レオナード×エンジュ「盗まれたキス」
「お水です、お客様。それとも顔からかけて酔いを覚まして上げましょうか?」 エンジュは目の前にいる、不遜な客に対してピシリと言い放った。 全く、毎日、毎日、酔いどれで来る上に、喫煙席で煙草を吸いまくり、更にはまだ飲み足りないのかいつもランチにはビールかワインを注文する。ウィスキーは流石にディナータイムしか置いていないから、男が注文することはない。 エンジュのきっぱりとした言葉は、偉そうな男を怒らせるには充分すぎたが、そんなこと気にはしていなかった。完全に客が悪い 潔癖で頑固なエンジュは、そう確信して憚らない。 当然、男は明らかに眉間に深い皺を寄せ、煙草を雑に唇で銜えながら、エンジュに対して深い睨みを利かせた。 「何ィ!? 俺はオキャクサマなんだぜェ、お嬢さん。その意味は判ってるんだろうなァ!?」 不機嫌さといかくの混じった声にも、エンジュは微動だにしない。全く物怖じしていなかった。 「他のお客様のご迷惑になります。確かに、ここでは喫煙しても、飲酒も構いません! でもそのお酒臭い匂いを周囲にまき散らすのは、止めて下さい。体臭まで酒臭いですっ!」 きっぱり怯むこと無い接客。これがエンジュの信条。無精髭の生えた、酒臭いキタナラシイリーマンであっても、それは何一つ変わらない。例え相手が、究極の柄の悪さであったとしても。 「酒臭いのは仕事、仕事だ。判るか、ガキっ!」 男もエンジュに負けて劣らず頑固で、きっぱりとした信条を持っているようだった 売られた喧嘩は必ず買う。その証拠に、エンジュを相手にいつも同じやり取りに精を出している。 「ったく、テメェぐれえだぜェ。どっかのババアみてェに、俺を叱りつけてくるのはよォ」 男は席から立ち去る気はさらさら無いようで、エンジュをどこかバカにしたような笑みを浮かべて見つめてくる。 「私は正しいことを言っているまでです。お客様がきちんと社会的ルールを守られていないからじゃないですか?」 つーんと気高い猫がそっぽを向くように、エンジュは男からお高く顔を背けた。男はその態度に、紫煙を鼻から吹き出すと同時に笑ってくる。 突然笑い出した男に、エンジュは戸惑いを隠せなかった。 いつも強面な男だが、笑うと不機嫌な陰は総て消え去り、代わりに少年のようなあどけなさの残る笑顔が顔を出す。あまりの落差に、エンジュは息を呑んで見つめてしまう。 どろどろとした闇から光に躍り出たような笑顔は、エンジュの心に光速で浸透していく。 ふと、男がじっと見つめてくる。見つめていたことを知られたくなくて、エンジュはたじろきながらも、なんとか姿勢を保つ。 「な、なんですか!?」 「ほれ、俺の喧嘩に50回とも応戦するなんて、大した漢だと思ってなァ」 「私は女の子です!!」 顔を真っ赤にして感情的に怒るのは、初めてだったかもしれない。いつもクールを気取っているところがあったから。ただし、男の前では。 「あっ、そ。おさげしていても、漢にしか見えねェなァ」 「ほっといて下さい!」 エンジュは拗ねるように顔を背けた。今までしっかりと接客スタッフとして働いていた表情はなく、ただの17歳になっている。男の笑顔が、エンジュの仮面を剥ぎ、素顔に引き戻したのだ。 「ご注文は!」 「ステーキランチ200g仕様と、グラスワイン一杯。酒の匂いは酒で洗い流すのが一番だからなァ」 エンジュは注文を電子端末に打ちこみながら、いかにも機嫌の悪そうな声で繰り返した。 「そんなに怒るなや。まァ、喧嘩50回記念の品だ。遠慮なく受け取ってくれや」 エンジュはどんな物を渡されるのかと、内心ヒヤヒヤしながら、手を恐る恐る差し出す。 「おら」 四角い紙の感触が掌を踊ったかと想い視線を落とすと、それは名刺だった。 「名刺?」 「そ、俺様の。眼ン球開いてよく見ろや」 そんなことを言われなくても、エンジュはしっかりと視線を名刺に釘づけにする。 アルフォンシア酒造。商品開発部開発第二チーム。レオナード。 「酒造会社に勤めているんだ…」 「そ。俺様は開発の最前線にいるからなァ。酒のテイスティングもお仕事なの」 天下の大手企業に勤めるサラリーマンが、昼間から酒の匂いを漂わせているのには、こんなからくりがあったのか。エンジュは納得とばかりに膝を叩いた。 今まで、頭ごなしに厳しい態度を取っていた自分がかなり恥ずかしい。無知故に頬が赤らんだ。 謝罪の言葉が熱くなって喉元まで上がってくる。 「あ、プレゼントと言えば、良いものがあったなァ」 「良いもの?」 お酒の他にジュースといった清涼飲料を扱っている会社だ。そのようなものをくれると思い、エンジュはまた手を出した。 「ほれ」 一瞬、何を置かれたのか見当がつかなかった。そっと見て、エンジュは卒倒しそうになる。喉で熱くなっていた謝罪の言葉が一気に冷えて、心の奥に萎んで下りて来た。 まったくサイテーだ。よりによってレオナードから渡されたのが”避妊具”だとは! 代わりにエンジュの喉に怒りが火傷するほどの熱さでせりあがって来た。 「俺様の余り。ビッグマグナムサイズだから、俺様以外には使えねェけれどな?」 豪快に下品な笑いを決め込む目の前の男が腹立たしくて、エンジュは堪らない。セクハラだ訴えてやる。 「警察か弁護士に言うわよ!」 躰を怒りで震わせながら、エンジュはレオナードを涙目で睨み付ける。もう少しで行動を誤るところだった。 神様有り難う、私に愚か過ぎる行動をさせないでくれて。目の前の男は、所詮、最初の印象と全く変わらないケダモノだった。 「良いさァ、言えよ。ここに来る常連のサツは、女の尻を追いかけるのに、今、夢中になっているからなァ」 全く、どこまで図々しく嫌な男なのだろうか。エンジュは、だらりと出された長すぎる脚の先を蹴っ飛ばしてやりたい気分だった。 