雨の行方


 あの梅雨の日、私はおびょおびょと泣いていた。悼んでいた。大切なものを失ってしまったから。
 彼に出会ったのは、そんな午後。
 喪服みたいな黒いワンピースを着て、なにもかもが夢の跡のような教会で、彼に出会った。
 彼も何かを悼んでいるようだった-----
 まるでラメが入った刺繍糸みたいに、きらきらと輝いた銀色の髪を雨に濡らし、祈るように、色鉛筆な”ねずみいろ”で塗りたくったような空を見つめていた。
 黒いフォーマルなジャケットを片手にだらしなく持って、乱れた白いカッターシャツに、黒いスラックス。
 こんなシンプルな装いを完璧に着こなすひとは、余りいないと思った。こういう服装は誰にでも似合って、誰にでも似合わない。ちょっとしたニュアンスだけれど、シンプルなものを着こなせるひとは、本当に素敵だってこと。なかなかいない。
 彼は雨が似合っていた。
 雨の香りがよく似合っていた。
 雨のふんわかとした優しい雰囲気は、尖ったナイフのような彼に似合っていた。
 綺麗、本当に綺麗。
 私は悼むことを忘れたように、見入っていた。
 大きな音を立てて、教会の鐘がけたたましく鳴る。まるで私には弔鐘のように聞こえた。
 鐘の音で気付いたのだろう。濡れた髪を揺らしながら、彼は私を見つめてきた。
 咎めるような視線に、私は背筋が震えるのを感じた。
「何をしているんだよ…」
「悼んでいるの」
「何を」
「昨日までの私を」
「へんなヤツ」
 綺麗な顔が僅かに歪むような微笑みを浮かべる。幾分か尖った表情は、和らいだものになった。
 彼はそっと私の隣に腰を下ろし、長い脚を通路にほうり出す。
「あなたこそ何をしているのよ?」
「俺もおまえと一緒。悼んでいるんだよ。昨日までの俺を」
「真似しないで」
「真似なんかじゃねぇよ」
 彼と話していると、ごく自然に言葉が出るのが不思議だ。
「嘘!?」
 私は眉根を寄せながら、疑い眼で彼を見る。
「マジ。ここには過去を葬りにきたんだよ。それだけだ」
「…私だって…」
 私は落ち着かない気分になって、膝を抱えた。この人の前にいると、総てを曝されてしまいそうで、気分がどうも落ち着かない。
「今日ここで結婚式があったのよ。憧れていたひとが結婚しちゃった。結婚するまでは、こんなもの、早く壊れてしまえばいいのにねって、悪魔みたいに思っていたのに、いざ結婚しちゃったらダメね。私には手も足も出ない」
 こうして普通に話せる自分が何だか不思議だ。
 この雨の中で、あれほど悲劇のヒロインだなんて、うそぶいていたというのに。
「あなたは?」
「似たようなもんだ。今日の結婚式はおまえも参加したのか?」
「うん」
「だったら同じ穴のムジナだ」
 彼は自嘲ぎみに笑ったが、暗い影はなかった。まるで遠い過去の自分を、嘲笑っているかのようだ。
「そうなんだ…。やること総て似てるね、私たち」
「そうだよな」
 ふたりで欝陶しく降り続く雨を見つめながら、暫くはぼんやりとしていた。
 まるで雨の中で白昼夢を見ているようだ。
「それ、喪服のつもりで着たのか?」
「そのつもりはなかったけれど、何となく。心が選んでいるのかもしれない」
「その点、男は楽だな、フォーマルなものを選べば、誰も喪服とは思わねぇ」
 彼は笑うと、目を細めるように空を見た。
 暗い、暗い空から、薄い力のない光が一生懸命輝いている。
 そこに一縷の希望があるかもしれなかった。
 悼む、傷む、痛む、いたむ、イタム…。
 マイナスの感情が、私たちを強く結びつける。
 私たちは何も語らなかった。
 何も見出ださなかった。
 ただ、誰とも共有しがたいシンパシィを感じていた。
 雨音はまるで極上のサウンドになり、私たちはまるで映画の中にいるような気分になる。
 誰だか知らない。
 感情の共有を強く感じたひと。
 自然と手が触れ合った。
 冷たい指先は、互いのそれを温めあう。
 そこから不思議な想いが溢れ出し、私と彼は見つめ合った。
 彼の総てが欲しい。
 総てを知りたい。
 私は切に願う。
 こんな強い想いに動かされるのは初めてだった。
 古びた石造りの教会。雨に曇った無機質な冷たい街。
 ここでこんな出会いをするとは、想わなかった。
 魂の色を根本的に変えるような。
 私たちはお互いに顔をゆっくりと近付け、どちらからともなくキスをする。
 唇が重なった場所に雨の雫が落ちる。
 ファーストキスは雨の味がした。
 重なるだけのキスから、お互いを知るキスに変化する。
 キスは唇を重ねるものとばかり思っていた。
 だけどそうじゃない。
 舌がからみ、酸素をお互いに求めあうものがキスなのだと、私は初めて知ったのだ。
 初対面のひととこんなキスをするなんて、信じられない。
 だが、不思議とキスは嫌じゃなかった。
 どこか懐かしい感じがした。
 私はこのひとを識っている。
 遠い、遠い昔に識っていたこと。
 私たちはどちらからともなく、抱き合っていた。
 グレイの空が、何だかロマンティックにすら感じる。
 濡れたシャツから感じる男の温もりは、私を根本から揺るがしてくれた。
 官能的でどこか安堵が溢れる逞しい胸。
 この胸を、私は手放したくなかった。
 長い、長い、酸素がなくなりそうなキスの後、私たちは立ち上がった。
「お互いにびしょ濡れだな。拭いてやるから、着いてこいよ」
「うん…」
 私と彼は手をしっかりと握り合い、教会を後にする。振り返ると教会が優しく私たちを見送ってくれる。
 雨に煙る教会は、贖罪の匂いがした。

