今までずっとキスを夢見ていた。 ぬいぐるみやクッションを相手に何度もキスの練習をし、ファーストキスのときめきを想像したものだ。まるでロマンス小説のように素敵な男性に、ロマンティックなシチュエーションでファーストキスは奪われるものだと、ずっと夢見ていたというのに。 なのに結果は、目の前の男に簡単に奪われてしまった。 アンジェリークは頭が真っ白になり、完全に固まってしまっていた。 こんなはずではなかったのに。 レモンの味がして、キスの瞬間に周りがばら色の躍動ある輝きに包まれると想っていたのだ。 それが現実は、生々しいカツサンドの味がするキス。こんなことがあっていいのだろうかと、放心状態になりながらもアンジェリークは想った。 実際の唇は少し固めのリアルな感触で、アンジェリークのロマンティックは、音を立ててがたがたと崩れ落ちた。 「ちょっと、アンジェ! 大丈夫!?」 ショックで魂が抜かれたような状態のアンジェリークを、レイチェルが一生懸命介抱する。 「あーん! レイチェルっ!」 アンジェリークが涙を浮かべながら抱き着くと、レイチェルは男を睨みつけた。 「アナタ! どうしてくれるのよっ! アンジェはうちの学校でも人並み外れたねんねちゃんなんだから! 全く、こんな状態にしてっ! 謝ったら済む問題じゃないわよ!」 レイチェルはゴジラよろしく火を吹くように、男にマシンガントークを繰り広げ、キツク言い放っている。 男はと言えば、あっけらかんとした顔をしていた。本当に悪びれた様子などなく、しらりとしている。 「謝る気なんてねえよ」 この一言がレイチェルの炎に油を注ぐ結果になってしまった。 勿論、この大騒ぎは、オーナーであるレオナードにも届いており、笑いを噛み殺していた。 「しかし、アリオスもイキナリとはなァ。前から光速の手の早さだとは想っていたがァ、こんなに手が速いとはなァ。さては大食い娘に一目惚れかァ?」 レオナードはあくまでも可笑しそうに笑いながら、カツサンドを仕上げていく。 揚げたてのスパイスの利いたカツに、たっぷりのキャベツとトマト、ぱりぱりに焼き上げたパンで挟む。これで”天使の庭園”特製のカツサンドの出来上がり。 雑誌”あまから通信”でも取り上げられている名物カツサンド。 レオナードは手慣れた手つきでカツサンドをカットし、エンジュに差し出した。 「うちからのサービスだ。お客様が泣いては困りますからね。ここは”紳士淑女の社交場”ですから」 ウィンクをしながら差し出されたカツサンドを受け取ると、エンジュも笑顔で応えた。 泣いて拗ねている友達の為にも、出来立てアツアツのカツサンドを持っていってあげよう。 エンジュがテーブルにカツサンドを持って行っても、騒ぎはまだ治まってはいなかった。 レイチェルとアリオス、ふたりの熱と冷ややかさがぶつかり、火花を散らしている。 「…アナタ、きちんと責任を取ってくれるんでしょうね!?」 レイチェルの厳しい要求にも、アリオスは怜悧な表情を壊さない。 「責任なんて、おまえに言われる筋合いはねえ。目の前にいる、栗かのこと俺の問題だ」 「”栗かのこ”だなんて! アンジェは食べ物じゃないわよ!」 「”栗ごはん”は食いたいって想うぐらい魅力的ってことだろうが」 アリオスのへつらわない堂々とした態度には、流石のレイチェルも少々たじろいでいるようだ。 「ちゃんと栗饅頭を俺の女にして責任を取ってやるから、ぎゃあぎゃあ騒ぐな…」 アリオスはレイチェルを鋭い目線だけで牽制しながら、唇に無造作に煙草を突っ込む。 「おら、俺様の名刺だ。いつでも連絡して来い。俺はそこで建築家をやっている」 乱雑に出された名刺を見るなり、レイチェルは度肝を貫かれた。 建築家のアリオスと言えば、”空間の皇帝”と言われる程の有名な建築家だ。美しいモニュメントから一般の住宅まで、幅広く手掛けることでも有名である。 レイチェルが知っているというだけでも、かなりの有名人と言える。 「栗饅頭がその気なら、いつでもキスの責任を取ってやる」 アリオスは新聞を片手に立ち上がると、アンジェリークをちらりと見た。 「スモルニィの学生か…。またな、お嬢様」 風のようにハリケーンが去っていく。アンジェリークたちはただアリオスの残した風を見つめるしかなかった。 「…はい、カツサンド」 「…有り難う、エンジュ」 アンジェリークは半分泣きながら頷くと、カツサンドを受け取って食べ始める。 泣いていてもアンジェリークの食欲は留まることを知らないのが、エンジュにはほほえましかった。 夕方になると、”天使の庭園”も忙しくなり、アルバイトがエンジュの他にふたりも補充される。 エンジュと同じ歳のユーイと、調理全般も任されている大学生のセイランだ。 「エンジュ、少し休憩だ」 「はあい!」 休憩は一種のブレイクタイム。15分ぐらいで水分を補給してリラックスする為の時間だ。 エンジュはレオナードと並んで外に出て、美肌効果のあるフレッシュジュースを飲む。 「しっかし、アリオスも良くやるなァ。光速で女子高生に手を出すなんて。遊びまくってるヤツだが、こんなパターンは初めてだ」 レオナードはいかにも可笑しそうに言い、煙草をふかしている。確かにレオナードには面白おかしいことだったかもしれないが、人一倍純情(でおおぼけ)なアンジェリークのことを想うと、エンジュは胸が痛かった。 