息も出来ない


 呼吸は生きていくには絶対不可欠なもの。そして、恋をすれば夢中になる余りにそれすらも忘れてしまう。
 近付いたり、遠ざかったり…。アンジェリークの恋は一進一退。凄く近付けたと思えば直ぐに遠ざかる。少し不思議な恋だった。
 付き合っているのか、いないのか。付き合ってはいないとは思う。だけど、それを完全に言い切られない何かがある。
 きちんと言えればいいのに…。どうしてこんなに宙ぶらりん何だろうか。
 お互いに遠ざかっていた賄いも、また一緒に取るようになった。
 だが、総てがクリアーになり、元に戻ったわけではない。美しい女の存在。それがアンジェリークを切なくさせた。
 あれから毎日のように通い、アンジェリークを苦しめるだけの存在。
 肝心のアリオスとの仲も全く解らず、アンジェリークにとっては厚い壁のように思えた。
 今日もまた来ている。
「ねぇ、アンジェ、ここのところずっと通ってきているよね、あの女…」
「そうね…」
 レイチェルに指摘されて、アンジェリークは切なくも頷く。悔しさが言葉に滲んでいる。
「あの女、オーナーの一体何なんだろうね。凄くアヤシゲ。アナタみたいに可愛い恋人がいるっていうのに、オーナーも何考えているんだか…」
 可愛い恋人。実際にそうなれれば良いと思うものの、そんなに上手く行かないのは世の常だ。
 アンジェリークは頬を幾分か赤らめながら、僅かに俯いた。
「私とオーナーはそんな関係じゃないよ…」
「端から見たら、そう見えるし、みんなそうだと思っているよ。アンジェとオーナーは恋人同士だってね」
「現実はそこまで甘くないよ…」
 苦笑すると、レイチェルが肩をぽんぽんと叩いてくれた。
「…あの女が何者か、きちんとオーナーにきいたの?」
 アンジェリークはそんなことは恐ろしいとばかりに、頭をぶんぶんと振る。
「恋人に近いアナタなんだから、きっと答えてくれるよ?」
「近くなんかないよ…。私もみんなと同じだって、オーナーは思っているよ」
「そんなことはないわよ」
 レイチェルは力強く言い、請け合ってくれる。親友のきっぱりはっきりしたところは大好きだし、救われる部分もある。
 アンジェリークはレイチェルの強さを心の頼りにしながら、僅かに笑って見せた。
「アンジェ、そんなにさあの女が気になるんだったら、きちんと偵察をすれば良いのよ。そうしてオーナーの真意をさ、見極めてしまえば言い分けなんだからさ」
 確かにそうだ。うじうじしていたって、本当に何も始まりやしないのだ。
「そうだね。そうするわ」
「それでこそ、ワタシノ大好きなアンジェだよ!!」
 明るく親友が背中を押してくれたので、アンジェリークは笑顔をレイチェルに向けることが出来た。

