『シアターは大騒ぎ』

『恋に落ちたひねくれ者』

『お気に召すまま』
〜アリオス&コレット〜その1



   *

 数字の1から10までを順番に足せば55。私とあなたを足せば、『2』なんてちんけな数字じゃなくて、無限大になるの  

   *

 劇団の掲示板を見るなり、アンジェリークは時間が止まった錯覚に陥った。
 貼られているのは劇団の新しい舞台の配役表。由緒あるアルフォンシア座のこの冬一押しの出し物は、新劇劇団らしいシェイクスピアもの。それも恋愛喜劇と名高い『じゃじゃ馬ならし』と『お気に召すまま』だ。
 アンジェリークはもう一度固まってしまった時間の流れを呼び起こして、掲示板の配役表を見上げた。
 やはり、二度見ても同じ。『お気に召すまま』の配役表の前方部分に、きっかりと名前が記されている。
 ロザリンド……アンジェリーク。
 ロザリンドは『お気に召すまま』のヒロインで、男装するシーンなどもあり一本調子ではいかない難役だ。
 それを研究生の身分で大抜擢されるとは! その役が務まるかどうか、不安に苛まれ、直ぐに相手役が誰かを探してみた。
 お手柔らかな俳優でありますように。目で配役表を追った瞬間、アンジェリークの望みは見事なまでに崩れおちた。
 オーランドー……アリオス。
 今回、この2本の演出も手がけるアリオスが、よりによってオーランドーだとは! 厳しく接しされるのに決まっている。肩に、ずんとした重みを感じ、アンジェリークは人形のように大きな瞳を開けて、それこそ固まってしまった。
 この人事に驚いたのは、何もアンジェリークだけではない。掲示板の周りはかなり騒然とした、ちょっとした無法地帯になっている。このサプライズ配役には、誰もがざわめいていた。
 それもそのはずで、アンジェリークの他にもサプライズ配役をされている者がいた。同期のエンジュである。彼女はもう一本の上映作品である、『じゃじゃ馬ならし』のヒロイン・カタリーナに抜擢されている。
「少しCMに出ているからって…」
 どこからか揶揄する声が聞こえ、アンジェリークはびくりとする。だが、エンジュはそんなことに貸す耳を持ち合わせてはいないようで、平然としている。
 こう言った時に強く見えるエンジュが、羨ましかった。
「これじゃあ、宗方コーチに選手に抜擢された岡ひろみみたいなものだわ…」
 肺にたまった総ての息を捨てるように、アンジェリークは大きく息を吐くと、とぼとぼと掲示板を離れた。
「よう、しけた顔をしているな」
 よく響く極上のブランデーのようなテノールに、アンジェリークははっとして顔を上げる。
 そこにはこれからの天敵  いや、劇団アルフォンシア座の人気俳優であり気鋭の演出家アリオスが、厳しい雰囲気を瞳に宿らせ、立っていた。
「あ、こんにちは…」
 通り一辺倒の挨拶しか出来ない。の罵倒を想い出すだけで、アンジェリークは足が竦んだ。
「配役表見ただろ?」
「はい、まあ」
 アンジェリークは煮え切らない返事をしながら、アリオスから目線を逸らす。
「なんだか、意にそわねえって感じだが、決定は変更しねえ。ロザリンドはお前だ」
 アリオスは煙草を口に押し込めながら、目をスッと不機嫌に細めながら言った。その口調と来たら、傲慢な専制君主のようだ。
「私なんか、まだまだで…、ロザリンドなんて大役は…」
 つい弱気になり、アンジェリークは後ろ向きな言葉を発する。しかしアリオスに切れるような冷酷極まりのない視線で睨まれてしまうと、これ以上は言えなかった。
「『でも』なんてこれから言って見ろ、一回に付き、ケツを一発叩いてやるからな!」
「でも…」
「おら、『でも』って言った!!」
 アリオスはアンジェリークのお尻を叩き、思わず悲鳴を上げる。これでは、学校でのお仕置き以下だ。
 アンジェリークは本能的に逆らえないと思った。アリオスの頭に、悪魔の触覚が見える気がする。
「んなところに、いつまでも議論をしても埒はあかねえからな。今から顔合わせがあるから、行くぞ! 会議室だ。おまえはロザリンドだろう。ロザリンドはもっと凛として、男らしく!」
「男じゃありません。女の子だもの」
 アンジェリークは洟をぶひぶひと鳴らしながら、アリオスへの精一杯の抵抗をした。
「ロザリンドはほのかな色気があって、しかも雄々しくねえとダメだからな。おまえにほのかな色気を期待するってのは…」
 アリオスは品定めをするようにアンジェリークを見つめ、それがとても心地悪い。思わずもぞもぞしてしまった。
「きゃあっ!」
 人一倍突き出た胸を、手で乱暴にすっと撫でられる。
「胸以外に色気はねえか」
 きっぱりあっさり言われてしまい、アンジェリークは真っ赤になりながら、アリオスを睨み付ける。こんなのはあんまりだ。