「アンジェは傷ついていると想います。あの娘は誰よりも夢見る夢子ちゃんなところがありますから」 「だがあのアリオスがあんなに速く手を出すってことは、それだけ魅力的ってことじゃないの? アイツの好みのストライクゾーンにバッチリ決まったんだろうからな」 レオナードは煙草をすぱすば吸いながら、友人の手の速さを笑っている。 女癖の悪さなら、レオナードはアリオスには絶対負けないだろうと、エンジュはぼんやりと考えながら聞いていた。 「レオナードさんは、アリオスさんみたいなことはないんですか? 気に入ったからって…、相手に強引にキスをしたりすることとか…」 「そうだなァ」 携帯灰皿で煙草の火を消すと、レオナードはエンジュに視線を合わせてくる。 蒼の何を考えているかが解らない魅力的な眼差しに、エンジュは見惚れてしまった。 「エンジュちゃん、俺様と恋愛する?」 瞳を覗き込まれながら、レオナードのニヤリとした意地悪な笑みが視界に入ってくる。 ドキドキして、呼吸のコントロールなんて出来なくなってしまう。 全身が熱くて、エンジュの瞳は熱が走っていた。 「あ、あの…」 うろたえていると、突如、レオナードが太く喉を鳴らす。 「なんだァ、エンジュちゃんは本気にしたのかよ。俺様が女子高生なんてションベン臭いガキの相手はするわけねェだろ? 安心しな。お前の貞操はきちんと守られているぜェ」 レオナードは冗談だとばかりに太い笑いを浮かべている。 ぽんぽんと頭を軽く叩くように撫でられて、全くの子供扱い。 「エンジュちゃんがそのおさげを卒業したら、考えてやるわ」 レオナードにかかれば全くの子供扱い。相手にすらしてもらえない。 胸がナイフでえぐられたように痛い。涙が瞳に込み上げてくるのをなんとか我慢した。 「さてと、お仕事に戻りましょう! みんなに怒られちゃいます!」 エンジュはわざと明るく振る舞いながら、手を振って元気いっぱいに更新していく。後ろからレオナードが着いてくるとばかり想っていたが、全く気配を感じず、想わず振り向いた。 機嫌が明らかに悪そうなレオナードがそこにいる。 「レオナードさん?」 「アリオスが好きなのかよ、お前」 「え!?」 意外な名前がレオナードの口から上がって来たので、エンジュは驚いて目を丸くした。 「アリオスさんはお客様としては好ましいですけど、それだけです」 正直に自分の気持ちを言うと、レオナードは眉を皮肉げに上げてくる。 「そうかよ」 「そうです。行きますよ、セイランさんもユーイも怒りますから」 エンジュはさらっと流すと、真っ直ぐ歩いていく。だらだらと後ろから歩いてくるレオナードの気配を感じながら、エンジュはやっぱりレオナードが大好きだと想う。 レオナードが実はかなり面倒見がいいことも知っているし、優しい思いやりも解っているつもりだ。 いつもは女たらしの、最悪なところもあることにはあるが、恋するエンジュには、レオナードの良い所しか見えなかった。 レオナードが煎れたコーヒーや、作ったカツサンドと同じように、エンジュはレオナードが大好きでたまらなかった。 翌日。 元気があるのかないのか解らない中途半端な状態のアンジェリークは、エンジュと仲良く帰宅していた。 「あ…」 校門を出るなり、アンジェリークはびっくりする。 昨日ファーストキスを奪ったアリオスが、煙草を片手に待ち構えている。 ファーストキスの相手だ。意識をしないと言ったら、全くの嘘になる。アンジェリークは頬が赤いのをアリオスに知られたくなくて、俯い たまま、気付かぬふりをして通り過ぎようとした。 「待てよ、栗釜飯」 躰の奥から染み込むような艶やかな声に、アンジェリークはぴたりと止まって顔を上げる。 「栗釜飯なんかじゃありませんっ!」 アンジェリークがきつい調子できっぱりと言ったにも関わらず、アリオスは面白がっている眼差しを浮かべる。 「それだけ、秋の味覚が美味そうだってことだろ?」 アリオスのいかにも遊んでいる風の雰囲気が嫌い。アンジェリークは、少し頼りのない睨みをアリオスに利かせると、また一歩歩き出す。 「待てと言ってる! 栗饅頭!」 「栗あんじゃないですよ!」 腕を掴まれ強引に引き寄せられ、アンジェリークは表情を強張らせた。 ずっと女子校育ちで、男性への免疫は全くゼロに近いというのに…。 「…校内禁煙です」 それが言うのが精一杯で、アリオスに反撃することが出来ない。それぐらいアリオスは魅力的で、危険な雰囲気を漂わせていた。 「美味いものを奢ってやる。一緒に来ねえか?」 おいしいもの。 アンジェリークは敏感に反応してしまう。食いしん坊バンザイなので、アンジェリークはおいしいものに弱い性格だ。 「”天使の庭園”の裏メニュー、レオナード特製のササミのカルパッチョサラダ、塩釜牛フィレステーキ柚子下ろしポンズ添え、ポタージュはどうだ? かなり美味いぜ?」 「美味しそう…」 アンジェリークは話を聞いているだけでお腹が鳴りそうになり、この魅力的なメニューには勝てない。 「…食べたいです…」 目の前の男は 「よし! あっちに車を停めているからエンジュも乗れ。レオナードにたっぷりと美味いもんを作って貰うからな」 食いしん坊アンジェリークのお陰で、エンジュも巻き込まれてしまった。 |
| コメント アリコレ、レオエンを絡めながらの新しいお話です。 ひたすら、甘く、可愛くを目指します。 よろしくです。 |