桜咲く頃

〜アリオスとコレット〜


 17歳の恋だからと幼いと決めつけないで-----
 壊れるぐらいに切ない恋だって出来る…。
 それがリアルな愛だとは気付かないまま-----


 今年もまたあの季節がやってきた。
 カーテン越しに窓から見える風景は、清々しい春の1シーン。白に近いはんなりとした桃を湛えた桜が、今年も目を愉しませてくれる。
 桜というのは不思議な花で、見ている間だけは、心の奥を透明に澄ませてくれる。
 心が澄むと思い出す、大事な瞬間。
 アンジェリークは吸い寄せられるようにチェストに大切に飾られている写真立てを手に取る。そこから丁寧に飾られていた写真を取り出し、端の皺を指先で伸ばした。
 写真を見ながら、アンジェリークは鼻孔の奥がつんとするのを感じる。ノスタルジーな琥珀色の想い出が蘇る。
 この写真が運命を変えてくれた-----あの頃の想いが、かけがえのない赤心のものであったことを証明してくれた。
 心の棚に大切に直してあったあの頃の想いが、瑞々しい光になって心と躰に充満していく。
 アンジェリークの記憶は、いつしか遠いセピア色の世界に引き込まれていた。


 学校のことを余り好きではなかった----あの瞬間までは。
 アンジェリークは、所謂優等生で、「良い子でいる」ことへの期待で息が苦しくなっていた。心地が良くて優等生でいたわけではないし、誰にも嫌われたくなくてただ、「良い子」を演じていただけだった。
 だが、あの桜の日、人生が大きなうねりを上げて動き始めた。
 今まで知らなかった感情の灯火が灯った瞬間を、アンジェリークは決して忘れる事なんて出来ない。
 魔法に包まれた一日だった。
 その日は新しい学年の始まりの日で、アンジェリークは無事に高校2年に進級していた。
 春うららの桜が美しく咲き、躍動感と力を得始めた光が花びらを透明に透き通らせている。
 始業式の後、風流にもアンジェリークを桜の樹を花見気分で眺めにいった。
 まるで宝石を眺めるような、そんな気分になる。
 だが、じっと見つめていたいのに、春の天気は気まぐれで意地悪。
 一粒の雫が頬にかかったかと思うと、無情にもスコールのように激しい雨が降り注いできた。
 痛いだとか、濡れて冷たいだとか、そんなことを思う暇などない、突然のイタズラだ。おまけに、友達の雷と突風まで連れてきている。
 春の気まぐれな空を、顎を上げて恨めしく睨み付けていると、不意に雨が止んだ。
 正確に言えば、アンジェリークの周りだけが濡れなくなった。
 桜はと言えば、まだそぼ濡れ、風に揺らされて花びらが踏ん張っているのが解る。稲妻は轟き、確かにアンジェリークの耳を不快にさせる音と、美しく思わせる光を強力に放っていた。
 なのに自分は濡れてはいない。
 栗色の髪がべっとりとして雫をたらして頬を濡らしている。それを指先で拭いながら、アンジェリークは顔を上げた。
 目がその姿を認めた瞬間、喉の奥から声にならない声が漏れる。
 直ぐに記憶を遡ることが出来るひとだった。
 銀色の長めの髪に、今はすっかり着崩されたグレーのスーツ-----最初に感じたのは遠い壇上での姿を見た時よりも、更に高く感じられる豊かな身長と整ったボディライン-----新任で紹介された若い教師だ。耳に自己紹介の声が蘇った。甘さと鋭さが同居する、蠱惑的な声だ。
「アリオスだ。主に1年を担当する。担当強化は英語だ。宜しく」
 余りにも簡潔すぎる自己紹介に、らしいとすら感じた。
 アンジェリークの学年ではなく、1年生を担当すると聴き、少し残念に思う。担当は英語-----良く響く素敵な声は、きっと素敵な発音を聞かせてくれるに違いない。そう思った。
 あの声をもう一度聞きたくて、アンジェリークは耳を澄ませる。自分の声よりもその声を真っ先に聴きたくて、じっと黙っていたのかもしれない。
「-----濡れちまう」
 雨の音すらもかき消すような深みのある声が、真っ直ぐ投げかけられた。
 翡翠と黄金が濡れる宝石のように光る瞳はとても神秘的で、アンジェリークは心の奥底を射抜かれる。
 胸が切なく縮み、熱い何かを訴えている。
 痛い。切ない。けれども興奮するほど幸せな気分にさせてくれる。
 何も言えなくて、ただ潤む瞳で見上げると、感情のない表情でこちらを見た。少し躰が接近する。
 雨に濡れた桜の匂い、そして-----ほんのりと香る男らしいムスクの匂い。それは今までアンジェリークが感じたことがない官能的な香りだった。
 それらが複合して、アンジェリークを心地よく酔わせる。
 ほんの数秒なのに、それは陳腐な小説や映画と同じように長い、長い時間のように感じられた。
 手が触れた。
 想像通りアリオスの指先は美しく、そしてほんのり冷たかった。
 ただ無言で傘を握らされ、驚いて顔を上げると、アリオスは何も言わずに校舎に向かって走り去っていった----
 雨に濡れる銀色の髪と、精悍な背中。
 『有り難う』とたった一言を言えない自分を残して、鮮やかに去る男を、アンジェリークはただ見送ることしかできない。
 ぎゅっと傘の柄を握りしめると、ようやく知った。
 恋の痛みと愛の意味を-----