「おら、行くぜ。みんな待ってるんだからな」
「ちょっ、アリオスさんっ!」
 腕を掴まれてアンジェリークは引きずられて会議室に連れて行かれる。
 こんな強引なアリオスが相手では、抵抗も何もあったものではなかった。
「ここに座れ。おまえは俺の横だ」
「はい…」
 流石にベテランたちも席に着いている顔合わせの場に来ると、アンジェリークは完全に萎縮してしまった。借りてきた猫のように、ちんまりと大人しくアリオスの隣りに腰を掛けるしかない。
 ちらりとアリオスを視線で盗み見ると、逆ににらみ返されてしまい、アンジェリークは余計に躰を小さくさせた。
 小さくなりながら、アンジェリークは落ちつかないくせに、目の前のお菓子が気になり、そっと手を付けた。
 大好きなお菓子をこうやって食べれば、少しは楽しい気分になれるだろうと思ったのだ。
 実際に、出されていたのはカフェオランジュ特製のメイプルリーフパイだったので、ほくほく顔で食べていると、アリオスが立ち上がった。
「まだ、『じゃじゃ馬ならし』のメインキャストが現れていねえみてえだな。じゃあ、先に『お気に召すまま』からだ。オーランドーは俺だ。演出も兼ねてる。そして、ロザリンドは、隣にいる栗饅頭だ」
「栗饅頭じゃ、ありません、アンジェリークです。よ、宜しくお願いします」
 アンジェリークはわたわたと頭を下げ、何とか挨拶をしたが、反応は今ひとつだった。特に女優陣からは、冷たい嘲笑が浴びせかけられただけだ。仕方がない。大きな役の上に、こともあろうかアリオスの相手役なのだから。
 ちょっと顔をひきつらせて、しょんぼりとしながら席に着くと、アリオスが口に指を持ってきた。
「おい、リーフパイのかすが付いてる」
「あ、有り難う」
 リーフパイのかすをアリオスが平然と食べたものだから、アンジェリークは驚いてしまった。その様子は一部の俳優には好意的に取って貰えたが、一部の俳優には悪意を持って迎えられた。
 ちゃんと笑えない。引きつってしまう。するとアリオスが何も言わずに、自分のリーフパイを回してくれた。
「好きだろ? 食えよ」
「あ、有り難うございます」
 アリオスからリーフパイを受け取りながら、アンジェリークは僅かに心の晴れを取り戻した。
 『お気に召すまま』のキャスト・スタッフ紹介が終わった頃、派手な形で『じゃじゃ馬ならし』のメインキャストがお目見えしてきた。
「ペトルーキオー様とカタリーナ様のお出ましだぜェ!!」
堂々と宣言しながら、レオナードは会議室に入り、エンジュを自分の隣りに座らせた。
「早速、調教開始かよ、レオナード」
 テーブルの中央に座るアリオスが、苦笑しながら言う。ふたりは同期でよく知り合っているせいか、気心の知れた空気が漂っていた。
 アンジェリークは余りにも派手な登場に、正直度肝を抜かれていた。
 そして、エンジュが既にレオナードと息がぴったりなのが、何よりも羨ましい。アリオスと自分たちも、ああやって上手くいくだろうか。「さてと。今回の主要メンバーが出そろったところで、ご挨拶と行くか」
 アリオスは立ち上がると、役者を始めとする勢揃いしたスタッフを、一通り見通した。その眼差しは、厳しく雄々しく、新しい演劇界を担う才能がある者だけが持つ、『鷲の目』だ。
「今回の舞台は、誰にでも質の高い古典新劇を愉しんで貰う為の企画だ。『じゃじゃ馬ならし』と『お気に召すまま』。交互にひと月間、上演する予定だ。どちらも幸福な喜劇だ。見てくれた人々には、心を豊かにするようなそんな気分になって帰って欲しいという願いも詰まってる」
 アリオスは大きく息を吸い、スタッフをもう一度見回した。
「今回の公演は劇団アルフォンシアの総力を尽くしたものにしてえと思ってるから、みんな力を合わせて頑張ろう!」
 誰もが拍手をする。
 アンジェリークもしっかりとやらなければという、気負いと出来るだろうかといった不安がせめぎ合いになる。
「改めて、よろしくなァ、エンジュちゃあん」
「はい、よろし……っ!!」
 レオナードとエンジュがお互いに挨拶を紙在った後、いきなり、レオナードがエンジュの唇を奪う。本物の舞台さながらの行為に、アンジェリークはまんまると瞳と口を開けて、ただ見ることしかできない。
 だれもが、エンジュとレオナードに注目をしていて、アリオスとアンジェリークのことを見てはいない。
「派手なやつだぜえ、全くな」
 アリオスは苦笑しながら、同期の行為をからかうように見守っている。
「だったら、俺たちも、ちゃんとよろしくしねえとな」
「え?」
 顔を上げた瞬間、アリオスの筋がすっと通った鼻が見えた。息を呑む間に、唇が小さく触れあっていた。
「  !!」