ダメだ。そうすれば自分が漢であることを認めることになる。花の17歳の乙女には、そんなことは出来ない。 「返します! あなたが使えば良いじゃない。私には関係ないわ」 ここははっきりさせなければならない。キッパリと拒絶をし、堂々と、この恥ずかしい物体 レオナードが使った避妊具の余り を返してやった。 「使う相手がいねェのかよ」 「セクハラ!」 指でピストルの形を作りエンジュはそれでレオナードを差す。だが、目の前の憎たらしい酒臭い男は、鼻を鳴らして笑うだけだ。 「だったら俺が相手になっていいぜェ、エンジュちゃん」 なんてことを! 名前を覚えられていたことなんてどうでも良い。レオナードが言うところの、とてもはしたなくて淫らな提案が、全く信じられなかった。絶対に認められない。 「私は酒臭くて、たばこ臭くて、無精髭な男とキスすらお断りなの!!」 もう付き合いきれない。他のお客様もお待ちになっているのだ。トレーの表を見せることは余り良くないと作法で習ったことはあるが、わざと表を見せて、颯爽とレオナードの席を去る。背筋を伸ばして凛々と! 「またなァ、エンジュちゃん」 肩越しに見ると、レオナードはご機嫌さんにひらひらと手を振っている。 全く冗談じゃない。こんな脳天気で不作法で汚くて、不遜の俺様男の接客なんてもう金輪際したくない…。50回もしたけれど…。 いつもに増して不快な結末に、エンジュの鼻息は、競馬馬よりも激しく、荒い。 待機場所に戻る途中で、エンジュはレストランのアルバイトピアニスト、フランシスとすれ違った。 「レディ、眉間に皺が…。どうかなされましたか?」 精神科医志望の医学部学生フランシスは、相変わらず浮世離れした、お花が舞いそうな口調。 「ケダモノの接客をしたから」 「ケダモノ?」 エンジュは言葉で表現するのも嫌で、ただ目線でフランシスにレオナードを示す。視線に縫い止めた途端、フランシスの宝石のように綺麗なアメジストの瞳は、深く曇った。 「なるほど…。確かにケダモノです」 「ケダモノにセクハラめいたことを言われたの」 「それは…っ!」 相談する相手を間違えたとエンジュが悟ったのは、フランシスの大袈裟すぎる苦悶のリアクションを見てしまったからだ。よよと躰を震わせ、耐えきれないとばかりに、躰を抱きしめている。舞台俳優も顔負けだ。 「…それはさぞかし、レディは傷つかれたことでしょう…。精神医学的に見ても…、彼は”病気”です…。私が診察しなければ…っ!」 「あ、いいって! フランシスさんっ!」 エンジュは、レオナードの元に行こうとするフランシスを必死に止めて、その衝動を抑え込む。 「大丈夫だって! もうすぐ休憩時間が終わって、外に出るからっ!」 「レディが…そう仰るなら…。でも私は放ってはおけないのですよ…」 淡々と苦悩に満ちた表情で、フランシスは静かなトーンで話す。エンジュは気持ちだけごちそうさまと思いながら、フランシスをひきつった笑顔でピアノへと向かわせた。 レオナード同様、フランシスもある意味眩暈がする。 「本当にどうも有り難う。でも大丈夫だから、フランシスさんもピアノに向かって頑張って下さい」 「レディの心を落ち着かせるために一曲弾かせて頂きます…」 「有り難う」 フランシスがきちんとピアノの前に座るのを見届けた後、エンジュはほっと息を吐きながら、レジに向かった。 全く、今日は厄日だ。こんなに精神的に疲れる日はあり得ない。 だが、背後から聞こえてきたピアノの音に、エンジュはまたもや頭がくらくらとした。 フランシスがいきなり激しく、ショパンの革命のエチュードを弾き始めたのだ。 「ああっ! レディっ! あなたのお心を平静にする曲ですっ!」 頭を振りながら恍惚と弾くフランシスに、エンジュはもう溜息以外は零れることはなかった。 全く、頭が痛くなる連中ばかりだ。 このことをアンジェリークに話しに行こうとすると、常連になりつつある銀の髪をした青年への接客に入っていた。エンジュはかねがね、この青年は絶対にアンジェリーク目当てにこの店に来ていると思っている。 銀髪の長めの髪に、いつも怪しいサングラス姿。食べている間もメールチェックを欠かさない男は、絶対に”ホスト”だと、エンジュは思っている。ただし、アンジェリークは「絶対、あのひと、007みたいなスパイなのよ」と相変わらずボケをかましているが。 結局やることがなくレジに立つと、これ見よがしに銜え煙草のレオナードがやってくる。しかも合間にはおっさんよろしく爪楊枝をシーシーさせている。最悪。 「おらよ」 無言でチェックを受け取ると、エンジュは素早くレジを打った。勿論、一度もレオナードとは顔を合わせずにだ。 「お客様、グラスワインと1545Gのステーキランチセットで、合計、2100Gになりますっ!」 「ほいっ」 丁度金額をレオナードに渡され、一度も笑うことなくエンジュは接客を続けた。 「またなァ」 「有り難うございましたっ!」 ”もう来るなっ!と心の中で囁いて、エンジュはレオナードの男らしい背中を見送る。しっかりと筋肉の付いたそれは逞しく、誰かを護る騎士のようにも見える。必ずお姫様を護る騎士。子供の頃からエンジュが憧れていた理想の人。私を護ってくれるの? そこまで思ってエンジュははっとして、頭を抱えた。ダメだ。疲れているかも知れない。あのレオナードがよりによって”騎士様”なわけはない。騎士様は、あんなに生臭いリアリティはなく、甘く清々しい香りがするのだ。決してアルコールの匂いではない。そして勿論、爪楊枝とお友達ではない。 「あ〜疲れてるのかなあ…」 エンジュは呟きながら、頭をコツンと叩いた。 疲れは、結局、レイチェルが堅物鉱物な大学教授と、晴れて恋人同士になったと聞き及び、少しは癒された。