最近、いつも同じ男性を目で追っている。視界にわざとはいるように、無意識に自分の視界を動かしてしまう。 最近はあんなに苦手だった接客を学ぶのも楽しい。理由はただひとつ。あの男性が常に視界の中に入ってくれるから。 「よし、大分、敬語と躰が馴染んできたな。これならホールを任せても構わないだろう」 接客研修を始めてから三週間。ようやくオーナーからの了承が出て、アンジェリークとレイチェルは手を取って喜び合った。 嬉しいのには違いはない。だが、アンジェリークはどこか寂しさを感じていた。 今までは”研修”と言う名の下に、オーナーであるアリオスの傍にたっぷりといることが出来た。そのうえ、何時も人より一歩出るのが遅れる為に、賄い料理を作ってくれたこともあった。 だが、独り立ちしてしまえば、そんなことはなくなってしまう。 ”研修”が楽しいと思えたお陰で、優秀なレイチェルに追い付くことが出来たというのに、逆にそれが仇になってしまったような気がする。 どんよりと一瞬していると、アリオスが声をかけてきてくれた。 「アンジェリーク、よくここまで頑張ったな。おまえが頑張ったから上手く行ったんだぜ?」 「オーナー…」 アリオスの優しい瞳を見たのは今回が初めてではないような気がする。研修中、一生懸命やれば時折見せてくれた眼差し。アンジェリークは改めて温かな視線に、切ない気分になった。 「よくやった。明日からは立派にホールで働いてもらうからな」 「はい!」 返事を元気一杯にすると、アリオスが頭を撫でてくれた。その仕草にアンジェリークは胸がきゅんと締め付けられる。頭を撫でて貰うだけなのに、どうしてこんなに切ないのだろうか。 「じゃあご苦労さん」 アリオスがその場を去ってしまってからも、アンジェリークは視線で、アリオスの逞しく広い背中を追い掛けずにはいられない。ただ切ない思いを抱いて、オーナーを見つめていた。 「アンジェリーク! アナタ、オーナーが好きなんでしょう!」 いきなり含み笑いを浮かべるレイチェルに指摘されて、アンジェリークはそれこそ頭から煙がぷすぷすと出るほど真っ赤になる。 「…違うもん。接客研修終わったから…、せいせいしているぐらいだもん…」 むきになるのと慌てるのと照れ隠しをにじました態度を取るアンジェリークは、口では否定していても、態度は完璧に肯定している。 レイチェルはこの解りやすいのが可愛いのか、余計に嬉しそうに笑っている。 「アリオスオーナーは、カッコイイもんね。まあ、ワタシも負けないわ。アナタを虜にしてみせるから〜」 いきなりレイチェルに抱き着かれて、アンジェリークは驚いて少し戸惑った。純情のせいか頬まで真っ赤にさせている。 「ホント、アナタって可愛いわよね! オーナーにはもったいないわよ!」 「…オーナーとは何でもないって…」 はにかんでしなを作っているのが、なによりも恋をしている証拠。 「ホント、アナタは可愛いんだから、しっかりと自信を持つんだよ!」 「ありがとう、レイチェル」 アンジェリークは自問自答してみる。 私は本当にアリオスオーナーが好きなの? 自分で問い質した瞬間に、胸に甘酸っぱいものが駆け抜ける。 それは恋の味だということを、アンジェリークは勿論気付かない。鈍感娘はまだまだ恋と言う名のくすぐったい感情の正体が解らない。 本当は恋をしているくせに、アンジェリークは頭ではそんなことはないと何故か思っていた。 きちんとした仕事を与えられるようになってからも、アンジェリークはアリオスを視線で追うことを止められなかった。最近は、賄いタイムで一緒になることが少なくなり、残念でしょうがない。 だが、この日は凄く忙しく、久々にラストの賄いになった。疲れきって休憩室に行くと、アリオスが賄い料理を作っている場面に遭遇した。 「オーナー、今から賄いですか?」 「ああ。海老のカルパッチョとやさいのクリームグラタンを作っているが、おまえもどうだ?」 「はい、頂きます!」 今日はなんてついているのだろうかと、アンジェリークは思った。賄い時間が重なるのが少なくなってから、アリオスと話す機会も一気に減少していたのだ。 「ほら、グラタンは熱いうちに食べろよ?」 「はい、有り難うございます。頂きます!」 はふはふしながら、アンジェリークはぱくぱくと食べる。久し振りに賄いが美味しいと感じる。 「おまえ、本当に良い食いっぷりだよなあ。作りがいがあるってもんだぜ」 「美味しいのは好きなんです。食いしん坊だから」 「おまえみてえに食べてくれたら、シェフ冥利に尽きるぜ」 アンジェリークは恥ずかしかったが、アリオスには微笑んで見せた。素直に笑えるような気がする。 「あの…、オーナーは凄くお料理がお上手ですけれど、シェフだったのですか?」 「まあ、料理の勉強は、この商売を始めるのに少しかじった程度だけどな。一人暮しが長いから、残りもんを活用した料理を作っているうちに、自然と上達したかな」 アリオスは決して不遜なようには見えなかった。