「レストランは大騒ぎ」

エルンスト×レイチェル「たじろぎの相対性理論」


  恋は突然やってくるもの。足音も立てず、ひっそりと華やかに。
 昨日まで恋をしてないと信じ込んでいた相手にも、突然恋をしてしまう場合もある。
 そのひとはいつも同じ時間、同じ席に座る。注文するメニューもいつも同じ。正直、飽きないのかと思うが、それは大きなお世話というもの。
 今日も、隙などあり得ないキッチリとしたまるで制服のようなスーツを身に纏い、革靴はぴかぴかに輝き、眼鏡は曇りのない状態で、そのひとは分厚い本を持って現れた。  完璧過ぎて笑えるぐらいだ。
「…すごっ! 毎日、毎日、時報並の正確さで、良く店に来られるものだね〜」
 レイチェルは店の中央にある時計を見上げながら、感心の余り溜息を吐いた。
「ほらっ! 彼の計算された毎日を崩さないように、レイチェルも、接客、接客!」
 明るく親友のアンジェリークに背中を押され、レイチェルは男の前にいつものように、背筋を伸ばして立つ。勿論輝かしい笑顔も忘れてはいない。
「”エンジェル・ミラーズ”へようこそ! いらっしゃいませ!」
 勢いよく挨拶をすると、そのひとの眉が僅かに動いた。それが彼なりの挨拶であることは、レイチェルも充分に判っている。
 初めてアルバイトに入ってから、毎日のように目の前の男を担当している。もう、彼が何処の席を好んで座り、何を好んで食べるか、レイチェルの頭の中にはインプットされている。だが、きちんとマニュアル通りに席のお伺いを立てる。あり得ないかもしれないが、万に一つの可能性で、違った席を所望するかも知れないからだ。
「お客様、禁煙席と喫煙席がございますが」
 もう言い尽くされた陳腐なマニュアル通りの台詞を言えば、返ってくる言葉も同じ。
「禁煙席をお願いします」
「かしこまりました」
 そのままいつもの木々が美しく見える窓際の席に案内をして、座って頂く。その後には、冷たいミネラルウォーターを出せばいい。
「ご注文は?」
「ヘルシー日替わりランチAを」
「畏まりました」
「お飲み物は?」
「ブラックコーヒー」
「畏まりました!」
 毎日顔をつきあわせて、毎日同じ台詞しか交わさない。本当のロボットのように同じ台詞しか吐かない。お互いに。
 レイチェルは毎日顔を合わせているのに、こんな凡庸な会話しかしない自分に嫌気が差していた。一度ちゃんと話してみたいという欲求は、今日彼が持っている本のタイトルを見て、益々強くなる。有名な『相対性理論』の読本だ。
 目の前に座る、年齢的にも端境にいる男性は、いつもレイチェルが好む本ばかりを手に持っていた。
 相対性理論だとか、バークリィ哲学なんて事は、同じ年、あるいは少し年上の男だって、話題には出来ないしろものだ。だがレイチェルはそういったことに興味があり、出来たら一晩中熱く語っても飽きない男性が好みだった。
 正に目の前の男は、本の好みに関しては合格といえる。少しばかり堅物なのが、たまに傷なのではあるが。
 実のところ、服の趣味や、その横顔だって悪くない。それどころか、落ち着いて完璧すぎる鋼鉄の雰囲気は、レイチェルの乙女心をくすぐっている。
 ちゃら男が大嫌いなレイチェルには、むしろ真面目を絵に描いた男のほうが好ましいとも言えた。
 注文を訊く時も、「いつもの」だなんて斜に構えた言い方をしないのも、好ましい。
 眼鏡を通して見る横顔は清冽としていて、佇まいも背筋と同じく真っ直ぐと淀みがない。持っていた本をテーブルに置いて、綺麗な指でめくる。
 いつの間にかレイチェルは無意識に観察をしていた。
 柔らかに窓から注ぐ穏やかな秋の日差しが、秩然とした美しいそのひとを温かく照らし、無彩色だった彼の周りが一気に華やいだ。少なくともレイチェルはそう思い、じっと男の姿を視線で捕まえる。
 いつもは本から視線を離さない男が、首ごと視線を捕らえてくる。逆に捕まえられて、レイチェルはドキリとした。