甘い幸せすら感じる。 レイチェルは幸せに頬を輝かせはにかんだ表情はとっても可愛い。 横で賄いをガツガツと食べているアンジェリークと自分の幸せは、一体いつ来るのだろうか。 「何? エンジュ」 「何でもないよ」 頬にご飯粒を付けてご機嫌に食事をしているアンジェリークを見ると、春は遠いように思えた * レオナードが来ない。 もう一週間経っているのに来ない。 エンジュはトレーを抱えながら、いつもの時間に人影が見えるたび、胸の鼓動を早めていた。 「バカじゃないのかな、私…」 ぽつりと呟き、大きな溜息を吐いた。影が通ったと同時に元気に客を出迎えても、それはレオナードではない。戸惑いと失望が心の中でぐるぐると音を立てて渦巻いている。 あんなにあの男の接客は嫌だと思っていたのに、いざ、一週間も顔を見ないと寂しくてしょうが無い。全く、頭がおかしいのは自分なのかもしれない。 何度もレオナードの不遜な俺様スマイルが脳裏をよぎり、その度に、「だったら俺が相手になっていいぜェ、エンジュちゃん」と宣う。 相手になんてなりたくないし、レオナードに余った避妊具を使う相手としてみられたくはない。 「バカバカバカ!」 なのい考えてしまうのはレオナードのことだけ。本当に自分がバカに思えてしょうがない。そして、どうしようもなく、自分自身にむかつく。 心の中で悶々としていると、エンジュの心情に追い打ちをかけるような調べが、ピアノから流れてきた。 ショパンの「別れの曲」 ハンマーを持ってきて、殴って良いですか? そんな問いを心の中で繰り広げてしまうエンジュだった。 とうとう10日目。レオナードがやってきた時、エンジュは正直驚いてしまった。 トレードマークだった無精髭が綺麗に剃られてしまい、いつもチンピラのような黒いテーラードのスーツを着ていたのに、今日はサラリーマンらしい、ピンストライプのお世辞にもレオナードには似合わないスーツをちゃんとネクタイを締めて着ている。 最初の印象は、「スーツに着られている」だった。 「ほら、エンジュ、あのひと来たじゃない」 アンジェリークに小さな声で囁かれ、背中を押されてようやくレオナードの前に姿を現せた。 「おう。エンジュちゃん、元気だったかァ?」 喋ればいつものレオナードだが、酒の匂いも一切しない。それどころか、どこか甘い香りすらしている。ピーチかな? バナナかな? 子供の食べるガムのような香りがした。 「レオナードさんが来ないから、とっても平穏な日々を過ごさせて貰いましたよ!」 エンジュはわざと強がりを良い、相変わらず冷たい態度を取る。レオナードを気にして、いつも影を追いかけていたなんて、絶対に悟られたくはなかった。 「相変わらずだなァ、漢らしいぜ」 「だから漢じゃあありません!」 「おさげをした漢だっているじゃねェか。ラーメンマン…」 そこまで言われたところで、エンジュはレオナードの足を思い切り踏んでやる。全く、失礼にもほどがある。 「いてェ!」 「まあ、どうかされましたか、お客様。お気を付けあそばせ」 おほほとエンジュが笑うと、レオナードは”覚えてやがれ”とばかりに、きつく睨み付けてきた。 そんな睨みなんて怖くはない。エンジュはいつものように平然を決め込んで、レオナードを喫煙席に案内する。 だらだらとだらしなく着いてくるレオナードだが、いつもに比べてやつれているように、エンジュには感じられた。今までのような輝かしい生気を感じることが出来ない。とても疲れているように見えた。 席に着いたれおなーどは、珍しく安堵の溜息を吐き、煙草を口に銜える。 「一服させてくれや。会社で吸えなくなっちまったからな」 「どうぞ」 レオナードは馴れた手つきで煙草に火をつけ、ぼんやりと紫煙を吐く。 「煙草がこんなに美味く、ここがこんなにリラックス出来る場所だとは、思わなかったなァ」 黄色に染まった街路樹に視線を向けるレオナードの横顔が、とても素敵に見え、エンジュはドキリとした。そんなはずはないと理性が言い聞かせても無駄な話だった。 突然、レオナードのありとあらゆる細部が、痛いほどエンジュの瞳に焼き付いて意識させる。 背が高く、足が長いと、今更ながらにエンジュは思った。顔は野性味が溢れている割には整い、綺麗なハンサムといえる。鼻はすっきりと高い。肩幅も広く、背中で護ってくれそうだ。剣を持ったらさぞかし似合うかもしれない。 今日、こうやってネクタイをきちんと締め、無精髭を剃り、お酒も飲まないで来てくれたのは、前回の記念すべき50回目の喧嘩が効いているのだろうか。 それだったら嬉しい。どこか期待をしながら、エンジュは更にレオナードをじっと見つめた。 あれから更にレオナードのイメージが、強烈に脳裏に焼き付く。これではもう忘れることなんて出来ない。 ぼんやりと見ていると、レオナードから声をかけられた。 「何見てんだよ?」 「べ、べつに…」 エンジュは顔を逸らせる。素直に、 ”見ていました”とは認められない。それを認めてしまえば、心の中で均衡を保っていた、エンジュなりの”理性”が崩れてしまうような気がしたから。崩れてしまったら、後は狂おしい「恋」の世界に突き進むしかないことは、エンジュには本能で判っていた。 「どうせ、俺様が似つかねェ格好をしてたから笑いたかったんだろうがァ、あいにくこっちもそれは判ってるんだからなァ。今度の上司が煩いジュリアスってやつで、校則みてェに色々規律を作りやがる。あいつは風紀委員かよっての!」 「今まで、レオナードさんが自由すぎたんですよ」 するとムッとしたレオナードが、苛々するようにネクタイを緩めた。 「一服終了だ。