 これが恋であると自覚した後も、アリオスとは殆ど関わることはなかった。
 あの傘すらも、担任を通じて返して貰ったぐらいだ。
 彼は別学年の担任で、しかも同じ学年の女性教師と付き合っている噂があった。ただの噂だと信じられない理由は、アンジェリークがふたりが一緒にいるところをなんども目撃したから。
 大人のルージュの似合う女性。そんな女に勝てる自信など、高校生のアンジェリークにはなかった。
 ただ一途にアリオスのことを想い、言えなかった「有り難う」を心の中の棚にずっと置き去りにしていた。
 ただ校舎の中ですれ違っても、ぎこちなく頭を下げるだけ。
 校庭で歩く姿を、この目で追うだけ-----
 そんな日々が二年もの間続き、アンジェリークも卒業の日を迎えた。
 一言も話したことのないアリオス----『有り難う』すらも言えなかった。
 だが、この純粋な想いと恋の痛みを心の奥の大切な宝箱に押し込めるために、アンジェリークは勇気を持ってアリオスの元に向かう。手には小さなデジタルカメラを持って。
 クラブですらも関わったことなんてなかった。アリオスが顧問である写真部に何度も足を向けたが、結局は切ない恋の痛みが勝って踏み入れることが出来なかったのだ。
 けれども----魂が焼き付くほどに刻まれたこの想いを持つ以上、許されるのではないだろうか。
 クラブで世話をした生徒達に囲まれているアリオスを発見したとき、アンジェリークはいつものように物怖じはしなかった。
 ただ山奥の湖のように純粋な眼差しをアリオスに真っ直ぐと向ける。
 それに気付いたのか、アリオスもこちらを見てくれた。
「おまえはあの時の…」
 目を細めながら言うアリオスがあの雨の日のことを覚えてくれていたのが、涙が出るぐらいに嬉しかった。きっと、不作法な礼儀作法のない娘として覚えていたのだろう。アンジェリークにとってはそれでも良かった。確かにアリオスが覚えてくれていたと言うことが大きかったから。
「はい。二年前の雨の日にお世話になりました。先生にお礼も言えなくて」
「礼なんて今更だろ」
 声が冷たく響き、アンジェリークの躰にずっしりと重くのし掛かっていく。それでもアンジェリークは唇を噛みしめて、背筋を伸ばし、深々と礼をした。
「あの時は…有り難うございました…っ!」
 アンジェリークは心から礼を言い、ゆっくりと頭を上げた。アリオスの顔を再び見るのが怖かった。
 だが、アリオスは怒ってはいなかった。しかし、許したような顔にもなってはいなかった。いつもの通りに、どこかひとを突き放しているような、そんな表情をしていた。
 勇気が萎むような気がする。だがアンジェリークは何とか踏ん張った。これがラストチャンスということを感じていたから。
「…記念に写真を撮っていただけませんか…?」
 突然の申し出、しかも良く思っていない生徒からのものであれば、きっと拒否するだろう。恐る恐るアリオスを伺う。
 息を呑んだ。
 -----その表情が崩れるのを、初めてアンジェリークは見た。
 アリオスの眼差しが柔らかに緩み、目を優しげに細めたのだ。
「いいぜ。おまえのと俺のカメラとで」
 アリオスは写真部の顧問だった。今更ながら、アナログの立派なライカ製のカメラを手に持っていた。
「おい、おまえら手伝ってくれ」
 アリオスに言われ、写真部の熱心な生徒達がカメラマン役を買って出てくれた。
「おい、写真を撮るぜ」
「…はい」
 初めてアリオスと真横に並ぶ。すると、あの時と同じように男らしいムスクの香りがふわっと空気のように広がっていく。まるで雨の日にタイムトリップしたようだった。
「いきますよ〜!」
 笑いたいのに晴れ晴れとした笑顔を作ることは出来ない。
 そっと肩を抱いてくれたアリオスの腕に男を感じながら、アンジェリークは心臓が小さくなる衝撃を覚えた。
 ぱしゃり、またぱしゃり。
 写真に、魂の底から静かな炎を燃やし続けた恋を焼き付けて。この一瞬が永遠となるように----
「オッケです!」
 生徒の声が響くと共に、アリオスの腕はアンジェリークの躰から離れた。
 それは同時に、アリオスがアンジェリークから離れてしまったことを表しているような気がした。
「先生…有り難うございました…!」
 深々と再び頭を下げた後、アンジェリークは泪を誤魔化すようにすぐにアリオスから背中を向ける。
「頑張れよ、これからも。アンジェリーク・コレット」
 背中越しにかけられた声に、アンジェリークは頷くことしかできない。
 どうして名前を知っていたのか? そんな疑問も消え去るぐらいに胸が苦しかった。
 切ない風と春の日差しにただ、泣いた-----
 純粋な恋はこれで終わったのだと、そう感じた----


