闘いの後に見る月は、どうしてこんなに感傷的になってしまうのだろうか。特に、負け戦の後は。 平家のものたちは、もはやギリギリのところに立たされていた。 滅ぼされるわけにはいかない。だが、滅び行く流れを止められない。 将臣はひとり月を見た。 幼なじみは同じ月を見ているのだろうか。近くにいるのに、遥か遠くにいる感覚すらある幼なじみ。 今頃は、勝利に酔いしれているのだろうか。それとも、苦い想いを抱いているのだろうか。 見上げる月に答えを求めても、鈍い光りを投げ返してくるだけだ。 「しけた顔をすんなよ、有川。それとも、今のお前には、”兄上”と言ったほうが、合っているかもな。小松内府重盛殿?」 不適な笑みを含んだ声に、将臣は振り返る。知盛だ。誰もが重い雰囲気に押し潰されそうになっているというのに、ただひとり満足げな笑みを浮かべている。 「何の用だ?」 将臣は自分の声が、刺を含んでいるのを感じながら、目の前にいる血に飢えた獣を見た。 「見事な闘いぷりだったらしな。殺すことに迷いない瞳は、ゾクゾクするぜ? お前も俺と同類だってことだ。あんなに和議を望みながらも、源氏の血が流れるのを何とも想わない。俺には良い相棒だぜ、兄上」 知盛は機嫌良さげに、将臣の横に腰掛けると、盃を差し出した。 「飲むか?」 「いらねぇ。今はそんな気分じゃねぇんだよ」 将臣は眉間にシワを寄せると、知盛を睨みつけた。冷たい氷のような眼差しで。 「まあいい。盃を断られたぐれえで、怒る気にもならないさ。俺は今、最高に良い気分だ。これから起こる宴を思うだけで、血が沸騰するぜ」 知盛は月を見上げると、誰かを恋うる表情をする。まるでかぐや姫にでも恋をしているようだ。 「------源氏の神子と剣を合わせた」 将臣は眉間に更に深いシワを刻む。望美たちを待ち伏せしたのは、確かに知盛だった。血液が、知盛とはまた違った意味で煮えたぎっていく。 「あれは良い女だな…、有川」 背筋が凍る程に良く通る声に、将臣は心中に嵐が駆け抜けるのを感じる。 将臣の表情が険しくなったことなど構わずに、知盛は快楽の笑みを、その薄い唇に浮かべた。軽薄な笑みは何よりも恐ろしい。 将臣の冷え切った背筋すらも一瞬で凍るような顔も、知盛は面白がっている。 知盛は、凍てつく月に恋するように見つめた。 「あれは良い女だ…。剣を合わせただけで、この俺の血を沸騰させる。とことんまで俺を愉しませてくれる…」 凍るような表情のままの将臣を、知盛はちらりと見る。まるで好敵手を見つけて、喜んでいるような表情だった。 「あんな女はいない。今まで、俺にとっての女は、生理現象とも言える、溜まった性を吐き出すだけの存在だった。滑らかな肌をして、俺の欲望をスッキリさせてくれれば、誰でも良かった。側女には特別な感情なんて、抱いたことすらなかった」 「有川お前もそうだろう?」と、知盛は眼差しで言っている。確かにそうには違いなかったが、将臣の場合、相手が望美でなければ意味はなかった。望美以外の女に、心を動かされたことなど、ただ一度としてなかった。望美以外の女なら、ただの性的衝動や欲求を満たす道具に過ぎない。ダッチワイフ以下だ。 「…剣を合わせただけで、源氏の神子は、今までにない快楽を俺にくれるんだ。白く丸みを帯びた柔らかい躰なのに、その太刀筋は驚くぐらいに力強い。それにあの瞳だ。俺の全身を焼き尽くしてしまうような瞳…。あんな瞳を向けられたら、応えないわけにはいかないだろ?」 知盛は艶めいた流し目を、将臣に向ける。意味深なそれは、まるで宣戦布告でもされたような気分になった。 イラつく。 ムカムカする。 知盛が望美の話をする度に、神経が擦り減るような気がする。 感情を持て余し、へどが出る程に気分が悪くなった。 「これほどこの俺に快楽をくれる相手はいない。白い肌、媚びない強い眼差し…。真っ直ぐ過ぎる太刀筋。どれも俺を刺激する。捕らえて、この腕に閉じ込めて、俺を刻みつけてやりたい…! 