 レオナードほどの派手さはない者の、アリオスもちゃっかり便乗して、やることをやってしまっている。これには本当に呆然とした。
 口から魂が抜けてしまうかと思うぐらいに。
「おい、大丈夫かよ!?」
 呆けたアンジェリークの顔を見つめ、流石におかしいと思ったのか、アリオスは何度もアンジェリークを揺らした。
「だ、大丈夫です…」
「だったらいいがな」
 アリオスは立ち上がり、騒ぎを終息させる為に声を上げた。
「おい、脚本を配るぜ。今回の脚本は、セイランが構成している」
 アリオスは他の座員に指示をして、それぞれ担当する脚本を配らせる。『お気に召すまま』だけ、或いは『じゃじゃ馬ならし』だけの役者もいれば、両方に出演する役者もいる。
 それぞれ自分の必要なものを取っていった。
 アンジェリークにも、当然『お気に召すまま』の台本が配られ、それをパラパラと読む。
 配役の所に自分名前が刷り込まれているのが、とても嬉しかった。
 まるで宝物のように台本をぎゅっと抱きしめると、眦に優しさを滲ませたアリオスの視線とぶつかる。それが妙に恥ずかしかった。
 さて、お騒がせなレオナードとエンジュも、脚本の受け渡しをしている。
「どうぞ、脚本」
 レオナードから回ってきた脚本をエンジュは強奪すると、それを丸めて思い切りレオナードの頭を叩いている。
 アンジェリークはまた驚かされてしまった。
「…ってぇ!」
 レオナードは頭を押さえ、痛みの余りに顔を顰めている。エンジュは勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「自業自得よ!!」
 エンジュはぷいっと背中を向け、レオナードに拒否する姿勢を貫く。
「こいつはぴったりじゃねえか! まさに『じゃじゃ馬ならし』だな。レオナード?」
 アリオスはくつくつと喉を鳴らして愉快そうに笑い、おもしろがっている。
「うるせェ、アリオス!!」
 レオナードは顔に出来た傷をさすりながら、すっかり憮然となってしまった。
「ペトルーキオーさながらにやってみろよ。『じゃじゃ馬ならし』」
 アリオスのからかうような眼差しがレオナードに向けて放たれた。レオナードは余計に顔を歪めて傍若無人だ。
「フン、そう言うならやってやるぜェ!このエンジュちゃんを、公演の幕が開くまで、調教してやるっ!」
 レオナードは席から立ち上がり、強力にきっぱり宣言をすると、団員たちからやんややんやの喝采が沸く。
「それでこそレオナードだ。ペトルーキオーそのもの」
 演出のアリオスがすっかりおもしろがってしまっている。アンジェリークは傍観者だが、おろおろとするばかりだ。
「ちょ、ちょっと、私の立場や、私の気持ちはどうなるんですか!?」
 勝手に盛り上がって貰っても困るとばかりに、エンジュは叫ぶ。
 アンジェリークは友人にすっかり同情の眼差しを送っていた。
「その気持ちを、俺様に向けようとしてるんじゃねェか。しっかり調教してやるからなァ。楽しみにしておくんだぜ、エンジュちゃあん」
 レオナードは、エンジュの少し高くて上に向いた鼻をピンと指先ではねる。
「絶対にあなたなんかに調教されないわ、覚えておいて!」
 エンジュは胸を張ると、レオナードに堂々と対峙する。その輝く瞳は、勝ち気な色を映し込んでいた。
 流石エンジュだと、アンジェリークは思う。
「せいぜい無駄な抵抗を頑張るんだなァ」
「あなたもね! 私への調教は見事に失敗に終わるんだから、覚悟して!」
 ふたりはお互いにしっかりと見つめ合う。
 エンジュの瞳は挑戦的に、レオナードの瞳は自信を漲らせていた。
「じゃあ、皆さん、後でなァ」
「ちょっと! 引っ張らないでよ!」
 嵐のような騒動を巻き起こした『じゃじゃ馬ならし』を地でいく主演のふたりは、会議室から早々と姿を消してしまった。
 それを合図に、次々と他のキャストやスタッフもばらばらになる。
 残されたのは、アリオスとアンジェリークだけだ。
「さてと。おまえは今日からやることはいっぱいある。きちんとした舞台にする為にも、しごくから覚悟しろよ?」
 アリオスの瞳が、アンジェリークの心と瞳を鋭く射抜いていく。
 動けない。
 もう頑張るしかないのだ。
 アンジェリークは深呼吸をして、自分の心をどうにか平静にした後、喉を鳴らして、頷く。
「よし、契約完結だ。おまえはもう悪魔に魂を売り渡したんだから、頑張るしかねえぞ」
 悪魔に魂を売り渡した  本当にこれ以上の言葉はない。
 アンジェリークは女に二言がないとばかりに緊張感を漲らせ、アリオスを見る。
「宜しくおねがします!!」
 アンジェリークは深々と頭を下げて、覚悟を決める。
 アリオスの『お気に召すまま』になる、女優訓練が幕を開けた  