「  何か、仰りたいことがあるのですか?」
 男が、注文以外に口を利いたのは初めてで、レイチェルは目を剥く。胸の鼓動が早くなり、どうして良いか判らなくなった。
 じっと彼の怜悧な視線で縫い止められて、いつもは狼狽えないレイチェルが、思わず喉を鳴らして生唾を飲み込む。しかも、自分を護るかのように、トレーを胸元で抱きしめてしまう。
「あ、申し訳ございませんっ! 失礼します!」
 勢いよくお辞儀をすると、息を乱しながら、厨房前のカウンターに戻っていく。冷静に歩いているつもりが、テーブルの角で足をぶつけたりと、散々だった。
  ようやくのことで仲間の待つ厨房前のカウンターに辿り着くと、アンジェリークが不思議そうな視線を向けてくる。
「どうしたの? 今日のレイチェル、何か変よ?」
「何でもないヨ! いつもワタシは冷静沈着!」
 行ってる端からのから笑いに、アンジェリークはちらりと男の席を見る。
「いつも通りの堅物さんだけれど、何かあったの?」
「あ、注文通してから話すっ!」
「了解!」
 からりとした秋空のようにアンジェリークは笑うと、喫煙席側の接客に行ってしまった。レイチェルは珍しく大きな溜息を吐くと、ちらりと窓際の禁煙席に座る男を見た。
 いつもと変わらない会話を交わし、いつもと変わらない接客をしているつもりだったのに、今日はなぜかおかしい。傍に行くだけで、心臓が飛び出して一回吐き出してまた元の位置に戻るような、お祭り騒ぎを起こしている。
 いつもと変わりのない接客や対応をしているというのに、突然恋をしていると気付くなんて、有り得るのだろうか。それこそ数式では求められない不思議さだ。
「12テーブル、ヘルシー日替わりランチA出来上がりました!」
「はあい!」
 厨房から出された男が注文したものを、トレーに乗せてレイチェルは運ぶ。いつもならきびきびと出来るのに、どうして今日はこんなにおどおどしいのだろうか。
「お待たせ致しました」
「どうも」
 本から視線を動かさぬまま、男はレイチェルなど見ずに軽く会釈をする。
 ワタシは相対性理論に負けるのか。そんなことを思いながら、ふと本を覗き見する。いつもなら絶対こんな事はしないし、今までも男の前では、いくら興味深い本を読んでいても、こんな不作法なことをしたことはなかった。
 ふと男の整った視線が上がる。
「この本にご興味をお持ちですか?」
「あ…」
 突然、男に声をかけられたので、レイチェルは躰を跳ね上げさせて、飛び上がる猫のように男の傍から離れた。
「…そ、相対性理論の本ですよね、その前はバークリィ哲学。ワタシ、大学は物理学部を目指しているので、興味があって覗いてしみました、アハハハハ!」
 言葉がいつもに増してスピーディーに口から自然とこぼれ落ちる。最後の大胆な見苦しい笑いは焦った時のごまかし。
「…ほう…。だったらお読みになりますか?」
 男は感心したように言うと、本を閉じ、それをレイチェルに差し出した。
「学生向けの判りやすく解説が成された本です。あなたにならぴったりでしょう」
「あ、有り難うございます」
 口から出任せではないとはいえ、突然の展開にレイチェル自体も驚き、少し息を詰める。
「頭を柔軟にさせるのには実に良い本です。しっかりと読んで、勉強に励んで下さい」
「ハイっ!」
 レイチェルは心臓が不整脈を打つのを感じながら、しっかりと男に元気よく返事をした。すると神経質に磨かれた眼鏡の奥にある涼やかな眼差しが、音を立てるように微笑んだのだ。
 完全にハートを大きな矢で射抜かれてしまった。総てが静止し、レイチェルの胸に、男の姿がしっかりと痛いほど鮮明に焼き付けられた。もう逃れられない。恋の神様に捕まってしまったのだ。
 今まで50回は接客してきた相手だというのに、今は傍にいるのですら心地の良い拷問だと思う。
 一体、ワタシはどうしてしまったのよ!
