キス


 あんなに烈しく力強く抱き竦められたが、恋は進展しない。
 アリオスにとって自分の存在の意味を考えるだけで、アンジェリークは泣けてくる。
 相変わらず自分だけがアリオスを一方的に好きなような気がして切ない。
 相変わらず女はやってくるし、アリオスがアンジェリークに優しくなることもない。いつもと同じ。ただアンジェリークの苦悩が大きくなってしまっただけ。
 夜に色々な余計なことを考え過ぎてしまう。そのせいか体調も余り優れず、いつもぼんやりとしていた。
「アンジェ、このままだと余り良くないよ…」
「うん…。解っているんだけれどね」
 レイチェルに指摘されても曖昧な答えしかすることしか出来ない。
 アンジェリークはぼんやりとした頭をしながら、仕事をするしかなかった。
 賄いに行くには、オーナー室前を通るしか方法はない。アンジェリークが重い足取りで歩いていると、またあの女を見た。
 無視しようとして通り過ぎると、逆に女に呼び止められる。
「あら、あなた、アリオスの”天使”さんじゃないの」
「こ…、こんにちは…」
 上辺だけの挨拶しか出来ないアンジェリークに、女は余裕を持った笑みを浮かべてくる。
「ねぇ、あなたからも説得してくれない? もう一度、サックスプレイヤーとして、アリオスにやってみないかって」
 申し出に、アンジェリークは些か困惑する。
「…私がそこまで説得するより、あなたが説得するほうが、余程オーナーは折れて下さると思いますよ…」
 アンジェリークはこの言葉を悔しい思いをしながらも呟いた。
「どうかしら、天使さん?」
 アリオスを挟んで二人はお互いの感情を湛えた眼差しで見つめあった。
「そこで何をやっているんだ! おまえら!」
 アリオスの鋭くも不機嫌な声が二人にぶつけられ、ふたりとも驚いた。
「…オーナー…」
 アリオスに叱責をされアンジェリークは小さくなっていたが、女は全く平気なようだ。
「何って、あなたの”天使”さんにも御協力頂こうと思っていただけよ」
 女は悪びれる様子もなく、いけしゃあしゃあと言ってのけた。それがアンジェリークには少し胸が痛い。
「こいつを変なことに巻き込むな…」
「あなたが首を縦に振らないからよ」
 女とアリオスはお互いに引く気はないかのように、視線でお互いを牽制し合う。鋭い緊張が辺りの空気を引き裂いた。
「アンジェリーク、おまえは先に賄いに行っておけ」
 自分だけが疎外されているような言葉に、アンジェリークは首を横に振る。
「私はここにいます…」
「アンジェリーク…」
 益々アリオスの視線が鋭くなった。恐いと感じたが、アンジェリークはひるまなかった。
「おまえには関係ない。早く行け!」
「もう巻き込まれたんだから、関係あります!」
 アンジェリークはピシリと言い放ち、アリオスを少し驚かせた。
「私は…、オーナーが好きです。だからオーナーの全てを知りたいと思うのは、関わりたいと思うのは、当然だと思っています!」
 きっぱりと言ってしまった。アリオス相手にこんなにもはっきりと気持ちを言ったのは、初めてなのかもしれない。
「…そして、あなたも、毎日通ってオーナーを困らせるんじゃなくて、どうか長い目で見てください…。お願いします…」
 アンジェリークは頭を下げ、これにはアリオスも女もすっかり驚いてしまった。
「アンジェリーク」
 アリオスの視線が僅かに柔らかくなる。女の視線もまたしかりだ。
「…そうね。解ったわ…。とりあえず今日のところはこれで帰ります。天使さんに免じてね」
 ふっと女は笑うと、手を上げて行ってしまう。それを見送った後、アンジェリークはアリオスに頭を下げた。
「出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした」
「…いいや。俺こそサンキュな」
 今まで厳しかったアリオスの表情がふと和らぐ。同時に彼は苦笑した。
「ったく、おまえには敵わないぜ」
「オーナー!?」
 すっかり怒られると思っていたので、アンジェリークのほうが驚いてしまった。
 ふと甘い微笑みに変わると、アリオスが指先を頬に延ばしてくる。その仕草が甘く官能的で、アンジェリークはドキリとする。アリオスを男として意識せずにはいられなくなる。
「…ホントにおまえは真っ直ぐと物事を見るのだな…。なんか羨ましいな」
「アリオスさん…」
 切なげにふっと笑うと、アリオスは頬から指を離す。アリオスの気持ちが離れていくような気分になり、アンジェリークは切なかった。
