに別腹だしね」
「マジかよ」
 将臣は苦笑いをしながら、呆れるように望美を見ていた。
「食べるならあげるよ? 王道のカスタードとか、チョコもあるよ」
「ったくお前は変わらねぇな…」
 どこか優しい響きに望美は嬉しくて、にんまりと笑う。
「ったく…。すげぇ美味そうな顔をするんだな」
「うん、美味しいよ。だから将臣くんにあげる」
「いいや味見で充分」
 将臣は目をスッと細めると、不意に抱き寄せてきた。
「え、あ…」
 唇が重なり、唇にたっぷりと付いていたカスタードを舌で舐められる。
「ごちそうさん」
 こんな往来で、まさかキスをされるなんて思いもしなかった。
 望美は思考が付いて行かず、ただ茫然と将臣を見つめる。
 将臣が余りに照れた表情をしていたから、嬉し過ぎて、今度は思わず涙を零してしまった。
「…嫌だったのかよ…」
 将臣が切なそうに沈んだ声で呟くものだから、望美は慌てて否定をする。
「ち、違うよっ! あ、うん、嬉しすぎて、将臣くんが好き過ぎて…」
 声を出して本当のことを言うと、余計に嬉しくて泣けてきてしまった。
「ったく、海岸まで行くぞ」
「あ、あの、将臣くん…っ!」
 泣きながら望美は七里が浜に連れていかれてしまった。

「ったく、往来で泣くことはねぇだろ?」
「往来で泣けるぐらいに嬉しいんだよ」
 また泣けて来た。望美はまるで小さな子供みたいに泣いてしまう。
「ったく…。お前は可愛い過ぎるんだよ…」
「まさおみくん…」
 強く抱き寄せられて、望美はその肩に総てを預ける。すると余計に泣けてくる。
「嬉しいのにどうしてこんなに泣けるんだろう…」
「嬉しいからだろ?」
 将臣はくすりと笑うと、望美に顔を近づけてくる。
 情熱を宿した眼差しで、瞳を覗き込まれる。
「初めてのキスを教えてやるよ…」
「…あ、んんっ!」
 カスターを食べていたときよりも、もっともっと深いキスが噛みついてくる。
 荒々しいけれど、それなりにロマンティック。
 紫の夕日を浴びながら、将臣と初めて本格的なキスをした。
 もう還内府と源氏の神子でもなく、神子と八葉でもない。
 唇を離した後、望美は将臣を見る。
 もう名案の枷のない男と女になったのだから、今なら素直に言える。
「…これからも護ってくれる?」
 心も、細胞も、唇も。総てを震わせて、望美は将臣に訊く。
「----ああ。もちろんだ。お前が、護って欲しくないって言っても無効だぜ。カレーを食べたんだからな」
「うん。私だって、しつこく護って貰うんだから。護りたくないって言われてもね」
「ああ」
 これからは新しい関係を築いていこう。
 八葉と神子でもなく、幼なじみでもなく、ただの男と女で…。
 ふたりは、いつまでも湘南の夕陽を見つめながら、新しい関係に心を躍らせていた。
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