 ぼんやりとして息継ぎをすると、男が怪訝そうにレイチェルを見上げてきた。
「何かあるのですか?」
 硬い他人行儀な声だ。
「いいえ、何にも!」
「だったら構いませんが。何か判らないことがありましたら、ここに来た時に訊いて下さって構いませんし、その…」
 わざとらしく男は咳払いをすると、胸ポケットから名刺を取り出してきた。
「こちらにご連絡下さい。あなたの勉強のお力になりましょう」
 名刺を受け取りながら、レイチェルは男の名前に視線を釘付けにする。彼の名前はエルンスト。名門スモルニィ大学理学部の助教授をしてる。そこは偶然にもレイチェルが目指している大学だった。
「ワタシ、ここを目指しているんです!」
「ほお…。私もあなたのように向上心の高い学生なら大歓迎です。もしよろしければ、私のゼミに顔を出して頂いても構わないですよ」
「有り難うございます!」
 すっかり接客を忘れて、レイチェルはエルンストと盛り上がってしまった。こんなにフィーリングがしっくりといく相手も、本当に珍しい。天才少女レイチェルは、常に自分と対等に渡り合える男を捜していたが、やっと見つかったという感慨があった。
「…では、また」
「はいっ!」
 テーブルを辞した後も、まだレイチェルの胸はときめきのボルテージが上がり続けている。
 エルンストの動向を気にしながらも、これ以降は興奮状態で、楽しく接客することが出来た。
 エルンストが立ち上がり店を出る際も、レイチェルは慌ててレジに向かい、精算までする。
「本日は900G頂きます」
「はい」
 いつもきっちりおつり無し。そこもきちんとしたエルンストらしい。
「また。ごちそうさま」
「はい。有り難うございました!」
 爽やかな笑顔と共に、レイチェルはエルンストを見送る。爽やかな秋風と共に帰ったそのひとは、いつもよりも15分レストランで長居をしていた。
 レイチェルは爽快な気分で見送り、これからの空気が淀むくらい忙しいディナータイムも、頑張れそうな気がする。
「レイチェル♪」
 ぽんと肩を叩かれ振り返ると、ニヤニヤと笑うアンジェリークとエンジュの姿が見えた。ふたりとも含み笑いをし、元来の好奇心を剥き出しにしている。
「レイチェル、さっきの堅物の人とはどうなのよ?」
 つんつんと肩を自分の肩で突いてくるアンジェリークに、少しだけ頬を赤らめてしまう。いつもはきっぱりあっさり、アルバイトの女子高生軍団を束ねているレイチェルが、こんな面を見せるのは本当に珍しい。相手が親友のアンジェリークやエンジュだから、出せるのかもしれない。だからちゃんと言える。キッパリ堂々と宣言が出来る。それにふたりに宣言をしておけば、否が応でも行動に出ないわけにはいかない。
 エルンストが欲しい、エルンストと過ごす素晴らしいひとときが欲しい。より早く手に入れるためにも、待ってなんかはいられない。
「ワタシ、ここで宣言する」
 レイチェルはふたりを前に、拳をぐっと握りしめ、少し勝ち気な瞳を輝かせる。
「あの堅物、エルンストを絶対に落として見せる」
 きっぱり、力強い宣言。恋人同士になったら、一晩中、相対性理論を熱く語り、バークレィ哲学の演繹的結論を甘く紡ぎ出すのも良い。
 うっとりと考えていると、アンジェリークが悪戯っ子の眼差しを向けてきた。
「だったらレイチェル、その堅物さんを落とせたら、私たちがカフェ・オランジェのガレットを1箱驕るわ。その代わりに落とせなかったら、私たちにカフェオランジュのガレットを1箱ずつ驕ること!」
 食いしん坊のアンジェリークはにこにこと笑い、エンジュも笑って頷いている。
「判ったワ! それに乗った!」
 レイチェルは胸を張り、手を腰に当てて頼もしく頷く。
 恋も絶品のガレットも手に入れてあげる。レイチェルの志は、秋の空よりも高かった。

   *

 週末、エルンストから借りた学生向けの『相対性理論』についてのハンドブックを読んだ。少し見たアンジェリークが「ごめん、頭痛がする」と言ったほどの内容で、エルンストが言うような初心者向けのものとはほど遠かった。基本的な物理を理解していないと、先ずは不可能。優等生のアンジェリークですらも悩ませる本も、物理が得意なレイチェルにかかれば、容易くなる。
