幸せになるために


 日坂から見る海は、世界で一番美しいと思っている。
 キラキラとまるで清らかな宝石のように輝く海は、望美にとっては最高の宝石箱のように思えた。
 毎日の帰り道、こうして海を見られるのが何よりもの幸福だ。
 望美は深呼吸をしながら、夏の煌めきを躰に溜め込んでいく。こうしていると、心までが洗われていった。
「おい、何をやっているんだよ?」
「あ、将臣くん!」
 ぱふり。まるで肘置きのように腕を頭に置かれて、望美は目線を上げる。
 将臣が身長を追い越していったのは、一体いつだっただろうか。
 確かに小さな頃は、躰つきもほとんど変わらなかったというのに、今や20センチ以上の身長差がついてしまった。
 体格も、将臣は望美のひとまわりは大きくなってガッシリとしている。
 じっと見ていると、将臣は不思議そうに見ている。
「どうしたんだよ? 俺が男前だから、見とれていたか?」
「もうっ! そんなわけないじゃないっ! 将臣くんが凄く背が高くなったなあって思っていただけ」
「ちびっ子のお前と比べたらガリバーだろ?」
「私は普通だもんっ!」
 お互いにからかいからかわれたり、気兼ねなくいられるのは幼なじみの特質。
 それがとても素敵なようにも思えるし、ドキドキの煌めきがないのが切ないような気もする。
「まあ、これが俺達の違いだから仕方がねぇだろ」
「そうだけど…」
 どんどん将臣だけが成長していくような気がして、望美は寂しい。
 何時だって将臣は望美の一歩も二歩も先を歩いていく。それが胸に切ない痛みを齎してくる。
 それでも日に日に育っていく将臣への想いを、忘れることなんて出来ない。
「…だけど、俺はこの違いが嬉しいけれどな」
「どうして?」
 自分とは全く違う考え方の幼なじみに、どこか夏の終わりの風のような爽やかな寂しさを感じた。
「…そうなんだ」
 寂しくて、つい目線を下げてしまう。
「…いつまでもころころと一緒にいることが難しいんだね…。どうしていつまでも一緒にいられないんだろう…。ころころ笑いながらいるってことは出来ないのかな…」
 望美は太陽の光をたっぷりと吸い込んだ海を見つめながら、寂しさを隠すことが出来ない。
 すると将臣は僅かに目を細めて、望美を縫い止めるような視線を送る。
 心も躰も動くことが出来ない。
「…お前はこういうこと、いつまでもしてぇのか?」
 将臣の大きな手が、望美の小さな手を守るように結んでくる。
 掌に躰中の細胞が集まって、敏感にうごめいている。呼吸が早くなり、望美は浅い呼吸をした。
 最近、また将臣は一段と逞しくなった。
 21だった将臣は大きなものを背負っていたせいか、かなり逞しく感じたものだが、今はまた逞しさに加えてなまめかしさが滲んできている。
 幼なじみがこんなにドキドキする、男になるとは思わなかった。
 望美は脚が覚束ないほどに震えてしまい、上手く一歩を踏み出せない。
 小さな頃に、男だとか女だとか関係なく生きていた頃、こうして何気なく手を繋いでいた。
 あの頃は楽しいだけで、ドキドキするだとか走り出してしまいたいほどのときめきなんて、なかったような気がする。
 だが今は違う。
 喉がからからになるほどにドキドキして、細部に渡って震えを感じている。
 これなきっと男だとか女だとか、そういったテリトリーに嵌まっているからだ。
 もう純粋に「好き」を口に出来ないぐらいに、ふたりは別の性別になってしまっていた。
 手だけが汗みずくになる。
 なのに離したくない。
「望美、ちょっと寄り道していくか」
「…う、うん」
 手を握ったまま引っ張られて、ふたりは駅に向かって歩いていく。
 夏の陽射しが、何故だか後押しをしてくれるような気がした。
 夏だけは、鎌倉は若者の町になる。落ち着いた色彩とみずみずしい色彩が混じり合う、生の煌めきが溢れた町になる。
 そんな雰囲気に後押しをされて、ふたりはゆっくりと日坂を下った。
 駅に着くと、将臣は家とは反対方向の藤沢行きの電車に乗り込んだ。
「久し振りに江ノ島に行かねぇか?」
「そうだね」
 頑張って歩けば行けない距離ではないが、ふたりは江ノ電のクラシカルな雰囲気に浸るように、わざと電車を使った。
 電車に乗っている間もずっと手を離さない。
 望美は、時折、鼻孔を擽る、男臭いようななんとも言えない将臣の匂いを吸い込み、胸の奥が切なく揺れるのを感じた。
 もう男の子の匂いなんかじゃない。
 男の匂いだ。
 匂い立つ大人の男の色香に、熱中症になったかのように望美はくらくらする。
 江ノ島で電車を降りて、散歩でもするような感覚で、ふたりは弁天橋まで歩いていった。
 ここからは空気が澄んでさえいれば、綺麗な富士山を拝むことが出来る。
 ふたりは海の向こうに見える富士山を、立ち止まってじっと見つめていた。
「…俺は、お前と男と女で良かったって思っている。いつまでもガキみてぇにころころしてるほうが、余程、嫌かもな」
「どうして?」
 将臣は男女でいて良かったと言ってくれている。
 何だか余計に意識してしまい、全身のありとあらゆるパルスが、激しくビートを刻み始めた。
「ガキのままだと、俺達はこれ以上前には進めねぇだろ? ずっと”オトモダチ”のまんまだ」
 言われてみればそうだ。
「”オトモダチ”のままでも、確かに楽しいかもしれねぇが、俺はもうそれじゃあ物足りねぇんだよ」
 将臣はどこかイライラするように呟く。
 確かにそうだと望美は思った。
 このままずっと”オトモダチ”のままなら、今の状態でちっとも進展は見られない。
「…そうだね、確かに」
 今こうしているだけでも、こんなに弾むような煌めきを感じている。何よりも幸せな感覚だ。”オトモダチ”のままでいれば、それをもっと違ったときめきに変えることは難しい。
「…”オトモダチ”のままでいるか、それを壊してその先が欲しいか、どっちだ!?」
 将臣の海よりも深い青に見入られて、望美は息を呑む。
 きっと識っているでしょう? 答えがどのようなものぐらいか。
「”オトモダチ”だと、手を繋いで終わりだろうが、俺は女としてのお前をこうしたい」
 誰が見ているか解らないのに、将臣は柔らかく抱きしめてきた。
 抱きしめられるのは本当に久し振りだ。
 そしてそれが、手を繋ぐよりも幸せなことであると、将臣は教えてくれる。
「…どっちかって、こうされているほうが良いです…」
「俺もそうだ。だから”オトモダチ”止めちまおうぜ。これからもっとふたりで幸福になるためにな」
「うん」
 望美は将臣の腕の中でそっと目を閉じる。
 雀色時、ふたりは新たな一歩を踏み出す。
 それはきっと最高の幸福を運んでくれる。
コメント

迷宮ED後です〜。





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