   *

 アリオスはとても忙しい男だ。『お気に召すまま』のオーランドー役だけではなく、『じゃじゃ馬ならし』の演出までしている。そのせいか、アンジェリークと稽古を合わせる時間は、本当に貴重だった。
 幸い、アンジェリークとの絡みの多い従姉のシーリア役は、姉のように慕っている先輩女優ロザリアだったので、少しは緊張を解すことが出来た。
 アリオスが『じゃじゃ馬ならし』の演出に言ってしまっている間は、オーランドーの兄オリヴァー役のオスカーが全体的な流れを見てくれていた。
 どちらのふたりも、悪意からアンジェリークを護ってくれていたので、それなりに上手く立ち回ることが出来た。最大の保護者であるアリオスがいなくてもだ。
 しかし、ロザリンドは本当に難役だ。オーランドーを一目惚れさせる知己と気品に富み、その上美しいと来ている。また、男装をしている間は、凛々しく雄々しい青年でなければならない。
 相反するようで相反しない二面性を上手く使い分けるのは、なかなかの演技力が必要となってしまうのだ。
 オーランドーとの絡みのシーンには、アリオスが駆けつけてきて、首尾良くオーランドーを演じてみせる。
 アリオスの演じるオーランドーは、艶めかしい色気と騎士としての静謐な雰囲気がある。
 これならロザリンドも一目で惚れてしまうだろうと、アンジェリークは思った。
『差し上げられるのであれば、私の幾分かの力をあなたに  』
「おい、そんな色気のねえ、ロザリンドだと、オーランドーも惚れねえぞ! アンジェリーク、かといってしなばかりを作るな。あくまでロザリンドはやんごとなき高貴な身分のお姫様だ。その色気も、紅に染まらない純白のものであるはずだ!」
 アリオスの演出は全く厳しい。一つの妥協ですら許されやしないのだ。
「は、はい」
 アンジェリークはもう一度同じ台詞を、心を込めて、少し色っぽく言ってみた。
『差し上げられるのであれば、私の幾分かの力をあなたに  』
「んな、売れないキャバクラ嬢みてえなことはするな! もっと自然に!」
「はいっ!!」
 アンジェリークは一生懸命、ロザリンドになったつもりで、精一杯の演技をする。
「ダメだ。そのシーンは後回しだ。次行くぞ!」
「は、はい…」
 アリオスに突き放された気分だ。
 アリオスに突き放されても当然の演技力だから仕方がないのだが。稽古場の壁に凭れて、アンジェリークは自分のふがいなさを呪った。
 瑞々しく演技をする他の女優のほうが、よほど素敵に演技をする。
 どうして自分なんかを抜擢したのかと、思わずにはいられなかった。
「次。ロザリンドが男装をして、簒奪者の公爵に追われ、従姉と共にアーデンの森に逃げ込んでいくところだ」
「はい」
 アンジェリークは今度こそ上手くやりたいと気負いながら、シーリア役のロザリアに胸を借りるつもりで頑張る。
『いくらなりさがっても、せめてジョーヴの神に仕える小姓の名前ぐらい欲しいから、ギャニミードと呼んでちょうだい。でも、あなたはどうするの?』
 台詞の旅に、アリオスから厳しい駄目出しが入る。その度に、アンジェリークは躰をびくりとさせていた。
「ダメだ!」
 アリオスはアンジェリークに演技を止めさせると、食い込むように細い肩に指を置いた。
「いいか、アンジェリーク! この台詞は、高貴な絵お座凛土が、卑しい下々のような格好になってしまっても、せめて名前だけはと、その気品を示すシーンだ。おまえが言うと、哀れみ以外は全く何も感じやいない。複雑な感情を示すことが出来てこそ、プロの役者だということを忘れるな!」
「はい…」
 アンジェリークはアリオスに対して、顔を上げることが出来なかった。
 涙が滲んでどうしようもない。顔を上げてしまえば、きっと涙がいっぱい溢れかえってしまうから。
 どうしてこんなに下手くそなのだろうか。
「よし、次のシーンだ! アンジェリーク、俺との絡みは、後から特訓だ!」
「はい…」
 アンジェリークは毛古葉の隅に座り込むと、疲労でどうにかなってしまいそうな頭を振り起こし、じっと他の俳優たちの演技を見つめていた。