 大体を理解して、もっと知りたいところや理解にあやふやな所をレポート用紙に書いて、本に挟んでおく。そこには一言を忘れてはいない。
 ”エルンストさんと夜明けの相対性理論を語りたい”
 ハートまあくを付けて出来上がり。横には、自分の似顔絵を可愛く描いてみる。
「これでカンペキ! おっしゃあ!」
 深夜の雄叫びにも、レイチェルの気合いは充分に込められていた。
 
 大切に鞄の中に本を詰め、うきういきと学校に出かける。いつもはそつなく授業をこなすレイチェルだが、今日はいつもに増して授業がもどかしい。早く放課後のアルバイトの時間にならないかと、何度と無く気を揉んだ。
 終礼の鐘と共に学校を飛び出し、
”エンジェル・ミラーズ”に向かう。制服も昨日洗濯をしたのでばっちりだ。
 そそくさと着替えて、髪をまとめたら、さあ、戦闘開始。
 後はエルンストがいつもの時間、いつも通りに現れるのを待つまでだ。
 遅いランチの時間に顔を出す常連はいつもの三人。金髪の柄の悪い酒臭い男、銀髪のチンピラ風のクールな男、そして生真面目を絵に描いたエルンスト。以上三人。
 いつものようにぴったりの時間に現れ、レイチェルはいつものように堂々と元気よく挨拶をした。そして、いつもの席に案内をし、注文を訊く。
「ではホットコーヒーで。エルンストさん、本、有り難うございました。後で持ってきます!」
それは良かった。お役に立てて光栄ですよ、レイチェル」
 初めてエルンストに名前を呼ばれて驚いていると、彼は名札を指さす。
「ずっと知っていましたよ…その…あなたの名前は…」
 すっと綺麗な指先をエルンストが名札に向ける。そこにはレイチェルの名前がきちんと書いてあるが、殆どの客が注視しないところでもあった。
「いつも私を完璧に接客して下さる方の名前を覚えるのは…当然ですから」
 白い肌がほんのりと赤くなる。生真面目で真っ直ぐな性質に、レイチェルは更に好意を覚える。こういった実直な素顔にも愛しさを感じた。
「今度はこれはいかがですか?」
「あ! 入門書の次の段階! 有り難!!」
 レイチェルは本をまたかして貰えたのが嬉しくて、胸元でぎゅっと抱きしめる。ときめきだとかそんな表現ではしきれないほどの、幸せと興奮が胸にせり上がってくる。
「ホーキンス博士の本も大好きなんですよ、ワタシ」
 エルンストは楽しそうに頷き、机を一度あの指先で叩いた。
「なかなか興味深い発見です、あなたは」
 硬さと優しさが丁度良い具合にバランスの取れた声のトーンで、味わうように呟く。エルンストらしい控えめな婉曲した褒め方に、レイチェルは嬉しさの滲ませた微笑みを浮かべた。
「エルンストさん、だったらワタシをもっと興味深く発見したいとは思わない?」
 ウィンクを付けておきゃんな面を見せてみた。
 ストレート過ぎたかもしれない。だが、レイチェルは文字通りエルンストには直球を投げる。そうしなければ、判って貰えないような気がしたから。
「あ、ああの、その、私は…」
 運ばれたばかりのコーヒーにいつも入れないフレッシュを入れ、ぐるぐるとかき混ぜる。エルンストが動揺しているのは明らかだ。
 可愛いと思ってしまう。こういった今まで見られなかった瞬間を見せてくれることが、レイチェルには嬉しい。
「エルンストさんと一度、顔を向き合って色々とお話をしてみたいネ!」
 言ったと同時に、エルンストは食べていたサラダを喉に詰まらせてむせる。レイチェルは驚いて、その背中を咄嗟にさすった。
「ダイジョウブ!?」
「大丈夫ですよ、少し気管に入っただけで…」
「…だったらいいけど…」
 ふとエルンストと目が合う。その瞬間、エルンストが茹でたこのように真っ赤になってしまったので、レイチェルははっとする。エルンストの目線を追うと、自分の胸が躰に密着していた。
「…あ…すみません…躰を離して頂けたら、その…」
 頭から湯気がぷすぷすと出る状態で、エルンストは恥ずかしそうに俯いている。全くなんて純情で可愛い男性だろうか。ずっとずっと年上かも知れないが、レイチェルにとっては護ってやりたくなるような愛らしさを感じていた。
