*七里ヶ浜*


 高校二年生の三学期にもなると、受験体制に入っていく。
 誰もが明確な進路先を口にし始めて、それに向かって努力を始める。
 勿論、望美や将臣も例外ではなく、その雰囲気に僅かながらでも飲み込まれていく。
 だが、他の誰よりもピリピリしないですむのは、将臣のお陰だと望美は思っていた。
 塾や予備校に行く生徒も多いが、望美たちは取り敢えずは、学校が主催の放課後講習を受けている。
 最近はそのお陰で、遅くなることも多いが、それはそれで幸せなこともあった。
「さてと、講習も終わったし、帰るか」
「うん、帰ろう!」
 誰の目も憚ることなく、ふたりはしっかりと手を繋ぐと、手を繋いでいることを楽しむように、ゆっくりと学校を出た。すっかり暗くなった日坂を下りながら、今日の1番の楽しみに向かう。
「江ノ電来るまでの間、七里ヶ浜に下りようよ」
「こんなに寒いのにか? お前もとことん物好きだな」
 将臣は呆れたように目をスッと細めたが、その瞳は明らかに優しさを秘めていた。
「七里ヶ浜に下りたいんだもん。ゆっくりふたりだけで他愛ないことを話すのも良いじゃない」
「そうだな」
 七里ヶ浜で語り合うのは、ふたりにとっては何よりも代えがたい平和の象徴にも思えた。
 こうして何も深刻なことを考えることなく、ただバカみたいなことを話すことが、何よりも幸福の象徴だと思える。
 あんな過酷な想いをした今は、特にそれを強く感じていた。
 ふたりで七里ヶ浜に下りて、黒い冬の海を眺める。
 ずっしりと重い砂浜に足を取られそうになりながらも、望美は将臣に支えられてなんとか立つことが出来た。
「こうしてね、将臣くんと一緒に、手を繋いで海を見ることが出来るだけで、凄く幸せだなあって思うんだ」
 望美がくすくすと幸せの笑みを浮かべながら呟くと、将臣もまた歳よりは大人びた笑みを浮かべた。
「そうだな。こうやって、のんびりと海を見ることが出来る自体、俺たちは幸せなんだろうな」
「そうだねー」
 将臣とこうして何時までも手を繋いで、微笑み合える関係でいられればと、望美は思わずにはいられなかった。
 湘南の海特有の風が吹き渡り、望美は思わず躰を小さくさせる。
「やっぱり寒いね」
 躰を震わせると、将臣は苦笑いを浮かべた。
「当たり前だろうが。冬の寒空に海岸なんかにいるんだからな」
「まあ、そうか」
 息を白くさせながら望美が笑うと、将臣は手を繋いだままな状態で、望美をふわりと抱き締めてきた。
 優しい温もりが、望美のこころと躰をゆっくりと癒してくれる。
 再びこんなに温かくて幸せな温もりを得ることが出来るなんて、想像すら出来なかった。
 だからこそそれを楽しむように、望美は将臣の温もりに自分を預けた。
「気持ち良いー」
「何だったら、もっともっと気持ち良くしてやろうか?」
 ニヤリと意味深ないたずらを含んだ笑みに、望美は冷たく冷えた頬を一気に赤らめる。
「いらないもん。だってどうせえっちなことをするんでしょう?」
「お前も気持ち良さそうだけれどな」
 将臣は優しいのにセクシーな笑みを浮かべると、更に望美をギュッと音が出るぐらいに強く抱き締めてきた。
「…あっ、温かいけれど、ちょっとくらくらするから…」
 将臣の抱擁はドキドキを産み、望美の総てを酸欠にさせてしまう。
 息苦しくて、思わず将臣を見上げた。
「寒過ぎて貧血か?」
 からかいを含んだ声で言われ、望美は思わず唇を尖らせた。
「将臣くんが酸欠にさせるから悪いの」
「何でたかがギュッとするだけで、酸欠になるんだよ」
 理由などきっと解っているくせに、将臣はわざととぼけるように呟いた。
「ドキドキするから」
「確かにドキドキすると苦しいな」
 将臣はまるで人ごとのように言うと、更に望美を強く抱き締めて来る。
「どうしてドキドキするんだ?」
「もうっ! 識らない。苦しいよ」
「苦しいぐらいに幸せを感じさせてやるよ」
 将臣はふとこちらの胸が痛んでしょうがないほどに切ない表情をすると、望美を抱き締める腕に力を込めた。
「…お前と七里ヶ浜でこうして一緒にいる夢をよく見た。俺が話し掛けた途端に、いつもお前はいなくなるんだよ。そんなことの繰り返し…。お前と夢が繋がっているのが解ってからも、いつも消えないように祈ってた…」
 将臣の声が時折掠れて、望美のこころを苦しいぐらいに締め付けて来る。
 将臣の声は、当時の虚しさを痛いほど伝えていた。
「…消えないよ、私は絶対に将臣くんから消えない」
 望美は将臣に対して高らかに宣言すると、ただ真っ直ぐと見つめた。
 これからは決して失望をさせない。
 将臣を二度と切なくさせやしない。
 望美は誓うように将臣を見つめた。
「サンキュな」
 将臣は柔らかい力で望美の背中を何度か軽く叩くと、小さな子供のような純粋な笑みを浮かべた。
「だから、将臣くんも私から離れちゃ嫌だよ」
「解ってる。誰が離れるかよ」
 将臣もまた強く言い切ると、望美の頬をそっと撫でた。
「俺がここにいるのはお前がいるから以外に理由なんてねぇからな」
「うん」
 望美が泣き笑いを浮かべながら呟けば、将臣は髪をくしゃくしゃにした。
 手を繋いで見る七里ヶ浜は、以前とは違う。
 以前はただふたりで並んで他愛ないことを話しては、ただ海を見た。
 あの頃は、ふたりでいるのが妙に恥ずかしくて、息が吐く間もないほどに、話さずにはいられなかったことを思い出す。
 あの頃は、話していることで、将臣の側にいることを確かめようとしていた。
 だが今は、こうして手を繋いで、ただ同じ海を眺めているだけで、お互いを感じられる。
 こうしているだけでとても幸せな気分になった。
「不思議だよね。こうしてふたりで何も話さずにただ一緒にいるだけで楽しくて、ドキドキするなんて、今までになかったことだよ」
「そうだな。昔は沈黙するのが怖くてしょうがなかったな。沈黙したら、何だかこの世の終わりのような感じがしてさ」
「そうだね。だから私も話すのを止められなかったんだよ」
 ふたりはお互いの温かい想いが同じだと感じ取り、思わず微笑む。
 将臣はそれに応えるように頷くと、望美の手を引いて、階段を上がり始めた。
「また信号で引っ掛かるかもよ」
「そうかもな。だったら何度でも海を見たら良いさ。もう俺たちは、何の制約を受けることなんてないんだからな」
「そうだね」
 話しているうちに信号が変わり、ふたりは駅へと向かう。
 懐かしい七里ヶ浜。
 青い場所は、甘い幸せをふたりに与えてくれる場所に変化を遂げた。





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