「アンジェリーク、着替えてこい」
「着替え、ですか?」
「今日の賄いは特別だ。美味いものを食いに連れていってやるよ。真っすぐな心へのご褒美だ…」
「有り難うございます!」
 出過ぎた真似をして怒られてしまうかと思った。しかし、素敵なご褒美が付いて来て、アンジェリークは正直、驚いてしまう。
 嬉しかった。
「ほら、直ぐに着替えてこい」
「はいっ!」
 アンジェリークの勤務時間は賄いが終わってしまえばおしまいだ。慌てて着替えて、アンジェリークは仕度を整えてから、オーナー室に向かった。
「来たか。待っていたぜ」
「アリオスさん!」
 アリオスはコートをひっかけただけのスタイルだったが、上物そうなレザーのコートがとても似合っていて、アンジェリークは驚いた。素敵過ぎて見惚れてしまう。
「さてと、行くぜ、アンジェリーク」
「はいっ! オーナー!」
 アリオスの後をひょこひょこと着いて行く。食通のアリオスが連れていってくれる店とはどのようなものなのだろうか。
 形式ばったものだけは嫌だと思いながら、アンジェリークはおたおたと着いていく。
「…流石にまだ寒いな…」
「そうですね。寒の戻りですね」
 厳しい風が吹いてくる。アンジェリークは思わず身をすくませた。
「ほら、こうしたら温かいだろ?」
「あ…」
 アリオスの温かい手に包まれて、甘い気分が全身を駆け巡ってしまう。頬まで赤くなり、ほかほかとしてくる。
「温かいだろ?」
「はい…」
「頬っぺた赤いもんな」
「もうっ!」
 からかわれているのも、何とも心地が良かった。アンジェリークは幸せを感じる。
「今日の店のうどんはすげえ美味いからな」
「嬉しいです」
 うどんでも何でも、アリオスが連れて行ってくれる場所であれば、どこでも良かった。
 連れていってくれたうどん屋は少し薄汚い外観だが、とても温かな雰囲気だ。
「アンジェリーク、ここの肉鍋焼きうどんは美味いぜ」
「はい」
 机に着いて、アンジェリークはオススメといううどんを注文して待つ。楽しみな余りに足をぶらぶらする。
「美味いぜ」
「楽しみです」
 うどんが来るとそれこそ歓声を上げて、アンジェリークははふはふと食べた。
「美味しいです!!」
「だろ?」
 最高のボーナスだと思いながら、心から食べることを楽しんだ。
 アリオスに初めて連れていってもらった食事は、躰も心も癒してくれる。
「ホントに美味しいです!」
 心から喜ふたアンジェリークに、アリオスは僅かに笑ってくれる。それがまた嬉しかった。
「おまえはこういう場所が好きか?」
「形式ばったところよりも好きです」
 笑うと、アリオスは意味深に手の甲を撫でてくれた。それだけでも、ひどくドキドキする。
「俺もだぜ。形式ばったのはどうも苦手だからな」
 アリオスと意見が合うのが、アンジェリークは嬉しかった。
 うどん屋を出て、アリオスが自然と手を繋いでくれる。心臓が飛び出すかと思うほどドキドキとした。
「…アンジェリーク、さっきはサンキュな。おまえがすげえ真っ直ぐなのが嬉しかった」
「私はただオーナーが好きなだけで、勝手なことをしただけです…。ただ好きなだけなのに…」
 切なくなって俯きながら歩くと、不意にアリオスが立ち止まる。
「アリオスさん…?」
 アンジェリークが顔を上げると、アリオスは不意に抱き寄せてきた。暗い夜道とは言え、それなりの人通りはある。
 アリオスの突然の行動に、アンジェリークは甘いたじろぎを感じた。
「…アリオスさん、人が…」
 誰か来るのではないかと、アンジェリークはどきまぎとする。
「アリオスさん…、誰か来たら…」
「誰も来ない…。来てもかまわねえよ」
「どうして…?」
「さあな。おまえと同じ理由じゃねえの?」
 アリオスはふっとイタズラに笑うと、甘いキスを降らせてくる。
 しっとりと触れてくるキスはとても甘い恋の味。
 頭が甘さでぼんやりしたところで、アリオスは唇を離してきた。
「…アリオスさん…」
「好きだからキスしただけだぜ?」
 答えを問うように見つめると、彼はただ笑った。
コメント

恋愛小説が書きたいあなたに10のお題に挑戦です。
読み切り連作で頑張りますので宜しくお願いします。

いよいよキスです。
アリオスさんよく我慢しました(笑)




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