注文するぜェ」 「あ、はい、どうぞ」 「いつものステーキ200gランチと、スパークリングミネラルウォーター」 「へ? スパークリングミネラルウォーター?」 エンジュは思わず聞き返してしまった。まさかあのレオナードに限ってそんなものを注文するとは思わなかったのだ。 「そうだ。酒じゃねェ。スパークリングミネラルウォーター」 レオナードは憮然としながらも、自分の注文を繰り返した。本意ではないようだが、仕方がないという雰囲気が含まれていた。 「か、かしこまりましたっ!」 エンジュは震えて端末を押し、自分で注文内容を何度も確認した。 「ステーキ200gランチと、スパークリングミネラルウォーターですね。かしこまりました」 一礼をしてテーブルを離れようとすると、レオナードに呼び止められる。 「おい、新しい名刺やるよ」 「はい」 エンジュはレオナードから新しい名刺を受け取り、最初見た時は何処が違っているのかが、判らなかった。 「? 前と何処が変わったんですか?」 「所属部署が変わったんだ。以前は商品開発部開発第二チーム。今は商品開発部開発第五チーム」 僅かな違いに、エンジュは小首を傾げた。どう違うのかが判らない。ただチームが変わっただけなのに。 「大違いだぜェ、酒の開発からジュースの開発に部署が移ったんだからなァ」 ジュースの開発。似合わなすぎる。エンジュはジュースのテイスティングをするレオナードを想像して、思わず笑みを零した。 「俺様だって自分では似合わねェのは判ってるさァ」 レオナードの眉間に刻まれた皺を見れば、今回の異動がいかにショックなのが判る。 「俺は、酒のテイスティングが出来るから酒造メーカーに入ったのによォ。これじゃあ何の為に入ったのか分かりァしねェよ」 ぶつぶつと言うレオナードを見て、エンジュはようやくレオナードが疲れたように見えた理由が判った。不本意な仕事をさせられているからだ。 「じゃあ、レオナードさんはジュースの開発をしてるのね」 「まァな」 「だったら、私が美味しいって思えるジュースを開発して下さいね!」 エンジュが明るく言うと、レオナードは、眉を上げて何度が軽く頷く。完全にやる気がないなあと、エンジュはひしひしと感じた。 「これからは冬のジュース?」 「いや、春から夏にかけて出すやつ」 「へ〜。だったら、私にも開発途中のやつ飲ませて下さい」 春から夏にかけてなら、甘くて爽やかなジュースだろう。先取りで飲めるのは嬉しい。 「おまえ、俺の代わりにテイスティングする?」 「たまに横流しして下さい。うちのレストランには大食い娘もいるし、私もまんざらでもないし」 「言わなくてもお前の食いしん坊は判るぜェ」 ウィンクとともに笑われて、エンジュは少しむくれる。全く、目の前の男は自分をどう思っているのか。 だが、少なくとも、このレストランに入ってきた時よりは、かなり明るくなっているように思えた。話してると楽しいと思って貰えているのだろうか。それだったら嬉しいな、などとエンジュは思っていた。 少し考える仕草をした後、レオナードはエンジュをじっと見る。瞳には何かを探るような色合いが浮かぶ。 「なァ、エンジュちゃん、テイスティングなら今だって出来るぜェ?」 「え? ホントですか?」 レオナードの提案は、少しときめくものがあり、エンジュの表情が明るくなった。 「ああ。ちょっと顔貸しな?」 「はい?」 言われたようにレオナードに顔を近付ける。何の警戒心もなしに。それがいけなかったかもしれない。 「…あっ!」 声を上げた時には既に遅い。手を掴まれると、顔に無骨な手を当てられる。 「…やめ…」 ”やめて”の”て”を言い終わる前に、レオナードに唇を重ねられていた。 甘いピーチの味と、先ほどのきつい煙草の味。それらが混じり合って、甘いのか苦いのか良く判らない味が口に広がった。躰が痺れる、自分が知らなかった熱さが全身に宿り、心モまで支配する。恐ろしいぐらいの感覚。 だがそれも一瞬だった。周りの客も仲間のスタッフも気付かないまま、エンジュのファーストキスは悲惨なままで終わった。 「どうだ、味は?」 味なんてそんなことはどうでも良い。問題は、この俺様身勝手男が、こんな場所で唇を奪ったことなのだ。 初めてだったのに。初めてのキスは、こんなんじゃないと思っていた。 可愛くて、ロマンティックで、キスをするだけで新しい自分になって輝く。だが現実は、甘いピーチと煙草の味で、自分が惨めになっただけだった。 泣きたい。こんな所には一切いたくない。エンジュは俯いて肩を震わせると、キツクレオナードを睨んだ。 「このケダモノっ! 大嫌いっ!」 漢なエンジュなので、もちろん暴力付き。レオナードを椅子ごと突き落としたのだ。流石は空手3段の少女である。 ばたばたといつも以上にがさつに走り、エンジュは控え室に引っ込んだ。 ショックだった。何もレオナードにキスをされたのがショックなのではない。 それどころか、心も躰もレオナードのキスを悦んで求めていたのが、ショックだったのだ。 大嫌いなタイプなのに。絶対に嫌なタイプなのに。 そんなはずなのに、心の中では誰よりも大きくなってしまっている。今まで接客中に51回も喧嘩をしたが、今回の喧嘩が一番大きく、嵐のようになるとエンジュは直感していた。 好きなのか。避妊具を白昼堂々と渡す男が。好きなのか。無骨に笑う無精髭の似合う男が。 エンジュはすっかり混乱してしまい、この後は全く働けなかった。 アンジェリークに泣きつこうとも思ったのだが、彼女はあいにく接客中で、銀髪の怪しいサングラス男の接客に興味津々で当たっていたのだ。 仕方なしに自分ひとりで大泣きをする。。 赤い瞳が更に真っ赤になって、腫れ上がる。 泣いた理由も、キスを奪われたというよりも、レオナードへの明確な恋心にとうとう気付いてしまった、戸惑いと切なさが総てを占めていた。 * 仕事時間が終わり、ガレットをばりばりと食べるアンジェリークに、色々癒されたり励まされたりしながら、エンジュは帰路についた。 「今日はごめんね、アンジェ」 「大丈夫、大丈夫。オスカーさんも言ってたじゃない〜♪ あれはあのケダモノさんが悪いのよ。私レジに入って、100万円って請求しちゃった。あのひとが悪い」 アンジェリークは握り拳を空に掲げ、今にもレオナードに殴り込みをしそうな勢いだ。天然ちゃんで大食いのアンジェリークは誰よりも友達想いで、こんなに心配してくれているのが嬉しかった。 「あ!」 駅の近くに差し掛かると、レオナードがぶっきらぼうに立っているのが見えた。 エンジュは無視して通り過ぎようとしたが、アンジェリークはエンジュの腕を掴んだまま立ち止まった。 「離してよ、アンジェ」 「やだ!」 にこにこ笑いながら、アンジェリークはエンジュの手を取ったままずんずんとレオナードの前に進んでいく。 「ちょ、ちょっと、アンジェ!」 ピタリとレオナードの前にエンジュを差し出すと、接客のいろはであるお辞儀を綺麗に決めた。 「お願いします!」 「お、おう」 さっと差し出して、アンジェリークはそのまま走り去る。愛らしく笑いながら、リズムが上手く取れないスキップをして。 「またね〜。エンジュ!」 「アンジェのばか〜!」 エコーがかかる勢いでエンジュは叫んだが、アンジェリークは楽しそうに調子の外れたスキップのまま振り向かなかった。 「あ〜あ」 エンジュはどこか諦めの溜息を吐いたが、視線をレオナードには向けられなかった。 「おい、こっち向けや、エンジュ」 「嫌です」 「折角、美味いジュースを持ってきてやったのによ…。俺が開発中のな」 レオナードが開発しているジュース。好奇心には勝てなくて、エンジュはそろりと振り返った。するととても近くにレオナードがいて、驚くと同時に、心臓を跳ね上げさせた。鼓動が耳をついて煩いばかりだ。 少し疲労の匂いがした。スーツはよれよれで、ネクタイだって乱れている。だが、エンジュにとってはピシリとしたレオナードよりも、今の姿のほうが好ましく思えた。 「ほいよ、これだ」 「あ、有り難う…」 レオナードが差し出したのは500mlのペットボトル。無印の透明なペットボトルの中に、ピンクの液体が入っている。見るからに濃厚で甘そうなジュースだ。 「”天使のきらめき”って名前だけは決まってるんだが、ひと味足りなくてな。お前に訊きにきた」 レオナードはじっと見つめてくると、ジュースの入ったペットボトルを指さす。その表情も行動も、どこか真摯でシャープだ。 「飲んでくれや。そして感想を聞かせてくれ」 「判った」 結局、レオナードに真摯に頼まれれば、エンジュは断ることが出来ない。ペットボトルに入った妖しくも甘いジュースを片手に、遊歩道沿いにあるベンチに腰掛けた。レオナードもその隣りに、微妙な間隔を空けて腰を下ろす。 「さっきはちゃんとした味…判らなかったから」 エンジュが切なさを滲ませて呟くと、レオナードは苦虫を噛み潰したような表情を見せた。 ちゃんとした味は判らなかったのは本当だ。煙草のタールとピーチが入り混じった味。それももうぼやけてしまって、上手く思い出せない。思い出せる事と言えば、リアルなレオナードの唇だけ。少し硬めの絞まった感触。きっと、DNAに刻まれてしまい、もう忘れることは出来ない。 深呼吸をして、星空を見上げる。綺麗な星々に、エンジュは心が癒される気がした。 開発中のジュースを片手に、横にはかなり粗野で野性味ある騎士様、そして星は余り見えないけれど、輝く数えるほどの星が演出をしてくれる。それなりにロマンティックといったところだろうか。 先ほどまだ泣いていたとは信じられないほど、清々しい気分で、レオナードの傍にいられるのは、このジュースと輝く星、そしてアンジェリークのお陰かもしれない。 「飲むよ」 「おう!」 レオナードがじっとこちらを伺っているのが判る。すると意識をしてしまって、胸の鼓動が激しく割れた。 あくまでレオナードが注目しているのは、自分自身ではなく、ジュースのテイスティング中の表情なのに。 何だか、新しいジュースを飲むだけだというのに、変に緊張してしまい、喉がからからになってしまった。 喉が水分を欲しているから丁度良い。誰もが、喉が乾いたから飲料水を欲するのだから。 ボトルを空けて、口に持って行く。 喉に注ぐとすんなりとジュースの味は浸透していった。確かに甘くて美味しい。だけど何かが足りない。 自分とレオナードの間に何かが足りないように、味をすっきりと締めるものがない。喉にもったりと絡むのも、乾いていた時には不快だ。 「どうだ?」 不遜なレオナードとは思えないほど、お伺いの姿勢で訊いてくる。それがエンジュには新鮮だった。 「…うん。美味しいんだけどね、ひと味足りないの。なんていうのかな、味がもったり重くて、すっきりとさせるひと味がないの。それと喉に絡みすぎる」 エンジュは正直に自分の感想を言い、レオナードはそれを熱心にメモに残している。嫌だと言っていたくせに、真剣に取り組んでいる姿が、エンジュには好感が持てた。 「サンキュ。俺だけだったら、ただ甘ったるくて何かが足りねェとしか判らなかった。参考になる」 「うん。良かった」 エンジュは自分が役に立てたのが嬉しくて、素直に良かったと言える。レオナードに素直になったのは初めてかもしれない。正直でいられたことも。 レオナードはいつもの意地悪な笑みではなく、どこか優しさを含んだものを向けてくる。温かく、染みわたるものだ。 意外な笑みにエンジュは心底驚き、目を丸くする。 「そんな素直に笑うレオナードさん初めて見た…」 「そんなに珍しいかよ!? 