愉しみにしていたのに、”天使の庭園”に行くのに、今日は妙に緊張する。アンジェリークも、もちろんエンジュにとっても。 お互いにふわふわとした道を歩いている気分になり、昨日受けたキスを思い出しては、お互いに無意味に笑っていた。 「今日は、アリオスさん、お迎えに来なかったね」 「社会人だもの。忙しいわよ…」 アンジェリークはぽつりと力無く呟きながら、意味なく道路を蹴飛ばしてみた。 昨日の綿菓子で固められたシーンを思い出すだけで、胸の奥がこそばゆい。糖度が高い瞬間を経験すれば、もっともっと欲しくなってしまう。 エンジュもそれは同じだった。レオナードから貰った琥珀色の大切な時間は、何よりも代えがたいものがある。 恋のシロップ漬けなふたりは、同時に溜め息を出した。お互いに驚く。 「アンジェの今の気分は?」 「綿菓子味」 アンジェリークのキスの味は、ふわふわとしたキャンディの味に取って代わっており、思わず唇を舐めた。 「エンジュは?」 「私はとびきりのコーヒー」 エンジュもまた唇を舌で舐めながら吐息をはく。 完全に恋に呑まれながら、ふたりは”天使の庭園”に向かった。 アンジェリークは特に今日はすることもないので、開店までエンジュの手伝いをすると申し出たのだ。 エンジュにも勝るとも劣らずモップが似合うと言われ、アンジェリークは素直に喜ぶ。 勿論、アンジェリークが手伝いを申し出たのは、それなりのからくりがある。 「私がレオナードさんとエンジュのマヨネーズになるんだもん。からんでからんで〜」 昨日のアリオスとの「会合」で、アンジェリークはマヨネーズならぬ、キューピッドになることを宣言した。それを実行すべき今日の行動に及んでいる。 ふたりをなるべくふたりきりにして雰囲気を作るべく、奮闘していた。 「フロアーの床磨きは私がやっておくから、エンジュはもっとレオナードさんのお手伝いをしてっ!」 「オーナーの手伝いって、あれの?」 エンジュが指差した先には、カウチソファで鼻提灯を膨らませて眠るレオナードの姿があった。エンジュは半ば呆れているとばかりに、ほとんど無視して仕事を続けている。 「いいの?」 「いいの。オープン前は、ああやって寝ているか、女といちゃついているか、どっちかだもん」 エンジュが余りにクールなので、アンジェリークは更に食い下がった。 「ねぇ、起こしてあげてさ、目覚ましコーヒーぐらい作ってあげたら?」 「鼻を塞いだら起きるわよ」 エンジュは相変わらずレオナードに対してだけは辛辣だ。アンジェリークはどうしたことかと、モップを片手に考えあぐねた。 「フロアーはさ、私がやっておくから、エンジュはあっちでごゆっくり!」 「ちょっ、ちょっと、アンジェ!」 アンジェリークはエンジュの背中をしっかりと押しながら、レオナードが眠る場所に追いやる。エンジュも一応は抵抗したが、形だけのもののようだった。 「あー、騒がしいなァ、エンジュちゃんたちは。ピーチクパーチク、雀の学校じゃあねェぞ」 レオナードは眠そうなだらけた声で呟くと、僅かに目を開けた。 「あ、腹減り娘、お前はいつからうちのバイトになっちまったんだァ?」 「今からこの瞬間だけ! レオナードさんの世話をエンジュがしてくれるって!」 ぱちくりとレオナードの目が開いく。少しばかり驚いたようだったが、またいつものからかうような眼差しに変わった。 「そうか。じゃあ、とびきり美味いコーヒーを入れてくれや。お前に昨日教えてやっただろうが」 予測も出来ないまま、レオナードの手が延びてーエンジュのヒップを撫で上げていく。 「ちょっと! 何をするんですかっ!」 口よりも手が早い。とばかりに、エンジュはレオナードの頭を張り倒していた。 「痛ェな…」 「私はオーナーの女じゃありませんっ!」 エンジュは息を粗くしながら、勢い良くレオナードに噛み付いていく。間にいるアンジェリークは、おろおろすることしか出来ない。 「暴力反対だぜェ。てなわけで、お前がコーヒーを入れてくれなきゃ、今日は閉店な。俺様のカワイイ脳細胞が、また消えてなくなっちまったじゃねえかよ」 レオナードはいつもの調子でからかいの吹くんだ不遜な笑みを浮かべている。 真っ赤になったエンジュの横顔は僅かに強張ってはいるが、その頬は乙女らしくほのかに朱く染まっていた。 「ほれよ、コーヒー立ててくれや。腹減り娘に床磨きは任せればいいだろうが。それぐらいの詫びは入れてくれや」 アンジェリークも勿論自分が床ぐらいは磨くとばかりに、モップと一緒に何度も頷いた。 「じゃあね。しっかりとやってね」 アンジェリークはご機嫌に言うと、再び床磨きに入った。勿論、レオナードとエンジュのウォッチングは忘れていない。 エンジュは何だかんだと文句を言いながらも、レオナードの為にコーヒーをたて始める。少しばかりぎこちない手つきではあるが、きちんと手順を踏んでいた。 豆を一生懸命挽く姿は好感が持てる。煙草を片手に、エンジュを優しい眼差しで見守るレオナードが、アンジェリークは素敵だと思った。愛情がほとばしっているような気がする。 