本当に自然と身についたのだろう。 ”一人暮しが長いから”というところで、思わずニンマリとしてしまったのは、アリオスには秘密だ。 「サックスもされていたんですよね?」 「ああ。あっちで俺は名を上げようとしたがな、失敗」 これにはアンジェリークは目を丸くして、首を横に何度も振る。あれだけ演奏が出来るというのに、そんなことは有り得ないと。 「だってオーナー凄くお上手じゃないですか! あんな素敵なアレンジ、誰にも真似は出来ません!」 興奮ぎみに懸命に言うアンジェリークに、アリオスは苦笑する。 「サンキュ、アンジェリーク」 優しい眼差しの裏に、切なさが宿っているのを、アンジェリークは咄嗟に気付く。だが何も言えなかった。何か言えば、切なくて涙が零れてしまうから。 「俺は今の仕事が凄く自分にあっていると思っている。だからそんな顔をするな」 「…はい」 アリオスの手がまたぱふりと頭の上に乗る。それがまた温かいのは何故だろうか。 「さてと、おまえはそろそろ上がりの時間だな。帰っていいぜ? 家に帰って、また飯を食うんだろ?」 「もう! 私はそんなことはしませんっ! …おやつぐらいは食べますけれど…」 恥ずかしい告白に、アリオスはまた太く笑う。 「おまえらしいぜ。豚みてえにならねえように、せいぜい気を付けろよ。まあおまえなら太っても可愛いかもしれねえが…」 太っても可愛い。この表現にアンジェリークは嬉しくて恥ずかしくて、少し俯いた。 「ほら、頬っぺた真っ赤にさせてぷにぷにしてると、そのうちくっちまうからな」 アリオスに頬を軽く引っ張られて、アンジェリークはふにゃらと叫ぶ。 「じゃあな。今夜もいっぱいおやつを食べて、明日も頑張って出勤してくるんだぜ?」 「ぶひ〜!」 アンジェリークが鼻の穴を上に上げて豚の真似をすると、アリオスはくつくつと笑う。そのまま、休憩室から仕事に戻ってしまった。 幸せな気分が全身を覆う。まだ恋だと気付かないまま、くすぐったい感情に楽しさを感じながら、アンジェリークは家路に着いた。 翌日、カフェに目が覚めるような美しい女性がやってきて、アンジェリークは思わず目を丸くした。 「…アリオス、いるかしら」 美しさと存在感に、アンジェリークは圧倒され、しばしたじろいでしまう。これほどまで美しい女性をアンジェリークは現実で見たことはなかった。 「あ、あの、オーナーはオーナー室にいらっしゃいますが…」 「案内して」 「はい…」 アンジェリークは、彼女とアリオスの関係は一旦どのようなものなのかと、邪推の余りに切ない感情に胸を焦がしながら、女をオーナー室に案内する。 「こちらです」 「そ、有り難う」 女は軽く礼を言った後、強くドアをノックする。 「アリオス、私よ」 「ああ。入ってくれ」 名乗らなくてもアリオスは誰が解るのかと思うと、胸がきりきりと痛んだ。いらいらが心を支配する。アンジェリークは、この感情が”嫉妬”だと言うことを、まだ解らなかった。 女が部屋に入った後、ちゃんとドアを閉めていなかったせいで、僅かに隙間が開き、アンジェリークはどうしても知りたいと言う欲求に負け、その間から覗いてしまった。 「久し振りだな」 「久し振りね、アリオス。相も変わらずね」 「おまえもな」 ふたりは旧知の仲のようで、向かい合う距離が、ふたりの親密さを表しているような気がする。それがまた、アンジェリークの不安を高める結果となる。 「考えてくれた? インストの企画のこと?」 「ああ。俺は乗らないぜ。この間、言ったまでだ」 アリオスはあくまで感情なく、クールに答えている。普通ならあのアリオスにこんな態度を取られた暁には、きっと誰もがうろたえるだろう。だが、彼女は全く動じることはなかった。 「…あなたの答えはこうすれば解るのよ」 女は艶やかな声で言うと、いきなりアリオスの首に手を回してキスをした。 「……!!!」 アンジェリークは息を飲んだ。同時にショックで上手く動くことが出来ない。 ただ瞳から大きな涙が溢れ出て、止めることなど出来やしなかった。。 突然のショッキングなシーンを見せられ、アンジェリークはようやく気付く。 私はオーナーに恋をしている…! ようやく知ることが出来た淡い感情は、切なくも哀しいものに変わってしまった。 その場にいるのが耐えられなくなって、アンジェリークは肩を何度も引き攣らせながら、とぼとぼと部屋の前を後にする。 好きだと気付いた瞬間に失恋だなんてアホ過ぎる。 あの女に比べると自分は随分子供で、ずっと大人なアリオスとはきっと釣り合わない。 しかし、もう好きになりすぎて、今更諦めることが出来ない、アンジェリークだった。 |
| コメント 恋愛小説が書きたいあなたに10のお題に挑戦です。 読み切り連作で頑張りますので宜しくお願いします。 アンジェの王子様は、「ご飯作りが美味い人」のようです。 |