俺色に染まりながらも、刃向かうあの女の顔が見たい…! 俺と同類の匂いがするあの女を…」 「アイツはそんな女じゃねぇ…!」 将臣は、自分でも驚いてしまうぐらいに、低くて冷徹な声を出していた。どす黒い感情が腹のなかを食いちぎろうとするぐらいに、暴れている。 知盛はと言えば、まだ青さが残る将臣をせせら笑うように見ている。 「…あの神子とお前は、筒井筒らしいな…」 「それがどうした」 将臣はむしゃくしゃして、酒を煽る。 「望美…。満月の名前だ。だが、俺には不完全な月に見える。少し欠けた、十六夜の月のようにな…。そこがまた、そそられる」 これ以上、知盛の戯れ事には付き合いきられない。将臣は立ち上がると、静かにその場を辞した。 「どこに行く?」 「ションベンだ」 「せいぜいスッキリしてくるんだぜ? 兄上」 知盛の言葉ひとつ、ひとつが気に喰わない。 嫉妬と言う名のどす黒い感情が、完全に将臣を狂わせていた。 陣の入口まで来ると、平家配下のものに呼び止められる。 「還内府殿! どちらへ!」 「うるせぇ。少し出てくる。朝までには戻るから心配するな」 「御意!」 将臣の不機嫌極まりない声に、兵士も悟ったようだ。障らぬ神に祟り無しと。 将臣は、十六夜の明るい月に導かれるように、いつの間にか海に来ていた。 海は総ての想い出に通じている。 愛しい幼なじみとも繋がっている。 躰の芯まで凍えてしまうほど冷え切った空気の中で、将臣は月を見つけた。 淋しげに、苦しげに、小さな背中を震わせている。 たったひとりで、苦しみに、哀しみに堪えているのだろう。 平家のなかには、望美を恐ろしいほど凛然としていると思っているものは多いが、それが間違いであることを、 将臣は一番よく知っている。 震える背中を抱きしめて、このまま癒してやりたいとすら思う。 だが、そんなことは許されない。 今の自分には。 じっと背中を見ていたせいで、気配に気付いたのか、望美がゆっくりと振り返った。 大きな瞳には涙が滲んでいる。 きっとずっと泣いていたのだろう。将臣は、胸の奥にナイフが突き刺さったと思うぐらいの、痛みを感じていた。 「…将臣くん…」 あの幸せだった日と同じように無防備に、望美は名前を呼んでくれる。今だけは、遠い昔にタイムトリップしたみたいだ。 「やっぱり、将臣くんもひとりになりたかったんだ…。私も、今は源氏の陣にいられなくて…」 必死になって涙を堪えようとしている望美が、愛おしくてしょうがない。 将臣は自然と望美の横に腰を下ろすと、同じように海を見た。 「学園祭の準備で遅くなった時に、電車が来るまで七里が浜に下りて、こうやって海を見てたよね。他愛ない話をしてたよね。話に夢中になり過ぎて、電車に乗りそこねたりして…」 「そうだな。随分とバカなことをしていたよな。俺達…」 望美と話していると、不思議と落ち着いた気分になる。どす黒い感情がどこかにいってしまいそうになった。 ふと人影がこちらに向かって走ってくるのが見えた。 「還内府殿! ここにいらっしゃいましたか! すぐに陣にお戻りを! 兵士たちの士気が低下しますゆえに!」 「朝までには戻る。だから今はそっとしておいてくれ」 「しかし、知盛殿が」 「うるせぇ! アイツにはひとのションベンを邪魔するなとだけ言っておけ。朝までには必ず戻る」 将臣が睨みつけたせいで、すっかり兵士は竦み上がってしまう。無理矢理頷くと、「ではごめん」と立ち去っていく。 「…良かったの?」 望美が心配そうにこちらを窺っている。自分のことよりも、先ず将臣のことを心配するあたりは、相変わらずだ。 「お前こそだろ」 「そうだけど、知盛も待っているって…」 望美が口にした男の名前に、将臣は神経を尖らせる。望美の口からは、聞きたくない名前だ。 「…そんなに知盛のことを気にしやがって…。あの男がそんなに良いのかよ? 逢い引きでもしたのか?」 こんなことを、決して言いたいわけではないというのに、つい口に出てしまう。 