「エルンストさんだから密着したのに」
「レイチェル!! か、からかうのは止めて…下さい…」
 益々焦るエルンストに、レイチェルは抱きしめたくなってしまう。
「ふたりで、夜明けの”相対性理論”を語ろうよ、エルンストさん?」
「お、大人をからかうのは…良く…ありません…」
 困ったように照れるエルンストは、なんと魅力的なのだろうか。心の琴線に強く触れてくる。
「…今度、ゼミに遊びに来なさい。あなたなら、快く招待しますから」
 エルンストは、自分のゼミの時間と教室をメモに書き写してくれる。それを渡されて、レイチェルは有頂天になった。
「是非、是非!! 行きますネ!」
「待っていますよ」
 メモも本も、レイチェルの腕の中で宝物以上の扱いを受ける。今にも飛び上がってしまいたいほど嬉しい。
 完全にお手上げになるぐらいに、エルンストとの恋に盲目となっていた  

   *

 最近、レイチェルと客のエルンストの雰囲気が良いということは、店中でも評判になっていた。
 今日は休日でエルンストもやってこない上に相当忙しく、レイチェルはへとへとになりながら、ようやく休憩を取る。それはアンジェリークも同様だ。
 ふたりで店の裏手に出て、外の空気を吸いながら、ジュースを飲んでブレイクタイムだ。
「あれ、エンジュは?」
「エンジュは、あの酒臭いひとの接客中。まんざらでもないかも♪」
 アンジェリークは、賄いのおやつであるビスケットを囓りながら、楽しそうに言っている。
 アンジェリークは素直でどこかおおボケな所もあるが、とても憎めない。友人や周りの人の幸せ話や恋の話が大好きで、みんなと同じように悩んだり笑ったりしてくれ、恋が成就したらとても喜んでくれる。本当に可愛い親友だ。
「レイチェル、エルンストさんとはどうなの?」
「うん、一進一退カナ? でも、真夜中の”相対性理論”を実現すべく頑張ってるヨ!」
「”真夜中”じゃなくて、”夜明け”じゃなかったっけ?」
「そんなことはどうでも良いの! とにかく、ワタシタチふたりはロマンティックに相対性理論を語り合うのよ!」
 レイチェルは夢見るように呟き、空を見上げる。神様、恋をさせてくれて有り難う! そんな幸せで情熱的な感情が秋の空に舞い上がった。
「叶うと良いね。レイチェルもエルンストさんも賢いから、本当に似合いそう!」
「アインシュタインよりも凄い発見スルカモ〜」
 レイチェルは調子に乗ってぶちまけてみる。秋の空高くに飛んで行けそうな気分だ。躰が軽くて、天使のように羽根が生えて本当に飛べそうだ。
「レイチェルとエルンストさんだったらさ、キュリー夫妻みたいになるかなあ」
「夫婦でノーベル賞か、イイカモ」
 恋する夢見る乙女の会話はいつもマシュマロ。かつてはそんな雰囲気をバカにしていた所もあるけれど、アンジェリークやエンジュという友を得て、これはこれで楽しいと思えるようになった。
「このままだと私とエンジュの賭けは負けかなあ」
「だね! カフェオランジュのガレットは頂き〜♪」
 ふと、背後に人の気配を感じる。どこか重たい雰囲気に、レイチェルは思わず振り向く。
「…エルンスト…」
 驚きのあまり、レイチェルは敬称を付けるのを忘れる。
 そこにいたのはエルンスト。いつもは感情を余り表に出さないのに、今この瞬間に限っては、蒼白の表情をしている。唇が僅かに戦慄いているのを、レイチェルは見逃せなかった。
「…そうですか…。あなたのように若くて聡明な方が、このように私をからかっていたとは…残念です…」
 エルンストが発する言葉の一つ一つがかなり重い。レイチェルの心に重くのしかかり、銀色の重りとなって押し潰す。
「…ちがうんです! エルンストさん! レイチェルは本気であなたのことを!」
 アンジェリークは必死になってエルンストに言うが、言葉を聞く耳をもう持ってはいない。エルンストはただ何度か頭を振るだけだ。
「エルンストさん!! レイチェルはそんな子じゃありません!」
 だが、何度言っても結局は無駄足だった。
「さよなら、レイチェル」
