*どうしようもない熱病*


 あんな青臭いガキに本気になるなんて、全くもってバカげている。
 だいたい俺は、一気に熱くなって、終息するような感情は大嫌いだ。
 あんなものは疲れるだけだ。全く労力の無駄。
 だから俺は恋をしない。
 あんなものは百害あって一理なしだ。
 俺には向いていない。
 欲望を消化する相手なら必要かもしれないが、こころを誰かに預けるだとか、互いに依存して生きるだとか、そんなものは必要ない。
 俺は常々そう思っていた。
 なのに何だ、あの小娘は。俺を親の敵のような目で見つめてきて、直球で切り込んで来る。
 そんなことをしても無駄だと、最初は思っていたのに、今はどうだ?
 あの小娘が騒ぎを起こすのを、こころのどこかで期待をしている俺がいる。
 全く馬鹿げている。
 充分に分かりきっているはずなのに、どうして俺はあの女から視線を外せないのだろうか?
 無駄にぐるぐると考えていたせいで、貴重な煙草が一本無駄になってしまった。
 アイツは時代に逆行しているから、そんなものは止めれば良いと言う。
 誰かに言われると余計にやりたくなる。それに俺は誰かに指図をされるのがごめん被りたいタイプだ。
 俺はわざと香りのキツい煙草を吸った後、アイツが来るだろう部屋に戻った。

「何処行ってたのよ! レッスン時間ロスだよ!」
 大体、わあわあ喚き散らす女は嫌いだ。俺に命令をする女も嫌いだ。
「…喚いている間に、とっとと席を座れ…。そっちが時間のロス…」
 俺はまた煙草を口に咥えて、ライターで火を付けようとした。
「レッスン室は禁煙だよ!」
 望美のヤツは俺から乱暴に煙草を奪い取ると、勝ち気な瞳で睨み付けてきた。
「…おい…。何をする…」
 俺は容赦なく望美を睨み付けてやる。こんな野獣のようなまなざしで睨んだら、普通の女なら半泣きになる。だが望美はそうじゃない。むしろ激しく睨み付けてくる。
 だからこそ、俺が唯一からかって楽しめる女なのかもしれない。
 頬を紅潮させて怒りのオーラを出している望美は、見ていて楽しい。
 これほどまでに俺を楽しませてくれる女は、まずいないだろう。
 怒っている望美に、俺は冷たい笑みを投げ掛けると、また煙草を口に押し込めた。
「ちょっと! 知盛っ!」
 望美が怒ろうが俺には関係ない。
「…レッスン室のルールは俺だ…」
「ちょっ…! な、なにがよーっ!」
 怒り狂う望美を笑いながら、俺はその華奢な腕を取ってピアノの前に座らせる。
「…弾け…。今日の課題は…、ラフマニノフの「パガーニのためのラプソディ」…だったな?」
「…煙草を消さなきゃいや」
 望美のやつはまだ諦めていないらしく、拗ねた声で呟いた。
「だったら…、レッスン時間を無駄にしているのは…、お前だって…ことだな…?」
「知盛が悪いんだもん」
「知盛じゃないだろ…。知盛先生だろ…?」
「どっちでも良いじゃない」
 矢継ぎ早にテンポ良く言葉が繰り返される。全くこいつのの唇は、暴走機関車だ。
「…ここはレッスン室だ…。公私の区別はきちんとしなければな…」
「公私の区別をしていないのは、知盛のほうじゃないっ!」
 すっかりお姫様は拗ねてしまい、ピアノにも触れようともしない。
 この年までピアノを続けてきたということは、かなり好きだということなのだろう。
だからこそピアノを弾かないのは、望美にとってはハンガーストライキと同じ意味だ。
「…弾け…」
「いーやーだー」
 拗ねて頬を膨らませてしまった望美ほど、始末に負えないものはない。
 俺は椅子を望美の横に持ってくると、そこに腰をかけて、課題曲のラプソディを弾き始めた。
 俺が力を抜いて、適当に弾いていると、望美の耳はピクリと反応をする。
 弾きたくてたまらないといったような顔をしていた。
 もう少し曲が盛り上がり始めれば、きっと連弾でついてくるに違いない。
 とうとう望美は我慢しきることが出来ずに、指先を鍵盤に滑らせた。
 今度は俺が望美に合わせていく。そしていつしか俺の音だけをフェイドアウトさせていく。
 望美だけの音になってからも、更に厚みを増した演奏になった。
 俺は耳をじっと峙てて、望美の音だけを拾っていく。
 決してピアノが上手いわけではないが、ひとを引きつける音を望美は持っている。
 俺はいつもその音色に魅せられる。こんなに素直に表現できるピアニストはなかなかいない。
 望美はこころで聴かせるタイプであり、決して技巧で聴かせるタイプではない。
 だからこそ、俺は強く惹かれるのかもしれない。
 やがてラプソディを弾き終わると、望美は息を乱しながら、恨めしそうに知盛を見上げた。
「引かされた」
「ラフマニノフはお前が好きな曲だからな…」
「もう今日は弾かないから」
 俺は拗ねてしまった望美を苦笑してしまった。
「…もう一度、聴かせるんだ…」
「…一緒に弾いて」
「ダメだ…。自分なりに弾け…」
 望美は食い下がるように俺を見たが、クールにあしらった。
「…ご褒美があったらやる」
 拗ねてしまった望美はわがまま言いたい放題だ。
 わがままな女は嫌いだ。
 ひとを困らせるような女も嫌いだ。
 だが、俺に戦いを挑むようにわがままを言う女は、悪くない。
 「…しょうがないな…」
 俺は溜め息を盛大に吐くふりをしながら、再び鍵盤に指先を滑らせた。
 俺の音に望美がついてくる。
 たどたどしい音だが、ひとを惹きつける音だ。
 俺の音は、望美の音に触発されるかのようにワルツを踊った。
 たった週一度のレッスン。
 本当は俺が望美に教えているのではなく、俺が望美に引っ張られているというのが正しいかもしれない。
 音が重なりあって、華やいだ深みのあるハーモニーを奏でている。
 まるで春の陽射がそこに集まっているかのような音だった。
 音を合わせ終わると、望美は俺を真っ直ぐ見る。
「…ご褒美は?」
「…ご褒美ね…」
 俺は、無防備な望美の顔に近付いていく。
「…え…」
 ご褒美は勿論キス。本当は俺に対する褒美なのかもしれない。
 望美の柔らかな唇に自分のそれを近付けると、触れるだけのキスをした。
 お前を慕っていると唇に乗せて、決して言葉にはしてやらない。
 望美のキスは、甘いキャラメルの味がした。
 望美らしい甘い味。
 俺が顔を離すと、望美は真っ赤になったままで、軽く睨み付けて来た。
 甘く華やいだ色を瞳に乗せて。

 今度はどんなメロディを奏でようか?





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