今日、あのひとが死んだ。 俺の耳に入るのは弔鐘。 教会では間もなく葬礼が始まる。 ひとの血で薄紅に染まる桜が、俺の心を嘆いているように思えた。 あのひとが結婚をする。 憎らしいあの男と。 俺達が飛ばされたあの時空で、あのひとを何度も裏切り、敵対していたあの男と。 俺は何度も心の中で叫んだ。 「なんであんな男が良いんだ!? あなたの傍にはもっと良い男がいるだろう!?」 殴ってでも止めさせたくて、だけど繊細で綺麗なあのひとを殴ることなんて俺には出来なくて…。 よりによってあの男と結婚してしまうなんて…。 このまま、ダスティン・ホフマンよろしく、教会で掠ってしまいたい気分だ。 だがそれは出来ないだろう。 先ほど、あの人が、数倍の輝きを身に纏って、ご両親と式場へ向かうのが見えたから。 悔しいけれど、俺にはあなたをあれほど輝かせる魔法を、持ち合わせてはいないのだろうな。 それが悔しい。 俺は、ひと足先に準備を終えて、祖母が大切にしていた温室へと入った。あのひとも大好きだった場所だ。 あのひとは本当に花が好きだった。 時空に飛ばされた時も、慰めにしていたのは、庭の草木だった。 あのひとの心が安らぐようにと、俺は小まめに世話をしたのを思い出す。 うちの温室よりも、はるかに種類が少なかったが、あのひとは喜んでくれた。思えば、あの時空にあった草花のほうが素朴な可憐さがあり、力強く生きていたからかもしれない。 …まるであのひとみたいだった。 あのひとの心のように、いらないものに染め上げられていなかった草花。 真っ直ぐと太陽や月に向かって伸びる様は、まるであのひとの心根みたいだった。 あのひとがあの男を想う気持ちみたいに。 スミレを手に取り、俺はそれにあのひとの姿を投影させる。 小さく可憐で護りたくなるのに、強い花。 本当にあのひとみたいだ。 騒がしくて、ふと母家を見ると、あの男が慌ただしく準備をしているのが見えた。 相変わらず、いい加減さを売りにしたあの男は、今朝も携帯電話であのひとに起こして貰っていた。 あんな男のどこがいいんだ。俺がいるだろう? あのひとの目を見て、一度は言いたかった台詞。 だけど一度も言わなかった。 言えなかったと言ったほうが正しい。 あのひとが余りにも一途に、あの男を想っていたから。 その想いは、誰にも崩すことなんて、出来やしなかったのだから。 俺も、先輩を想っていた他の男たちも。 あの男は、縁側で暢気に煙草を吸いながら、眩しそうに庭を眺めている。 あのひとの愛情を一身に集めるあの男は、未熟な面も含めて、あのひとをしっかりと受け止めている。 器が大きいと言えば、そうなのかもしれないが、俺はそれが気に喰わなかった。 小さい頃から、俺もあのひとも、あの男の背中をいつも追い掛けていた。 いつも、いつも、俺たちの一歩も、二歩も先に歩いていた。 特に、あのひとが何を望んでいてどうすれば良いかを、本能なのか数歩先でいつも気付いていた。 俺が気付く頃には、あの男はとうに気付いて、あのひとを喜ばせていた。 いつだって敵わなかった。 いつもあの男の先へと行こうとすれば、俺は空回りをし、結局は漁夫の利を奪われた。 たったひとつしか違わない。 だが、俺にはそれが重くのしかかっていた。 僅か一年なのに、あの男は、歳月では決して埋めることが出来ない決定的な溝を広げてくる。 勝負は決まったようなものだったのだ。 だが、俺はそれを必死に埋めようとしていた。 あの男よりも早く成長したくてあがいて、苦しんで。 なのにあの男はスルリと何事もなかったかのように交わすのだ。 年が近過ぎる兄弟。俺たちは正反対と思われながらも、本当はよく似ていた。 いつも同じものを欲しがり、その度に妥協してくれたのはあの男だった。いつも譲ってくれていた。 だが、一番欲しくてたまらないものは、あっさりと掠っていってしまったのだ。 あのひとのことだけは、決して妥協をしなかった。 夏祭りの日にあのひとを巡って、言い争いをしたこともある。 あの時だけは、あの男は絶対に引こうとはしなかった。 今は時間を取り戻し、あのひとと同じ歳になったが、あの男は、あのひとよりも三歳年を多く刻んだ時期があった。 三年もの間、あの男はあのひとと離れ、裏切るような行為をしていたのにも拘わらず、ずっと大切な心は、あのひとに預けていた。 あのひとを想い続けていた。 再会した後も、あのひとを護る立場にありながらも護ろうとせず、それどころか決定的な裏切りすらも冒していた。 なのに…。 あのひとはあの男を選んだ。 俺ではなくあの男を…。 あの瞬間、俺はあの男を殺したくなった。 いつも俺はあの男の背中だけを見つつげ、その前に立つことは一度もなかった。 総てを俺に与えてくれ、総てをあの男は奪い去ったのだ。 世界が音を立てて崩れる。俺にはあのひとが総てだったから。 目を覆いたくなる事実が爆弾になり、俺の世界にに突き刺さる。 …あのひとは、あの男と交わり、その子を孕んだ。無理矢理ではなく、自ら望んで。 あのひとは聖処女はいなくなった。俺の世界からは…。 俺は意識を澄んだ空に向ける。 あのひとと俺の世界を悼むために。 桜は満開。 あのひとが大好きな花。 お誂えむきだ。 桜の下に死体が埋まっていると書いたのは、誰かは思い出せないけれど、まさに俺は、目の前に咲き誇る桜が、その桜ではないかと思った。 あなたと俺の蜜なる時代は終わったんだね、「望美ちゃん」。 もう二度と戻ることのない日々。 眩しい太陽の向こうに隠してしまおうか。 俺は喪服を正すと、背筋を伸ばした。 「…何もこんな日に、こんなことをしなくても…先輩…。そこがあなたらしいけれど」 俺はひとりごちてみる。 「譲! 早くいらっしゃい! 始まるわよ!」 母さんの声が遠くに聞こえる。 俺は陽射しと戯れながら、母さんの声に導かれるように歩いていく。 これから始まる紅い葬列を、俺は傍観するために、自分の席についた。 神妙な雰囲気に俺は目を閉じた。 白い服を着たあのひとが、俺の前を通り過ぎる。 綺麗なのは解っていたから、俺はわざと見なかった。 式の間中、俺は目を開けているにも拘わらず、何も見なかった。 見ようとしなかったのかもしれない。 儀式が終わり、俺はひとり中庭に出た。 もう俺の大好きなひとはいない。 春日望美は死んだのだ。 いくらきらきら輝いていても、死んだのだ。 俺は、派手に鳴る鐘を聴きながら、愛するひとを悼んだ。 俺は、微笑むあのひとを見つめながら、もう戻らない日々を悼む。 春日望美は死んだ。 そこにいる有川望美は、俺の愛したひととは違う。 あの男だけの女。 それだけだ。 俺は桜ごしに空を見上げる。 澄み渡って青空は、あのひとの最期には相応しく思える。 こんな日だから、嘘をついていると思われるかもしれない。 だが、俺は真実を小さく口にする。 「…俺はあなたが好きでした…」 教会の鐘に掻き消されて、それはもう誰にも聞こえない。 |