 ただそれだけを言い残し、エルンストは静かに立ち去っていく。
 余りにもショックすぎて、レイチェルの足がその先を動かなかった。踏み出そうとしても、上手く踏み出せなかった。
 静かな怒りを滲ませる背中を黙って見つめるしか、レイチェルには出来ない。
「…ごめんね、レイチェル…。私がお喋りで入らないこと言っちゃって、レイチェルの大好きな人を傷つけて」
 栗色の髪を揺らしながら、アンジェリークは本気で泣いてくれている。細い肩を揺らして、哀しそうに俯く。
「…アンジェ」
「本当は…、レイチェルのほうが哀しいのに、私ばっかり泣いちゃって」
 心優しい親友が、この壊れそうな心を支えてくれる唯一のものだ。
「ねえ、アンジェリーク、泣いて良いかな…?」
「うん、レイチェル…。どうぞ」
 ふたりはしっかりと抱き合って、泣き合う。肩を震わせて、泣けるだけ泣いた。
 レイチェルは親友にも初めて泣き顔を見せた。それは、それだけエルンストの事が大好きだと言うことを、表していた。
 友達って良い。こうやって一緒に泣いて、笑って、喜んでくれる友達が良い。
 アンジェリークはレイチェルが初めて見つけた親友だった。天才少女と誉れ高い彼女を敬遠する人間が多い中、アンジェリークが唯一自然に接してくれたのだ。
 親友の温かな涙と、自分の温かな涙に包まれながら、レイチェルはじんわりと惨めな気持ちを噛みしめた。

   *

 あれから当然の事ながらエルンストは来ない。あんなに律儀に、いつもの時間、いつもの席で、いつもの日替わりメニューを頼んでいたというのに。
 同じ時間に接客で席の前を通りかかるたびに、レイチェルの胸は軋むような音を立てた。
 秋の穏やかな日溜まりはそこにあるというのに、彼はいない…。
 現実を見せ付けられるたびに精神的にも体力的にもどんどん消耗する。茶目っ気のあるレイチェルは、すっかり影を潜めていた。
 ずっと持っていた、エルンスト直筆のゼミの案内。もう無駄なものになってしまった。
 レイチェルは何度も見つめた後、それを思いきってゴミ箱に捨てた。
 それを直ぐにアンジェリークが拾ったとは、露程にも思わずに。
 ゼミの前日、休憩時間にアンジェリークに誘われて店の裏手に出た。
「レイチェル、明日、ゼミに行こうよ」
 唐突に何を言い出すのかと思い親友を見ると、かなり思い詰めた表情をしていた。
 責任を感じているんだ。そう思うとレイチェルの心は痛くて悲鳴を上げた。大切な親友にまで、こんな思いをさせてはならないとすら思う。
「いいよ、アンジェ。もう吹っ切れたんだよ! エルンストのことなんて。だから明日のゼミも行かない。再来年、大学に入学して顔を合わせても、きっと笑っていられるぐらい、吹っ切れたの! どうせエルンストのゼミはまた受けられるし!」
 なるべくアンジェリークが困らないように、レイチェルはいつもにも増してからからの明るさで言う。ちゃんと笑って、吹っ切れたときっぱりと宣言をした。だが、そんな芝居、親友には通じるはずはなく、アンジェリークは涙をためて厳しい表情を浮かべる。
「レイチェルは嘘を吐いてる!」
 きっぱりと強くアンジェリークは言い放ち、珍しくもレイチェルを睨み付けてくる。アンジェリークは元来、可愛らしい顔をしてるので、ぷんすかと怒っても、怖さはなく可愛いだけだった。
「だって、エルンストさんとの恋は本物の恋なんだよ! そんな恋、一生にもう訪れることなんか、ないかもしれないんだよ! 何の諦めるなんて、レイチェルはバカよ! あんぽんたんっ!」
「アンジェ…」
 こんなにきつく強い調子で親友が怒るのは初めてだった。面と向かって『バカ』と言われたことも、天才で鳴らしたレイチェルには全く初めてのことだ。だが、それだけ親友が親身となってくれていることなのだ。温かなアンジェリークの気持ちが、心に深く染み入る。
 アンジェリークは涙でぐちゃぐちゃにしながら更に続けた。
「レイチェルは賢いし、私なんかが及ばないくらい IQや偏差値だってある。だけど、私よりも絶対にバカよ! こんな事も判らないなんて!仲直りなさいよ、エルンストさんと!