 翌日。
 アンジェリークは胸をドキドキとさせながら、女が来るのを待ち構える。絶対に今日もやってくる。確信を強く持っていた。
「こんにちは」
 妖艶に女は微笑むと、真っ直ぐにオーナー室に向かう。アンジェリークは意を決して、ドアの前に張り付くことにする。
「アリオス…、決心はついたの?」
「戻らないこと。それが俺の決心だ」
「またつれないことを言うのね…」
 声ばかりが聞こえ、表情や動作が見えないのが辛い。アンジェリークは更に耳をそばだてた。
「とにかく、俺はもう、戻る気はねえよ。華やかなショウビジネスの世界にはな」
 アリオスの声を聞いて初めて知る。アリオスがショウビジネスにいたことを。好奇心がついつい膨らみ過ぎてしまい、アンジェリークは身を乗り出した。
「あなたのサックスは天下を取れるわ」
「天下、か…。それは敏腕プロデューサーとして言っているのか? どちらにしても元カノの欲目じゃねえのか?」
 この言葉にアンジェリークはびくりとした。
 やはりただならぬ関係だったのだ。ふたりを見ていて、何となく解っていたことではあったが。
 悔しくて、切なくて、唇が震えた。
「…音楽プロデューサーのセイランもあなたを凄く推しているわ」
「…もう、俺には関係のない世界だ」
 アリオスの声が少し苛立つのを、アンジェリークは敏感に悟る。
「私はあなたをかっているのよ」
 一瞬の静寂の後、女は薄笑いをした。
 何かした…。でも見ていない以上は何も言えないアンジェリークであった。
「じゃあ、またね。私はあなたを諦めやしないから。また、寝物語で説得をして見せるわ…」
「勝手にしろ」
 寝物語。
 ショックだった。頭の中をぐるぐるとそれが回り、他のことが考えられないほど辛い。
 突如、ドアか開き、アンジェリークは体勢を崩す。
「きゃあっ!!」
 そのままバランスを崩しながら、アンジェリークは廊下に座り混んでしまった。
 顔を上げた瞬間、女と目が合う。
「アリオス、あなたの可愛いスパイさんがお出ましだわ」
 目は鋭くアンジェリークを捕え、深紅の唇は残酷な笑みを浮かべている。
「アンジェリーク…!」
 アリオスの表情は、今までの中では一番厳しいものだった。視線に捕らえられて、アンジェリークは動くことすらままならない雰囲気だ。
「じゃあアリオス、また明日」
「ああ」
 女がヒールの音を立てながら行った後も、アンジェリークはアリオスの視線が恐ろしくて立つことすら出来ない。
 アリオスが無言で手を差し延べてきた。
 恐怖が心を渦巻く。てを取らないと怖い気分になり、アンジェリークは震える手を差し出した。
 アリオスは無言でアンジェリークの細い手首を掴み立ち上がらせる。今までで一番アリオスが恐いと思った。
「どこから聞いていた?」
「……最初からです…」
 正直に言った。緊張の余りに、呼吸すらままならない。アンジェリークはアリオスの顔すら見ることが出来なかった。
「…忘れろ…」
 低い声だった。答えはイエスしか言わせないような、そんな迫力があった。
 だが、ここで引き下がるのはつらすぎる。切な過ぎる。アンジェリークは切なく心から血が流れるのを堪えて、決意を秘めて聞いてみた。
「アリオスさん…! あの女性とはどんな関係なんですか…!」
 一瞬、アリオスの表情が変わった。険しく、そして、強張りがある。
「おまえには関係ない…」
「いえ! 関係があります!!」
 きっぱりと言い切ると、アリオスの切れるような眼差しが睨み付けてくる。
「だって、たとえ気まぐれだとしても、オーナー、私と付き合ってくれるって言ったでしょ!? だから関係があるんです!!」
 自分ながら、何を言っているのかアンジェリークにはよく解らなかった。ただ、アリオスのことをもっと知りたかった。
「だったらそのことを含めて全てを忘れてしまえ!」
「嫌です!!」
 視界が涙で滲んでどうしようもない。アンジェリークはそれでも諦めたくなかった
 唇を噛み締めて、心の傷みを我慢する。
「コレット、仕事中だということを忘れていねえか?」
 仕事中。確かに今はそうだ。
 オーナーはアリオスなのだ。だったら従うしかないだろう…。
「戻れ。議論は仕事が済んでからだ」
「…はい」
 アンジェリークはまともにアリオスの顔を見ることが出来ないまま、走って階段を駆け降りる。切なくて、苦しくて涙が出てくる。それ故に、アンジェリークは前を向くことが出来なかった。
「きゃっ!」
 前が見えない故に、心が冷静でないがゆえか、アンジェリークは階段から足を踏み外した。
 大きな音と痛みに気付くと、踊り場で転んでいた。
「いたた…」
 声を出すと、涙と痛みが増してくる。
「アンジェリーク!!」
 音を聞いたからか、アリオスが階段を慌てて降りて来てくれる。
「アンジェ、大丈夫か!?」
 直ぐに抱き起こされて、アンジェリークは驚いてしまう。
 そのまま抱き起こされた。
「アンジェリーク、大丈夫です…」
 答えた瞬間、アリオスに力強く抱き竦められる。
「あ…」
 アリオスの抱擁と腕の熱さにアンジェリークは喘ぐ。
 息が出来ない…。
 だがその抱擁は切なくも甘く、心地良かった。
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恋愛小説が書きたいあなたに10のお題に挑戦です。
読み切り連作で頑張りますので宜しくお願いします。

大好きだけれど大嫌い。
そんなかんじは恋にはつきものですね。




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