   *

 通し稽古の結果は、本当に他の俳優たちに申し訳が立たないという思い以外は、全くなかった。
 アリオスはアンジェリークの演技を度々止めては叱責したので、なかなか演技が進むこともなかった。ベテラン俳優たちの苛立ちは頂点に達し、そのフラストレーションはアンジェリークに向けられた。
 女優たちはアンジェリークのロッカーに『下手くそ』と書いて貼っていく始末だし、男優たちはアリオスがいなければ、殴りそうな勢いの者もいた。
「…私が降りたら、総てが幸せなのかな…」
 アンジェリークはぽつりとまた弱音を吐いた。
「また、俺にケツを殴られたいのかよ、おまえは!」
「ア、アリオスさん!!」
 いつの間にかアリオスが傍に来ているとは、思わなかった。アンジェリークは驚いて立ち上がろうとすると、アリオスに膝の上に抱きかかえられた。
「きゃあっ!」
「弱音を吐いたから、約束通りに叩くぞ!」
 アリオスはその通りに、アンジェリークのお尻を何度も叩いてくる。
「きゃあ、きゃあ!」
 アンジェリークが金切り声を上げても、アリオスは何度となく叩いてきた。
「そう言ったネガティヴ発言は御法度だ!」
「だってそうじゃないですか! 今日だっていっぱい怒られるし、他の俳優さんにはご迷惑をかけるし、蹴られそうになるし…。貼り紙は貼られるし…」
 アンジェリークの声のトーンは段々弱々しいものになり、涙混じりになっていく。悔しいのに、哀しくて、アンジェリークは洟を啜った。
「ったく、おまえはしょうがねえ女だ」
「しょうがないですよ!!」
 ネガティヴなことを言うと、アリオスは更に何度もお尻を叩いてくる。
「痛いです! こんなに叩かれたら、痔になる、痛くて座れなくなる!!」
「それで結構!」
 アリオスは容赦なくお尻を何度も叩いた後、アンジェリークの躰を膝の上でぎゅっと抱きしめた。
「ロザリンドみてえに、恋をしたら、おまえもきっと、艶と気品を併せ持った女を演じられる。恋は、おまえの演技の幅をきっと広げてくれる」
「…いっぱい恋をしたら? 確かに恋多き女は、良い女優さんが多いわ」
「恋多き女になれって言ってるんじゃねえよ」
「だったら」
「黙ってろ…」
 アリオスは乾きかけたアンジェリークの涙を、唇で掬いながら、躰のラインをゆるやかになぞってくる。ぞくりといた熱が背中に走り、アンジェリークは小さく喘ぎ声を漏らした。
「恋は良い恋をすればいい。ロザリンドとオーランドーのように。いくつも必要とはしねえんだよ」
 アリオスの唇が唇を塞いできた。この間、事故のようにしたキスではなく、もっともっと深くて本格的なものが降りてくる。アンジェリークはうっとりとするほどに夢中になり、アリオスに初めて抱き付いた。
 キスは、唇を重ねるだけの者ではなく、お互いの想いを熱を交換するものだ。
 アンジェリークはようやくそのことを知った。
 本格的なキスは、お互いに舌が深く豊かに絡み合って、想いと唾液を交換し合う。
 愛しているから、そんな淫らで、どこか不衛生な行為ですらも我慢することが出来る。いや、我慢ではなく、それをしっかりと受け入れている。
 呼吸を与え合うことも、愛を表す行為の一つである。アンジェリークは積極的にアリオスから呼吸を奪われ、また逆もしかりだった。
 キスが終わる頃には、すっかりネガティヴな感情は追い払われてしまっていた。
 唇が離れた後も、互いに見つめ合うことを止めない。
「おまえのロザリンドを作れ。誰にも演じられないような、素晴らしいロザリンドを。おまえならそれが出来る。だからいちいち、俺も細かく止める。普通の演出なら、俺はあそこまでしっかりと止めたりはしないぜ」
「本当に?」
「ああ、マジで。おまえは恋をすることで、より自由に演技が出来るようになる。ロザリンドのようにな」
 アリオスは軽く唇を重ねると、喉を鳴らして笑う。
「本当に、そう思いますか?」
「ああ。だから、今日、俺が練習相手として付き合うんだからな。厳しいことを言うが、それを全部肥やしにしてしまえ。いいな」