だって、エルンストさんは、お店に来なくなってからも、何度も同じ時間に、お店まで来てくれていたのよ!
それはレイチェルに会いたいからでしょう? だからちゃんと逢って誤解を解けばいいじゃないの! 賭けは私たちが言い出したことだって。私たちはお祝いと、レイチェルにはっぱをかけるために言ったんだって、ちゃんと証明して上げるから! その証拠に、エンジュも私も、ちゃ〜んと、カフェオランジュのガレットを買っておいたんだから!」
 アンジェリークは肩をひきつらせて泣きながら、レイチェルを一生懸命説得してくれる。親友の優しい心根に、レイチェルもまた涙ぐんでしまった。
 こんなに良い子にここまで心配をかけるわけにはいかない。
 恋はいつでも小さなボタンの掛け違いで、誤解を生み、混乱してしまう者。それをコミュニケーションによって上手く直していくのが、本当の恋への第一歩といえる。
「…そうだね。明日、エルンストに逢って、正直に話すよ。それがダメなら吹っ切れば良いんだし…」
 アンジェリークの素直な心根に触発されて、ようやく自分自身も素直になれる。
 親友の熱い想いが胸に染みこんで、レイチェルは喉を鳴らしながら頷いた。熱いものが込み上げてくる。
「これ、はい。明日、行ってらっしゃい」
「うん、有り難う」
 レイチェルは、くしゃくしゃにして捨てたエルンスト直筆のメモを受け取ると、しっかりと頷いた。親友の気持ちを無駄にしないためにも、明日は持ち前の前向きさで、エルンストのもう一度ぶつかるのだ。
「アリガト、アンジェ。明日ちゃんとエルンストに説明するよ」
「うん! そうそう!」
「もう、そんな必要はありません。レイチェル」
 鋼鉄のような冷たさの中で僅かに優しさが滲む声。その声の持ち主は、大好きな男性であることをレイチェルは知っている。
 まるで世界がスローモーションの魔法にかかったかのように、動きがもどかしくなる。レイチェルが一生懸命の速さで振り返ると、そこには優しい眼差しをしたエルンストが立っていた。
「あ、私、休憩時間終わったんだ〜。レイチェル、お先〜!」
「あ、アンジェ!」
 アンジェリークはにこにこと嬉しそうに笑いながら、脱兎のごとく走っていく。その親友の姿に、レイチェルは笑みが零れた。
 心の中で「アリガト、アンジェ」としっかりと呟きながら、親友の姿を見送った後、いよいよエルンストに向き合う。
 しっかりと自分の気持ちを伝えなくてはならない。曖昧では済まされない。
 だが、先にアクションを起こしたのは、エルンストだった。
「レイチェル、早とちりをしてしまい、その…申し訳ありませんでした」
 些か照れが入ってはいたが、エルンストは誠実に真っ直ぐと謝ってくれる。
 きっと様々な葛藤はあっただろう。だからこそ、自分もきちんと自分の気持ちを伝えなければならないと、レイチェルは思った。
 耐え難いほど落ち着きを無くし、耳元に煩いぐらいの鼓動が気になる。だが言わなければならない。
 覚悟を決めて大きく息を吸い込むと、レイチェルは告げなければならない言葉を、ゆっくりと心から喉に上げて声にする。
「  エルンスト、アナタが好きです!」
 実に自分らしい告白だと思った。力強く一気に吐き出した想いをエルンストに突きつける。
 ゆっくりとエルンストを観察すると、今にも卒倒しそうな勢いで真っ赤になって直立不動になっている。
「…はいっ! 私も、あなたと、夜明けの”相対性理論”を語りたいです」
 エルンストもまた緊張しながら言ってくれているのが、深く感じられる。
 お互いの眼差しが絡み合うと、どちらからともなく、愛と恥ずかしさの混じり合った極上のはにかんだ笑みを浮かべた。
 お互いに手を差し伸べ合って、』その腕の中に収まり合う。大好きな人の腕の中は、どうしてこんなに気持ちが良いものなのだろうか。
 素直にレイチェルは甘えるようにして、エルンストの胸に頬をピタリと付けた。
「好きですよ、レイチェル。あなたが、私に最初に注文を取りに来てくれた時から。眩しい笑顔に会うのが楽しみで、毎日通っていました」
