雨が降ると何故だかショパンが聞きたくなる。 それも極上の透明感のある鋭利な音。 耳を澄せて聴いているだけで優しい気分になれる。 だからねだってみる。 今日のレッスンは雨だから、透明な水のような音色に包まれていたい。 雨で制服が濡れてしまい雫をハンカチで拭いながら、望美はレッスン室に入った。 「ちもちゃーん、望美ちゃんがレッスンに来たよ」 猫撫で声で声を掛けても、やはり反応はない。 ぐっすりと眠っているところを見たことがないのを考えると、今日も絶対にわざとやっているのだろう。 「ったく、いつもいつもいつも職務怠慢なんだからっ!」 望美は、長ソファにだらしなく脚を投げ出している知盛の足を軽く蹴飛ばすと、その前に仁王立ちになった。 「知盛先生、レッスンのお時間なんですけれどっ!」 望美がきつく言い放つと、知盛の目が一瞬だけ開いたかと思うと、また閉じられてしまった。 「…雨の日はだるい…」 「いつもいつも同じパターンじゃないっ! 雨ばかりのせいじゃないでしょっ!」 「昔の歌で、“雨の日と月曜日はいつも憂鬱”ってあっただろう…? あれと…同じだな…」 「知盛の場合は、いつも同じじゃないっ!」 望美がいくら言っても、知盛は目を閉じたまま開けようとしない。 「…何よ。今日は雨だからレッスンは中止?」 「…ああ…」 「ったく! 遠足みたいなことを言わないでよっ!」 頭に血が上って顔を真っ赤にしながら怒っても、知盛には一切効果がない。 望美は頬を膨らませると、長ソファを思い切り蹴り飛ばしてやった。 「サイテーっ!」 その言葉すらも賛美とばかりに、知盛は喉を鳴して笑っている。 望美は乱暴にピアノの前に座ると、知盛の神経をさかなでるように、ピアノで“あめふり”を弾きながら大声で歌った。 なのに知盛は起き上がって来ようとしない。それどころか、鼾なんてものを出してしまう始末だ。 「もうっ! バカっ!」 望美は怒りが頂点に達してしまい、ピアノを弾くのを止めた。どんなノイジーな音も知盛には効かないようだ。 「…ど下手くそ」 さらりと言い放たれて、望美は知盛の前に行き、再び睨み付けた。 「だったらちもちゃんが弾いたら良いじゃないっ!」 望美が鼻息を荒くして言ったところで、ようやく知盛は躰をソファから起こした。 気怠さ百二十パーセントといったところだ。 知盛は機嫌が悪そうにピアノの前に腰を下ろすと、鍵盤を柔らかく叩き始めた。 この性格からは想像出来ないように澄みきって鋭い音。まるで月の光のようだ。 本当は何よりも知盛らしい音なのかもしれない。 ピアノを指先で遊ぶように爪弾く。その姿は、子供が遊んでいるとしか思えないのに、音だけは深みがあった。まるで月を映す山奥にある澄んだ湖のように。 知盛は煙草を無造作に咥えながら、少しずつ音楽を奏でていった。 魂が揺さぶられる。 総てが知盛によってつき動かされてしまうような感動が、望美のこころに染み込む。 このひとの音が大好きだ。 このひとの音にひと聴き惚れしたのだ。 繊細に綺麗な指先、白いシャツが眩しい広い背中も、総て大好きになってしまった。 その瞬間のことを思い出されてしまう。 やがて指先一本で爪弾かれていた音に、どんどん指の数が増やされて、誰も真似が出来ないクリスタルのオーケストラが出来上がった。 ピアノだけでオーケストラの音域をカバーすることが出来るが、知盛にかかるとそれがとても綺麗に表現される。 両手がピアノの鍵盤を叩く頃には、雨に相応しいメロディが響き始めた。 こころが締め付けられるほどに切なくて綺麗過ぎるメロディ。聞いているだけで泣きそうになってしまう。 懐かしくて新しい、雨の日のメランコリーさや、あの鈍色の空を音に表現したような響き。 ここが古びたピアノ教室で、ほんのりとカビ臭いことなんて忘れ去ってしまうほどの音だ。 望美を現実からどこかドラマティックな時間に誘ってくれた。 実際には、知盛との関係ほどドラマティックでスリリングなものはないのだが。 「…何の曲?」 「ウィリアムス・ロジャースの“雨の日と月曜日は”。カーペンターズのカバーでも有名だな」 まるで優しいボーカルがそこで歌っているかのようで、望美はうっとりと聞き惚れていた。 ピアノを奏で終わると、その余韻でしばらくは放心状態になる。 「…拍手は…?」 知盛のクールな声に、望美はようやく自分を取り戻した。 「そんなものいらないでしょ?」 「…拍手がないのなら…、もっと違ったかたちで報酬を貰わなければな…?」 一瞬、知盛の視線は望美の唇を捕らえたあと、ニヤリと甘い意地悪な笑みを浮かべる。 「そ、そんなのいらないじゃないっ!」 「…報酬はプロとして当然だ…」 「だったらもう一曲弾いてよ。そうしたら極上なご褒美をあげる」 望美がいつも以上に強気に出ると、知盛はフッと笑う。 「仰せのままに」 知盛は何か企んでいるかのような笑みを浮かべ、ピアノ奏で始めた。 随分賑やかでガチャガチャとした音だ。 「何だか凄く落ち着かない賑やかな音だね。何の曲?」 望美の質問に知盛は喉を鳴して笑うと、ちらりと見つめてきた。 「…お前…」 「へ!?」 「即興曲。“春日望美が雨の雫だったら”」 知盛は愉快そうに言うと、その技巧を活かして賑やかなメロディを奏でていった。 「ちょっと、やめてよー! それじゃあ小さい落ち着かない子供みたいじゃないっ!」 望美が強く抗議をしても、知盛はいっこうに止めようとはしなかった。 「お前そのものだろ…?」 「違うもんっ!」 知盛は更にスピードを増して指先を動かしていく。 その上手さは分かるが、表現されたこちらとしてはたまったものじゃなかった。 「私じゃないよっ! こんなの」 「…お前はもっとしとやか…とでも言うのか…?」 「そうだよ。だって“大和撫子”だもん」 堂々と自信を持って言うと、知盛は鼻で笑った。 「…使い方が間違っているな…。…お前にも…、しおらしいところはあるが…」 知盛はそう言うと、音を少しずつ華やいだものに変えていく。まるでメロディ自体がはにかんでいるように聞こえてくる。 こちらが甘い気分になって心臓がドキドキしてくる。 官能的でどこか背伸びをした大人っぽさに、望美は音楽を聴いているだけで、キスでもしたような気分になった。 知盛が奏でるメロディが熱く甘く盛り上がった瞬間、コミカルな音で終わった。 「…どうだった…?」 「…さあ」 本当はドキドキし過ぎてどうにかなってしまいそうだったのに、望美はわざと素知らぬ態度を取った。 「…あれはお前の雨垂れ行進曲」 知盛は新しい煙草を口に押し込めると、柔らかな笑みを浮かべる。 ドキドキするような曲を作ってくれたのが嬉しくても、望美は素直にはなれない。 言葉で素直になれないのなら、態度で示すだけ。 「ご褒美は…? キスで勘弁してやる…」 望美は眉を上げて皮肉げな笑みを浮かべたあと、知盛の首に腕を回して、今出来る限りの甘いキスを送った。 |