 頬を撫でながら、アリオスは優しく言ってくれる。ときめきを感じながら、アンジェリークは素直に頷いた。
「アンジェリーク。舞台は総合芸術だ。ひとりひとりの力が舞台を作る。そして、役者は過信せずに、重い部分を引き受けなければならない。それが支えてくれる人への報いだ。一番スポットライトを浴びる者は、人一倍頑張って、素晴らしいものを見せなければならない。だから、おまえもこうやって練習する。俺も、あの俺様のレオナードだってだ。練習だけが、おまえを支えてくれるんだからな」
 アリオスは一語一語ゆっくりと力を込めていってくれる。言葉に威力があると、不思議なことにアンジェリークのやる気も漲ってきた。
「じゃあ練習するか」
「はいっ!」
 アンジェリークはアリオスから離れがたかったが、何とか離れて、演技の態勢を作る。
「この『お気に召すまま』はシェイクスピアの牧歌的喜劇で、違う自分になることによって、より自由になれることを謳っている。だからおまえも、アンジェリーク・コレットではなく、ロザリンドになることで、より自由になるんだ。いいか、それを男装している時に、オーランドーと戯れるシーンで表現してみろ」
「はい!」
『さあ、口説いて。私を口説いて!今の私は何となくうきうきしている、口説かれれば『いや』とは言えないでしょう…どんなことを仰って下さるおつもりか? もし私が、本当に本当にあなたのロザリンドとしたら』
『ものを言う前にキスをしている』
「…んんっ!」
 アリオスが扮するオーランドーは、全く台本にないキスを、ロザリンドに堂々とキスをしてくる。深い深いキスに、アンジェリークはアリオスの背中を叩いた。ようやく、解放して貰え、ホッと肩を落とす。
「アリオスさん、これじゃあ脚本とは違っているわ!」
「そうだろうな。でも俺は今おまえにキスをしたかった」
 アリオスは今まで見せてくれたことがない微笑みを浮かべると、頬にキスをしてくれる。そこだけが熱くなり、アンジェリークはおてもやんのように頬を真っ赤にさせてしまう。
「口説いてやろうか?」
「え!?」
 アンジェリークはアリオスを眺め、期待に満ちた光を瞳に宿してしまう。
「それはまた後で。今のは悪くなかったぜ? この俺が思わずキスをしちまうぐれえだったからな。今日起こったことを、おまえがちゃんと収めてしまえば、上手くいく。おまえだけのロザリンドになる。俺にぴったりのな?」
「はい…」
 厳しい稽古に耐えた後は、なんと素敵なご褒美があったことだろうか。アンジェリークは眼差しを光らせて、もう一度頷いた。
 ぐ〜。
 折角、ロマンティックな雰囲気に浸っていたというのに、アンジェリークのお腹と来たら、タイミングが良いのか悪いのか。大きな音を立てて、鳴ってしまった。
「す、すみません〜」
 アンジェリークは恥ずかしさの余りに真っ赤になって、アリオスを見ることが出来ない。お腹を叩いて、何度か「こらっ!」ときつく言い聞かせた。
「クッ、腹が減っているのかよ?」
 アリオスはさも愉快そうに喉をくつくつと鳴らして笑っている。アンジェリークは恥ずかしくて、どこか穴があったら入ってしまいたい心境だ。
「今日はいっぱい頑張ったから、お腹が空いたみたいです…」
「だろうな。だが、俺の印象は、おまえはいつでも腹を減らしているようなかんじがするけれどな」
「そ、そんなことはないです」
 本当はそんなことはるのだが、アンジェリークは慌てて否定をしておいた。いつも陰に隠れては、豆大福や饅頭と言ったものを食べては、お腹にチャージしている。
「今日はもう遅いからな。軽くメシを驕って、送ってやる」
「あ、有り難うございます」
「着替えてこい」
「はい!」
 アリオスに一礼をすると、アンジェリークは女子更衣室に向かった。もう残っているのは自分たちだけだろう。そう思って皇室を開けると、エンジュの姿を見つけた。
「エンジュ! エンジュも今まで搾られてたの?」
 アンジェリークは笑顔で友人を迎え、エンジュもまた笑顔で応えてくれる。だがその表情には疲労を色濃く滲ませてる。