 レイチェルが泣き笑いの表情をエルンストに浮かべると、ぎこちない触れるだけのキスが降りてくる。触れるだけなのに、とても気持ちが良くて、そして少しだけ恥ずかしくて、甘い味がする、レイチェルの初めてのキス。
「…ワタシも、アナタが来る時間をぴったりとこの時計で測るようになってから、好き…。ずっとどう話をしようかと、思ってたの!」
「助かりましたよ。私も機会を伺っていましたから」
「オタガイサマだね!」
 互いに笑い合うと、また唇が触れあう。何度も触れあうキスを重ねて、幸せの笑みを漏らす。
 休憩時間が終わるとか、そんなことは今は関係ない。甘い甘いキスを何度も繰り返す。エルンストのキスは、カフェオランジェの絶品なガレットよりも、甘くて美味しい。
 何度目かのキスの時に、エルンストの舌が深く絡みこんできた。レイチェルの口腔内を愛しいものをなぞるかのように愛撫してくれる。
 羽根のようなキスも素敵だったが、今くれたキスも最高に幸せ。もっと、もっと。エルンストに近付いたような気がする。
 唾液の交換も、舌の絡ませ愛も、唇を吸い合う行為も、どれも神聖な愛の表現に思えた。
 唇を離した後、レイチェルはうっとりとした艶のある眼差しをエルンストに自然に向けた。
「…明日のゼミは、相対性理論の入門編なんです。来て下さいますか?」
「もちろん! で…」
 レイチェルは何かを企んでいる笑みを小悪魔のように浮かべ、そっとエルンストの眼鏡に手をかける。
「その後は勿論、エンドレスで相対性理論について、語り合うんでしょうね?」
 からかうような笑みを浮かべると、エルンストは困ったように恥ずかしそうな表情を浮かべる。
「…あ、その…、大人をからかうのは…。あなたはまだ未成年ですし…、その…」
 曖昧に困った声で言い訳を考えるエルンストが、愛しい。レイチェルは頬にキスをすると、耳元で甘く囁く。
「ワタシタチ独自の相対性理論を夜通し語るんだよ、エルンスト! 最高じゃん!」
「困った人ですね。しょうがありません。明日は特別に、私の講義をマンツーマンで行いましょう。意義はありませんね?」
「モチロン!」
 レイチェルはするりと首に腕を絡め、ぎゅっと躰をエルンストにくっつけた。愛を込めた誘惑をするためには、当然の手管だ。
「ところで、私たち独自の相対性理論とは?」
「それはね、E×R=LOVEだヨ」
 こっそり教えた方程式は、恋の方程式。ずっとずっと思っていた、世界で一番素敵な方程式。E=MC2よりも素晴らしい。
「それは素晴らしい、是非学会に発表しなければ!」
 エルンストの表情も煌めきにゆるみ、いつもの硬質さはない、そこにあるのは愛を知った男の温かさだっけだ。
「でしょう? だから、このことについて、語る時間が必要なんだヨ!」
 自分から誘うなんて、大胆な女だと思われても構わない。それは恋するエルンスト限定だから。
「了解しました。それは重要な時間ですね」
「でしょ?」
 ふたりは再び抱き合って、キスを何度も交わす。甘いひとときにふたりは至福の瞬間を見出していた。
 これからも、ずっときっと幸せ。

 休憩時間はとうにに過ぎている。だがスタッフ誰も、レイチェルを呼びにくることはない。なぜなら、「人の恋路を邪魔する者は…」なんて、素敵なことわざがあるから。
 レイチェルとエルンストのように幸せになれるレストラン”エンジェル・ミラーズ”には、まだまだ、素敵な恋が溢れています。
 例えば、そう、今日の休憩時間に来れなかった、アルバイトスタッフエンジュ。
 粗野な常連さんに格闘中です。いつも担当になってしまい、ばたばたと元気よく注文を取りに行きます。
「ご注文をどうぞ!」
「なァ、そんなにバタバタと煩い音を立てて歩くなや。頭に響いてしょうがねェ…」
「昼間っからお酒を飲んでいるお客様が悪いんです! 酒臭い〜!」
「あ・ん・だ・と」
 ふたりはいつもこのように睨み合うことが挨拶になっています。
 さあ、この恋がどうなるのか。知りたい方は、どうぞ、次のページへと進んで下さい。
 恋は、レストランで落ちていますから  




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