「素敵よね、ふふ」 一生懸命レオナードの為だけにコーヒーを入れるエンジュと、優しく見守るレオナード。最高の光景だと、アンジェリークはしみじみ思った。 床を磨いているとほんのりほんわかと、コーヒーの良い香りがする。 二人の世界を邪魔したくはないが、知りたい好奇心には勝てずに、アンジェリークは耳を大きくして澄ませた。 エンジュが頑張ったせいか、ほどなくコーヒーは出来上がり、レオナードのマグカップに注がれる。 「どうぞ! これで真面目に仕事をして下さいね!」 「サンキュ、エンジュちゃあん」 レオナードがひとくち飲むのを、エンジュは息を詰めながら待ち構える。ときめきと不安が交錯した。 「ちょっとブレンドがまずいなァ。30点!」 「低いっ! 折角頑張ったのに!」 「まだまだだ。俺様の域には達しちゃいねえな」 レオナードはせせら笑っているのが、また憎らしい。 「明日、また入れてくれや」 「はあい。明日も力まずに頑張りますっ!」 明日はまた違ったブレンドをしてみよう。ぐるぐると頭の中で考えながら、エンジュは明日のコーヒーに想いを馳せていた。 ふたりが話していると、どこからか妙ちきりんな音楽が聞こえてくる。アンジェリークしかいない。 「随分ご機嫌じゃねェか。何かあったのか?」 「さあ?」 「あんなに楽しそうに、掃除をしてんだから、掃除担当で雇うか」 レオナードはアンジェリークの音が外れた鼻唄がお気に召したようで、笑っている。 「今日はカツサンドとミックスジュースをサービスしてやるか」 「喜ぶでしょうね」 エンジュは、アンジェリークが飛び上がって喜ぶのが容易に想像出来たが、少し妬けた。 エンジュとレオナードが仲良くしているのが嬉しくて、鼻唄を歌っていると、肩を後ろから叩かれた。 「おい、腹減り娘」 「レオナードさん!」 「良く働いたから、カツサンドとミックスジュースをサービスしてやるよ」 思いがけない朗報に、アンジェリークは思わず何度もジャンプした。 「本当ですか?」 「ああ。賃金代わりだ」 ただで絶品カツサンドとミックスジュースが飲めるなんて、こんなに良いことはない。アンジェリークは顔の表情を崩した。 程なく店はオープンし、アンジェリークはいつもはアリオスが座る場所に腰をかける。無意識だということは、エンジュには良く解っていた。 レオナードが一番に作ったカツサンドとミックスジュースを持って、エンジュは席へと運んでやる。 「良かったね、アンジェ」 「うん!」 アンジェリークの表情を見ていると、まだまだ恋にはほど遠いように見える。あどけない少女、子供と言っても良かった。 「今日、アリオスさん遅いね」 アンジェリークの頬がばら色に燃える。全く解りやすい。 「そうなのかあ、あんまり気にしなかったけれど」 それは嘘だとエンジュは思いながら、妙にそわそわとするアンジェリークをくすくすと笑った。 「ゆっくり食べていって!」 「うん!」 エンジュがアンジェリークのテーブルから離れると、ドアが開きうだつの上がらない男が入って来た。いかにもちゃら男といった雰囲気で、エンジュは鼻を鳴らした。 男は、秋の陽射しに白い肌を透き通らせているアンジェリークを見るなり、近づいていく。エンジュは友人が心配で注視していた。 「ひとり?」 「ひ、ひとりじゃありませんっ!」 こんなことに馴れていないアンジェリークは、声をひっくり返している。嫌がっているのは明らかで、エンジュは直ぐにカウンター奥にいるレオナードに声をかけた。 「オーナー!」 「ああん?」 「あの男がアンジェを狙ってナンパしてるの!」 レオナードは直ぐに現場を確認すると、おもむろに電話を手に取る。 「何をするのよ!」 「いいから。直ぐに王子様を呼んでやるよ。来られなかったら、俺が何とかする」 エンジュはすぐにぴんと来た。アリオスを呼ぶのだ。 レオナードはカウンターから出ると、アンジェリークの席にゆっくりと近付きながらアリオスに電話をしていた。 「アリオスか、今すぐ来い。至急だ。天使様が悪魔に捕まりピンチだ」 それだけ言ってレオナードは電話を切った。 「そんなんじゃ解らないじゃないのっ!」 「すぐ、そこにきてるらしい」 エンジュが返事をする間に、アリオスが姿を見せ、直ぐにアンジェリークのテーブルに向かう。一目散にだ。その勢いには、エンジュもたじろいだ。 アンジェリークはと言えば、直ぐにアリオスの姿に気付き、困惑な表情から、一気に晴れ上がってくる。 その顔をみた時、エンジュは先程の言葉は撤回だと思った。 アンジェリークは既に恋のど真ん中にいると。紛れも無く恋する乙女だ。 「俺のものに手を出すんじゃねぇ!」 アリオスは男に凄むと冷酷な眼差しで睨み付け、そこにいられないようにしてしまう。男は罰の悪そうな顔をすると、そそくさと立ち去った。 「さてと、こいつは貰っていく」 「きゃあっ!」 カツサンドを持ったままのアンジェリークを抱えると、アリオスは鞄を拾って出ていく。 嵐のように通り過ぎたので、エンジュは呆気に取られた。 どうやら、レオナードがキューピッドになったようだ。 |
| コメント アリコレ、レオエンを絡めながらのお話です。 |