忘れねェように目ン玉開けてよく見やがれェ!」 照れの入った乱暴な言い方に、エンジュはくすくすと笑う。それを今度はレオナードがじっと見つめてきた。 「お前も俺の前で初めて笑いやがったな。素直になったて言った方が正解かもなァ」 レオナードが笑いながら言うものだから、からかわれたと思い、エンジュは得意のそっぽを向く。 「からかわないで下さい!!」 「からかっちゃいねェよ。お前はやっぱり笑った方が可愛いわ」 ストレートにひねくれなしで言われたので、エンジュはまた驚いて今度は口をあんぐりと開ける。本当に、今日は驚きっぱなしの一日だ。波瀾万丈の言葉がよく似合う日だ。 レオナードは屈託のない少年のような笑みを浮かべると、ベンチから立ち上がる。闇に浮かび上がるレオナードの微笑みを見ていると、夢中になって恋をしているのだと、自覚せずにはいられない。それぐらい、大好きな笑顔。 「エンジュ…」 名前を噛みしめるように言われて、エンジュは導かれるように自然とレオナードの顔を見上げる。 「…今日は済まなかったな」 「…いえ…」 それ以上エンジュは言えなかった。先ほど仕事場の控え室では、散々レオナードの悪口や悪態を吐いていたというのに、いざ本人を目の前にすると何も言えないのであった。 それはもうすっかりレオナードがしたことを許してくれている証だった。 許せてしまう。それはきっぱりすっきりとレオナードが謝ってくれたから。開発中のジュースを飲ませてくれたから。理由は沢山見つかるけれど、本当のところ理由なんかはないかもしれない。 「…それとホントに有り難うな」 レオナードの大きな手が、エンジュの頭をさっと撫でる。温かくて無骨で節くれ立った大きな手は、確実にエンジュに甘い感覚と幸せをもたらしてくれる。 この手で、頭以外の場所を撫でられたら、どれぐらい気持ちがよいだろうか。自然と思いついた言葉に、エンジュは真っ赤になって否定した。 「じゃァ、俺は会社に戻るわ。ジュリアスのヤツがうるせェからな」 「あ、待って」 エンジュは自分も立ち上がると、レオナードのネクタイに手をかける。少しくすぐったいが楽しい気分だ。 「ちゃんとしていかないと、ジュリアスさんに叱られちゃうわよ」 「ああ」 エンジュは手際よく綺麗にレオナードのネクタイを締めてやる。その間、レオナードは妙に真面目くさったような、少し緊張感のある表情をする。 「上手いもんだが、誰かのを締めたことがあるのかよ!?」 不機嫌に低い声で訊いてくるレオナードに、エンジュはにっこりと笑う。 「中学がブレザーで締めてたの」 「なるほどなァ」 急に表情が軟らかくなったレオナードに、くすりとまた笑みが零れた。 「出来ました! じゃあ、残りのお仕事頑張って下さい」 「ああ。お前が”美味しい”って言えるもんを開発してやるから、楽しみにしておけ」 レオナードは堂々といつもの自信たっぷりに宣言すると、そっとエンジュの頬に唇を近付けてくる。逃げることなんか出来なかったし、逃げたくもなかった。 掠るだけの甘い頬へのキス。ファーストキスよりも、ずっとずっと素敵で、甘く感じた。 頬が熱い。そこだけが突出して感覚が鋭くなっている。熱くて、だけど心地がよい熱。離れていくレオナードの唇が何とも言えずに恨めしかった。 「またな?」 レオナードはウィンクして定番の豪快な笑いを浮かべると、エンジュと向き合ったまま、後ろ向きでゆっくりと歩いていく。 「ジュースの開発が終わったら、お前には一番に飲ませてやるからなァ」 「楽しみにしてますね!」 エンジュは大きな声でさけぶと、ぶんぶんと手を振る。レオナードは手を上げてそれに応えてくれた後、背中を向け雑踏の中に紛れ込んでしまった。 どんな人混みでも、小さくなるまでどこにレオナードがいるのか、エンジュは確認することが出来た。 私の大好きな男性がそこにいる。本当に心からそう思える。 頬と唇にそっと触れる。そこは幸せの歌”ハレルヤ”を歌っているかのように、華やいでいる。幸せが二カ所に凝縮されている気分だった。 完全にレオナードを見送りきった後、エンジュも駅へと向かう。レオナードの会社の明かりはきっと電車から確認出来るはず。そこに精一杯の”頑張って”を送って上げよう。 エンジュは星空を見ながら、ゆっくりと遊歩道を歩き始める。 気分が上がったり下がったりした今日一日は、結局は忘れることが出来ないハッピーデーとなった * 翌日から、またレオナードが姿を見せない日々が続く。だが、以前のようにやきもきとした気分にはならなかった。 レオナードが開発に勤しみ頑張っていることを知っているから、エンジュも勉強やアルバイトに頑張ろうと決めていた。 毎晩電車の窓から見える、レオナードの会社に煌々と輝く明かり。大きく立派なビルのせいか、どこにいるかは判らない。だが、そのどこかにレオナードがいると思うだけで、自然と顔が綻んだ。一生懸命、”エール”を送り、またそれに返事をしているような気分になれたから。 メールも携帯電話も、何も知らない、ただ何処で働いているしか判らない、通信手段のない恋。 それでもそれなりにロマンティックで、エンジュを憧れていた素敵な恋に導いてくれていた。 寂しくないと言えば嘘になるが、きっと、美味しいジュースをレオナードが開発してくれ、最初に飲ませてくれると信じていたから。ずっと、明かりにエールを送ることが出来たのだ。 そして。晩秋、もう初冬に近くなった季節。帰る時間になると、息を吐けば白くなる。 もうひと月もあの口が悪い客に逢ってはいない。空を見上げると、冬の星座に移行しようとしていた。 今夜も8時にアルバイトが終わり、アンジェリークとふたり帰っていく。 「今日はジャンボイチゴケーキを貰えてよかったね!」 