 あれから一年が経った。アンジェリークは大学生になり、この春も無事に進級を果たした。
 あの写真は、アンジェリークの定期に大切に収められている。まるでお守りのようなものだった。
 また桜の咲く時期がやってくる。
 鮮やかな胸の痛みが、アンジェリークの心を支配する。
 桜吹雪く余り花見には向かないコンディションの中、アンジェリークは美しいと評判の公園へと向かった。
 桜色に染まった春のワンピースは今お気に入りの一品だ。あの日の桜の色を思い出すから。アリオスの恋をした、あの雨の日の。
 かさりと、音がして、目の前に歩く誰かが何かを落とした。
 アンジェリークはごくごく普通の親切心でそれを拾った。
「定期入れじゃない…」
 ぱらりと開いていた定期入れを診る鳴り、アンジェリークは掠れた声で「あっ」と呟いた。
 そこにあったのは、一年前の自分自身とアリオス。同じものが大切に自分の定期券にもお守りとして入れられている。
 時間が、表情が凍り付く。
 あの卒業の日に無理矢理眠らせてしまった感情が、懐かしく甘い痛みを思い起こさせる。
 痛いのに幸せ----あの感情だ。
「あ、あの…!」
 かける声が震えていた。
 だがその声に背中の主は反応し、ぴくりと動いた。
 そして、まるでスローモーションがかかったようにドラマティックに振り向いたのだ。
 銀の髪、翡翠と黄金の瞳、豊かな身長。ハードに着崩したジーンズとレザージャケットのスタイル----スーツを着たのを見たのは、新任の人卒業式の日だけだった----懐かしい、夢にまで見たアンジェリークの魂を揺さぶる男が、そこにいる。
 ふたりはただ見つめ合った。
 周りに歩いていた者が好奇の目で見たり、立ち止まったりして、時間が止まったようにフリーズしている。
「どうぞ…」
 泪がいつの間にか滲んでいた。
 そっと定期入れを渡すと、アリオスはただ無言でそれを受け取る。
 言葉なんか必要としなかった。
 ただ、時間の川を乗り越えた視線を、お互いに絡ませあえば、それで良かった。
 腕を伸ばす。
 その瞬間、どちらからともなく、ふたりは抱き合っていた----
 初めて触れた男らしい躰は、想像よりもずっと逞しくうっとりを通り越すぐらいに素晴らしい。
 今まで感じていた恋心が、壊れるぐらいに自分たちの躰を支配する。
「---名前、覚えていたことで気づけよ。一目惚れなんか、俺らしくねえけど」
「----好き…」
「解ってる…。俺も好きだからな」
 桜が祝福するように花びらを舞い散らせていく。
 言葉では言い表すことが出来ない幸福的な衝動の中、私たちは、初めての両思いのキスをする。
 桜の味がした----


 アンジェリークはくすりと笑い、大切にあの時の写真を写真立てに収める。きっとこの写真立ては、ずっと一番良い場所に置かれることは間違いないだろう。
「おい、アンジェ! 結婚式の最後の打ち合わせ遅れるぜ!」
 アリオスの相変わらず苛立たしげな声が玄関先から聞こえる。
 アンジェリークはそれすらも幸せな微笑みで受け止める。
「はあい。待って!」
 アンジェリークは華やいだ気分で玄関に向かって走り出した----
 
 桜の花よ。
 この春、私たちは結婚します----
コメント

少し違ったものを書いてみたかったのです。




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