 自分だけじゃない。
 アンジェリークはは強い一体感を感じた。自分が頑張ってへとへとになっている間、同じようにエンジュもへとへとになっていたのだ。
「アリオスさんにしぼられちゃった」
 舌をお茶目にぺろりと出し、アンジェリークは茶目っ気たっぷりに笑った。
「私もレオナードさんに」
「だけどへたっぴだから仕方ないもの。一生懸命頑張らないとね。舞台は総合芸術で、ひとりひとりの力が舞台を作るんだって。そして、役者は過信せずに、重い部分を引き受けなければならないって。それが支えてくれる人への報いだって。一番スポットライトを浴びる者は、人一倍頑張って、素晴らしいものを見せなければならないって、アリオス先生が言ってた…。私もそういう風になれたらいいなあって、ちょっぴり思ってるけれど」
 アンジェリークは自分でアリオスの言葉を口にすることで、再認識する。疲れなんて一気にどこかへ行ってしまう。
 それを真剣に聴いているエンジュは、今までで一番綺麗だった。輝いているといってもいい。
 アンジェリークは、その輝きに負けないように、自分も頑張らなければならないと思った。
「そうだよね! 一生懸命頑張って、私たちが出せる限りの力で、素晴らしい舞台を作ろうね」
 ここにも自分と同じ悩みを持って、舞台にぶつかっている少女がいる。負けられない。お互いに切磋琢磨をして、ライバルになりうる舞台を作っていかなければならない。
「頑張ろう、エンジュ!」
「ええ、頑張ろう! アンジェ!」
 ふたりはしっかりと手を握り合って、お互いの強い想いを誓い合った。
 服を着替え終わり、更衣室を出る。
「ねえ、アンジェ、私、レオナードさんと一緒に帰るのだけれど、一緒にどう? 危ないし」
 アンジェリークは嬉しそうに笑ったが、首を横に振った。
 お互いにこの後、とても素敵なことが起こる予感がする。きっと薔薇色で甘い、キャンディのようなものだろう。そう考えたら嬉しい。
「有り難う、大丈夫よ。お邪魔したら悪いし」
 ちらりと意味深な眼差しを向ける、エンジュは真っ赤になる。
「お、お邪魔じゃないよ!」
 エンジュは真っ赤になりながら、慌てて妖しげに否定する。そんな態度を取ってしまえば、肯定もしたも同然だったりするのだが、それもまた可愛いと思う。
「それにね、私も…」
 アンジェリークも白状したくなった。
 更衣室を出てアンジェリークがちらりと奥を見ると、煙草を銜えたアリオスが冷たい足音を響かせてやってくる。
「おせえ」
「すみません。着替え済みました」
 アリオスの私服を見るだけで頬がゆるんだ。
 アリオスは、レオナードほどではないが、モノクロームのスーツに身を包み、温かそうな革のロングコートを纏っている。
 見ているだけで幸せだった。
「帰るぞ」
「はい!」
「じゃあね、エンジュ」
「うん」
 アリオスはアンジェリークしか見えていないようだったが、最後にちらりとエンジュを見た。
「レオナードが入り口で待ってるぜ?」
「はい」
 エンジュは少しふたりに遠慮をして、一歩離れて歩いてくれ、なんだか陽気なオーラを感じる。
 入り口でレオナードを見て、アンジェリークは軽く会釈をしたが、彼もまたエンジュしか見えておらず、その存在すら気付かれなかった。
「エンジュのことだけを考えてるみたいですね。レオナードさん」
「当然だろ。俺だっておまえのことしか考えてねえんだからな」
「え?」
 アンジェリークは白い頬を桃色に染めてアリオスを見ると、ただ手を繋いできた。
「おら、行くぞ? おまえの歩く速度で歩いてたら、いつまで経ってもラーメン屋に着かねえからな」
「はい!」
 照れ隠しに強引に手を引っ張られて、アンジェリークはくすりと笑った。まるで、ふわふわと雲の上を歩いているみたいに素敵だ。楽しい気分になりながら、夜の街を明るく歩いた。
 少しひねくれ者の、このひとが大好き。
 オーランドーへの愛に気付いたロザリンドのように、アンジェリークもまたアリオスへの愛の深さに気付いていた  