相も変わらずアンジェリークは元気でうほうほと可愛くはしゃいでいる。幸せが手で持たれた小さな紙の箱にあるから。 「ホント! 美味しいだろうね。クリスマスケーキの残りも楽しみ…」 ここまで言いかけてはっとする。闇に浮かび上がった金髪は、確かに見覚えがあるものだった。 「…レオナード…」 「はい。じゃあこれ貰っていくから、後はご自由に」 レオナードをじっと見つめていると、いつの間にかアンジェリークにケーキの箱を取られる。驚いて友人の顔を見ると、そこには温かな幸せの表情が浮かんでいた。 「幸せのお裾分けして貰うね。エンジュの分もしっかり食べちゃうからね〜」 「あ、アンジェ!」 アンジェリークはあの時と同じように微笑むと、千鳥足だかスキップだか判らない調子で駅に向かっていく。全く憎めない可愛い存在だ。ふっと優しい気持ちでアンジェリークを視線で見送った後、エンジュはゆっくりとレオナードに向き合った。 「出来たぜェ! ご要望の物!」 「良かった!!」 レオナードがジュースの入った500mlのペットボトルを掲げ、それに向かってエンジュは駆け寄る。 「おめでとう、レオナードさん!」 本当に心から嬉しくて、エンジュは飛び上がって抱き付きたい衝動を抑えながら、笑顔でレオナードを讃える。 「まだ早いンだよ。最終チェックがまだなんだが、どうしてもお前に飲んでもらいたくてなァ。ジュリアスと社長の前でのテストが最終なんだか、実質、俺にはお前が最終関門だ」 レオナードは真面目くさって言うと、大きく深呼吸をしてから、緊張の眼差しでペットボトルを差し出してきた。 「飲んで貰えねェだろうか?」 「判りました」 エンジュはしっかりとペットボトルを受け取ると、大切な物のように抱きしめた。 「行くか」 「うん」 ひと月前テイスティングをした遊歩道のベンチに向かい、ふたりはそこに腰を掛ける。以前よりも、エンジュとレオナードの間が、微妙に縮まっている。 「この間よりも、振った感じももったりしていないね。さらさらで爽やかな感じ」 エンジュは見た目と、実際にボトルを振ってみて確認をする。見た目も薄いピンクになって、可愛い感じがした。 木枯らしがふたりの前に吹き、エンジュは思わず身を竦ませて震える。やはり季節は進んでいるのだと、確実に感じずにはいられなかった。 「寒いか、エンジュ」 「流石に、冬は近いんだなあって。もう11月も後半に差し掛かろうとしているもの」 「そうだな」 レオナードは頷くと、着ていた黒いレザーのコートを脱ぎ、エンジュの肩にふわりと掛けてくれた。 レオナードの香りと温もりがダイレクトに感じ、エンジュの息は乱れる。 呼吸が上手く出来ないぐらいにレオナードが好きだ。自分で自分の総ての感覚をコントロール出来ないくらいに、愛が溢れている。 コートを羽織ることで、細胞の一つ一つに、レオナードの名前が刻まれる。絶対に諦めない激しさが、恋と言う名でエンジュに宿った。 呼吸をするとレオナードの香りが鼻孔をくすぐってときめく、肌を意識すると貼り付いたレザーのコートからの温もりを意識する。 今、この躰は、レオナードによって血液が巡らされていると、そう感じずにはいられなかった。 「飲んでくれ」 「うん」 エンジュは緊張しながらペットボトルの蓋を開ける。回す指先が震えてしまって、上手く回らない。何回回しても、密閉された蓋を上手く開けることが出来なかった。 「貸せよ」 「あ、有り難う」 いつもならペットボトルの蓋もすんなりと開けることが出来るのに、今日に限ってはどうしてだろう。レオナードの手に戻ったペットボトルは、大きく力強い手によって楽に開けられる。こんな瞬間ですらも、素敵だと思う。 「ほら」 「有り難う…」 受け取ったジュースがもっと大切な物に思える。エンジュは勿体なくて、なかなか口を付けることが出来なかった。 「エンジュちゃんも乙女だなァ…」 「な、何が」 「だって、ペットボトルひとつ開けられねェもん」 にやにやと笑いながら言われて、エンジュは唇をペンギンの嘴のように尖らせて、怒ったふりをする。キリキリと胸が甘い色に染まる。 「きょ、今日はたまたまなの。さあ、ジュース! ジュース!!」 エンジュは照れ隠しのように勢いを持って蓋を捻って開けた。甘いが爽やかで心地の良い匂いが広がる。 「良い匂い…」 「だろ? 天使風味」 「”天使のきらめき”だものね」 「そうそう。ほら、飲めや」 エンジュは頷くと、唇をペットボトルに付けた。ゆっくりと喉にジュースを注ぐ。 口に入れた瞬間、喉も舌も美味しいと言っているのが聞こえた。以前のような想い甘さはなく、すっきりとした甘さに改良されているが、ロマンティックに美味しいのだ。のどごしもすっきりで、喉が渇いていても、これならすんなりと飲める。 「美味しい!! ホントに美味しいです、レオナードさん!!」 エンジュはもう何もご託を並べる必要はないと思った。それだけ素晴らしく味わいの深いジュースに仕上がっていたのだ。 「ヴィタミンとコラーゲン、セラミドも入ってる」 「それならきっと女の子は飛びつくわよ!」 レオナードは本当に嬉しそうで、照れくさそうに笑った。その瞳は夢を追いかける少年のようで、エンジュは幸せの煌めきを見つめるように眺めた。 「お前がそう言ってくれたら、成功は間違いねェ」 レオナードの言葉が余りにも力強かったから、エンジュは照れと幸せが半分ずつの笑みを浮かべることが出来る。 また木枯らしが吹く。だが、寒くない。心も躰も。特に心は、炎が燃えさかっているほど熱かった。 「パッケージもデザイナーに頼んでこんな感じになった」 レオナードは鞄からクリアケースに挟まれた紙を取り出す。 「ほら」 「うん」 エンジュは何気なく受け取ったが、そのデザインを見る鳴り、先ずは眼差しが揺れた。