嫉妬の焔で、将臣は心が黒焦げになってしまうのではないかと、思った。 今まで、こんな下世話な感情で苦しんだことなど、ただ一度としてなかったというのに。愛は、ひとを狂わせてしまうのだろうか。 情念の強さを、将臣は初めて識った。 「そんなことあるわけないじゃないっ! 知盛と逢ったのは二度だけだよ! 生田の森でとこの屋島と! 剣を合わせただけだよ!」 望美の瞳が真っ赤に燃え盛る。紅蓮の焔が瞳に見える。 夜叉のようだと、将臣は思った。 烈しくそして凛然とした望美は、戦女神にすら見える。 闘うために生まれてきたかのようだ。 あの知盛を唸らすだけはある、雰囲気を持っている。 「知盛は剣合わせただけで、随分お前を気に入っていたみたいだ」 将臣は知っている。 本能で識っている。これは、望美にとってはひとつの顔に過ぎないことを。 改めて自分は、望美の総てをひっくるめて愛しているのを感じた。 「…それは、本気の太刀だからだよ。私は、器用じゃないもの。誰彼いいわけじゃないもの…。私は…、ずっとひとりのひとを見ている…。小さい頃からずっと…! 知盛を打ち崩さないと、私は先に進めない。そのひとと本当に打ちあえない。だから、だから、知盛に全身全霊の太刀向けた。それだけよ」 望美の眼差しに嘘偽りはなく、真実だけを将臣に見せてくれる。 知盛を魅了した輝ける眼差しも、総てが自分に向けられたものであったとは。 「…私は、将臣くんしか見えていなかったのかもしれないけれど…」 触れるのは禁忌。 そんなことは解っている。 だが、この極上の宝石を今触れなければ、もう触れることはないかも知れない。 だからこそ。 記憶に、細胞に、刻みつけておきたい。 将臣は望美の細い躰に手をかけると激情の余り抱きしめていた。 それこそ、望美が息が出来ないほどに、思い切り抱きしめる。 呼吸も、何もかもを奪いたい。 将臣は、誰にも見せたことのない、情熱の籠もった熱く甘い眼差しを望美に向けると、その唇を貪るように奪った----- 「んんっ!!」 望美の苦しげな声なんか関係ない。ただ、この唇に、細胞に、記憶に、自分を刻みつける。 自分が生きている内は、誰にも望美に触れさせはしない。 知盛の色なんかに染めさせない。 ましてや譲にだって。 将臣は、望美が忘れられないようにと、舌を深く口腔内に忍び込ませ、陵辱していく。 ------絶対に誰にも渡さない。 「んん…っ!」 唇からこぼれ落ちる唾液も、誰にも渡さない。 将臣は望美の唾液を呑み込んだ後、ぽってりと唇が腫れるまで、それを吸い上げる。 「…んっ…!!」 誰にも渡さない。 誰にも止めさせない。 誰にも望美を染め上げさせはしない。 今だけは。 唇を離す瞬間、将臣は望美の唇の端を思い切り噛んだ。 「…いた…っ!」 望美の柔らかな唇からは鮮血が滲み、しょっぱい味がした。 そこを舌先で舐めてやる。 「好きだ」とは、決して言葉では言えないから、唇に想いを込める。 もう誰にも望美を渡したくない。 ただひとつ、諦めることが出来ないものを、今だけは離さない。 誰にも渡さない。 赦されるまでの僅かな時間、将臣はじっと望美を抱きしめ続けた。 無言で。 今、この生と死の狭間の中で、自分の思いを告げることもなく。 極上の月をこの腕に抱きしめ、将臣は時間と運命の無情さを思った----- 「そうか、アイツは女と一緒にいたのか。随分と長いションベンだぜ」 知盛は、月から目をそらせることなく、見に行かせた使いに者にそっと呟いた。 同じ月を愛でる------ だが、月の違う面を、お互いに見ている。 冴え冴えと光る月を見ながら、知盛は、初めて「嫉妬」という、愚かな感情を識るのだった。 |
| コメント 340000HITのゆか様のリクエストで、知盛と望美がどこかで繋がっていて、それを将臣が嫉妬する。 です。 リクエスト通りの物語になったかは微妙なところですが(済みません力不足)、書いていて楽しかったです。 |