   *

 劇団アルフォンシア座のビルから暫く目抜き通りを歩き、路地に入ったところにある古びたラーメン屋さんにアリオスは連れて行ってくれた。
 人気舞台俳優で顔も知られているのに、こういった素朴なところに通うアリオスが、アンジェリークには望ましく思える。
「ここのチャーシュー麺と餃子は最高だぜ? 新人の頃、おまえみてえに腹を空かせてはここに通っていた。すげえ美味いから、ちゃんと舞台俳優で食っていけなかったら、俺はここで修行するつもりだったぐれえだ」
「マジで?」
「ああ、くそ真面目にな。おまえとも、ラーメン屋のおやぢと女優の関係で逢っていたかもしれねえぜ? それでもオーランドーみてえに、誘惑しちまってたけれどな」
「嘘!」
 アリオスは誤魔化すようなそれでいてからかうような笑みを浮かべるだけで、何も返事はしなかった。
 直ぐに注文していたチャーシュー麺と、ぱりぱりもっちりに焼けた餃子がやってきて、アンジェリークはそれをもりもりと食べた。
「美味しい!」
「だろう?」
 アリオスはビールを美味しそうに飲み干しながら、アンジェリークの食べっぷりを眺めている。
「炒飯も旨いし、麺も替え玉しても良いぜ」
「はい、じゃあ、両方で!」
「マジかよ?」
 アンジェリークは替え玉をして貰い、その上炒飯も食べた。勿論、餃子はとうの昔になくなっている。
 アリオスはと言えば、ようやくラーメンを食べ終わり、餃子を肴にビールを何杯か飲んでいる。
「嬢ちゃん、凄い食べっぷりだねえ、もし良かったら、水餃子もあるが、食べるかね。それはサービスするよ」
「有り難う!!」
「クッ、おまえぐれえよく食う女は初めて見たぜ。マジ見ていて気持ちがいいな」
 アリオスは酒が入って陽気になっているのか、本当に楽しそうで、いつもの厳しさがどこかへ行ってしまっているようだ。
「そんなにぱくぱく食べている訳でも…」
「充分食ってるって」
 アリオスに突っ込みを入れられるぐらいに、アンジェリークはよく食べた。
「これだけ食ったら、明日は、可憐で凛々しいロザリンドを演じてくれるんだろうな?」
 アリオスはカウンターに肘を突いて、憎らしいぐらいに素敵な眼差しで、アンジェリークを見つめてくる。
 思わず、食べていた水餃子を箸から滑り落としてしまうぐらいに、アリオスは素敵だった。
「が、頑張ります。雄々しく、凛々しいロザリンドを演じます!」
「おう。プラス、アリオスオーランドーを唸らせ、一目惚れをさせるぐれえのロザリンドを演じてくれよ」
 アリオスに惚れさせる。
 本当はいつでも魅了したいけれど、今はこちらが魅了されっぱなしの状態。
 アリオスを夢中にさせる。頑張るには格好のものではないだろうか。
「頑張ります!」
 アンジェリークが高らかに拳を上げて宣言をすると、アリオスは立ち上がる。
「じゃあ、乾杯な」
 アンジェリークがサイダーを、アリオスはビールを掲げて、乾杯をする。
 きっと明日は、今までにないロザリンドを演じられるような気がする。今日揶揄した視線を向けてきた他の座員に意識を変える為にも、それは必要な事のように思えた。
 
 ラーメン屋を出て、アリオスと一緒に駅まで歩いていた。
 鋭く吹きすさぶ風も、今日はいつもよりも優しく感じた。
 アリオスとこうして肩を並べて歩いているからかもしれない。手をしっかりと繋いでいるからかもしれない。
「もうあんまり時間はねえが、総稽古までには、きっとおまえのロザリンドはみるみるうちに上達していると思うぜ?」
「そうなるように頑張ります! 私、ロザリンドを上手く演じることが出来るようにと、毎晩台本を抱きしめて寝ているんです」
「そうか。じゃあ」
「きゃあっ!」
 人の往来が多い中、アリオスはアンジェリークを抱きしめ、自分のレザーコートの中に閉じこめられる。
「あ、あの…」
「俺を抱きしめたら、もっと、上手くなるかもしれねえぜ?」
「え、あ、あの…」
 アンジェリークはときめきと戸惑いでどうして良いか判らずに、おどおどしてしまった。
「本当は、俺がしっかりとベッドの中でおまえを抱きしめて、俺のアドレナリンと、演劇論を一晩中聴かせてやりてえんだけれどな」
「アリオスさん…」
 そうなればなんて素敵だろう。アリオスが抱きしめてくれながら、優しく演技指導をしてくれたら、それ以上に幸せな瞬間はないだろう。きっと幸せに溢れた演技をすることが出来るはずだ。
「まだまだ早いかもな、おまえは、まだ青いから。いつかな」
 アリオスはフッと笑みを浮かべると、アンジェリークの瞼にキスをくれた。
 そこからまたふたりで、手を繋いで駅まで向かう。ふわふわとした幸せな瞬間がそこには横たわっている。
 ふたりで電車に揺られ、夜景を見ながら様々なことを話した。
 シェイクスピアから離れた、楽しい話から、最近の新劇についてなどというものまで。
 感など直ぐに過ぎてしまい、気が付けば、自宅アパートの前に来ていた。
「今夜も台本と一緒にぐっすりと休めよ」
 今日何度目か解らないキスを、アリオスはくれる。唇に触れるだけのキス。
「おやすみ」
「おやすみなさい…」
 アンジェリークは、アリオスが見えなくなるまで見送りながら、飛び上がりたくなるぐらいに興奮していた。
 まこと恋は不思議なもの。あんなに落ち込んでいたのに、今はこんなに晴れやかな気持ち。
 明日も素敵なロザリンドを演じることが出来ますように  


 劇中劇・ウィリアム・シェイクスピア作『お気に召すまま』
 新潮文庫『お気に召すまま』福田恆存訳より抜粋。




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