次に唇が震え、躰が揺れる。 パッケージは大きな瞳の天使が描かれていたが、天使のヘアスタイルは愛らしくおさげになっており、しかも瞳の色はほんのりと赤い。 「…これ…」 どう言って良いか判らない。ただ嬉しくて、感動の余りに、涙だけが素直に溢れてきた。熱くて、泣いても気持ちの良い涙が。 「このジュースを開発するのに、お前の存在が不可欠だったからなァ。パッケージのイメージも、お前以外に考えられなかった」 レオナードの目の周り照れで赤い。それが可愛く、そして素晴らしく素敵に思えた。 照れ隠しなのか、レオナードは夜空を見つめ、真摯な表情になっている。 「なァ、52回目以降の喧嘩はなしにしねェ?」 「はぁ?」 エンジュは意味が判らなくて、どう返事して良いかが判らずに、素っ頓狂な声を出して、レオナードを見た。 月と星の光に祝福されているように見えるレオナードが、甲冑を着けた立派な騎士に見える。剣を手に、正義と自分が護りたいもののために闘う騎士に。 夢見る騎士が振り返る。 「おい、意味判ってるのか?」 うににと頬を軽く抓られる。痛かったがそれは甘い痛みで、ちっとも肉体的には痛く感じなかった。 「意味って…」 潤んだ眼差しでレオナードを見れば、照れの入った優しい笑みに出逢う。 「…ずっと、お前とは仲良くしたいてことだよ!」 半分やけくそにも取れるような勢いでレオナードは言う。一息置いて「そうしたい」と返事をしようとしたとこで、せっかちな目の前の獣に抱きしめられてしまった。 息が出来ないぐらいに激しいのに、優しくて甘く穏やかな温もりが肌を介して全身に広がる。 幸せが目の前に羽根を広げたような気分だ。 総てが近い。目の前には鍛えられた広い胸があり、躊躇い勝ちにそこに顔を埋めると、更に強く抱きすくめられた。 「 好きだぜ、エンジュ。51回の喧嘩の間、ずっとお前が好きだった。今も好きだ」 乾いていた土地に水が吸い込むように、レオナードの言葉がエンジュの心に急速に浸透していく。心が震えてどうしようもない。 しっかりと結んだおさげの間にレオナードの指が入り、解かれた。ふわりと広がる髪を、レオナードの指がゆっくりと絡めて撫でてくれる。指からも事情を感じて、エンジュはただこの感情しかなかった。幸せ。 撫でられてその心地よさにうっとりとしながら、目の前の大好きなひとを見上げる。 ちゃんと言ってくれたんだから、こちらからもきちんと言わなければならない。 「…好きよ、レオナード」 余りにも小さな声で囁くように言ったものだから、レオナードが頬に手を当てて、額をくっつけて訊いてくる。 「聞こえなかった。もう一度、エンジュ」 絶対に聞こえたのは判っている。聞こえたからこんなことをしているのだ。 「…もう一度だけよ、ちゃんと聴いて?」 「ああ、判った、判った」 正直に言う愛の言葉は何でこんなに照れくさくって、何度も囁きたいものなのだろうか。 「好きよ、大好き、レオナード」 エンジュは精一杯に背伸びをすると、レオナードに愛の言葉を聞かせてやる。 レオナードは優しい微笑みを浮かべると、躰をしっかりと押しつけ、唇を近付けてくる。 あのKISSとは全く違った。想像通りロマンティックで、甘いジュースの味がする。触れているところだけが灼けつくように熱く、息をするのももどかしく億劫になるほど、深いキスを重ねていたかった。 舌を絡ませ、唇を貪欲に吸う。それはお互いが激しく求めている証であることを、エンジュは初めて知った。 何度目かのキスの後、レオナードはポケットから、あの”避妊具”を取り出す。いきなり出されたものに、エンジュは真っ赤になると共に、目の前の晴れて思い人となった男を見つめる。 「いつか…、お前限定で試してみてェもんだなァ。やらせろっ!」 エンジュは拗ねるように顔を背けた後、”YES”という返事の代わりに、レオナードの頬にキスを送った エンジュは無事上手くいっただろうかと考えながら、幸せな気分で、アンジェリークは満員電車に揺られていた。手にはとっておきのケーキもあるのが嬉しい。 ふとお尻の辺りがもそもそとするのを感じた。下から舐めるように撫でられて、制服のスカートの中に手を入れられそうになる。 キモチガワルイ! ヤメテッ! 万事休すかとばかりに、不快と恐怖にアンジェリークの躰が震えて硬くなった時だった。 急に触られていた手の動きが止まり、躰から離れていくのを感じる。 「おい、迷惑防止条例、準強制わいせつの現行犯で逮捕するぜ!」 低く心地の良いテノールがピシリと冷たく響いたかと思うと、後ろにいた銀髪の青年が、痴漢の手を強く掴んでいた。犯人は脂ぎった中年の男。こんな男に触られていたとはぞっとしたが、最低限の被害で住んで良かったと、ホッとした。 しかし、捕まえてくれた青年刑事は整った顔立ちをしており、全く痴漢男とは正反対の容姿をしている。 自分の傍で起こった出来事にアンジェリークは驚くと共に、安堵が全身を駆け抜けるのを感じる。 全く今日はついていた。たまたま刑事が傍に乗っていてくれたのだから。 「おい、あんたも次の駅で一緒に降りてくれねえか。鐵道警察に引き渡すから」 「あ、はい。どうせ次で降りるつもりだから、大丈夫です!」 アンジェリークは、刑事に従って次の駅で降り、引き渡しと簡単な事情聴取を受けた。 結局は危ないと言うことで、刑事が送ってくれたのだが、帰る途中、ふと刑事が立ち止まった。 「お前さん、まだ俺のこと、気付かねえのか?」 「え?」 何のことかとアンジェリークが小首を傾げると、青年は薄く笑ってサングラスを掛ける。すぐにアンジェリーク誰か判った。いつも接客をしている、あの青年だ。 恋は、またレストランで落ちていた |