 彼は地元でも有名な、デザイナーズマンションに住んでいた。
 中に入ると、空虚を感じる。
 からっぽ。
 何もない空間。
 色彩すらも、そこには存在しなかった。
 それは彼の心を現しているようだ。
 私と同じ色のない心。
「おら」
 投げられたのは白いバスタオル。
 私はそれで緩やかに髪や躰を吹いたが、彼はガシガシと勢い良く拭いていた。
 躰を拭き終わると、大きくて白いカッターシャツを貸してくれた。
 ぶかぶかだったからドレスみたいで、何だか笑えた。
 何もないリビングで、ふたりして肩を寄せ合って座る。私は膝を抱えて、彼は胡座をかいて煙草を吸っている。
 お互いにちらりと見合った後、抱き合った。
 したことはなくても、そのままフローリングの上に倒れこんで、体温を確かめ合う。
 これがどういうことか、知識がない私ではなかった。
 ただ、今は魂ごと溶けてみたい気分だった。
 外から聞こえるのは雨音だけ。他に私たちを邪魔するものなんてありはしない。
 触れ合う肌の熱さ。滑らかさ。切なさ。
 それらが私をひとときの夢に誘う。
 夢も、暑さも、幸せも、総てをふたりで分け合おうと感じていた。
 躰を貫く傷みが襲う。
 だがそれ以上に、熱を与え合うことが出来たのが、幸せだった。
 私は本当に幸せ。

 何度か躰と時間を重ね、気付くと外は藍色に染まった。
 満たされた気分になり、ふたりで静かに過ごす。
 私たちは河の水みたいにひとつになって、たゆたゆと流れていく。
 怒涛の流れはやがて幸せを産むだろう。
 ひとつのシーツに包まって人肌を感じるのは、なんて気持ちが良いものだと思った。
 甘えるように擦り寄るとしっかりと抱きしめてくれる。
「俺はアリオスだ。お前は?」
 突然彼が名乗ってくれたが、それまで名前も知らない人だと言うことをすっかり忘れていた。
 名前は知らなくても、魂はずっと彼を知っていたような気がした。
 ここで名乗らなければならないとばかりに。不自然に見えるそれはごく自然のように思えた。
 名前を聞くと、余計に懐かしい名前だと感じた。
 どこかできっと聴いたことのある名前だ。
「私はアンジェリークよ。アリオス」
 そうすると、今度はアリオスが奇妙な顔をした。
「アンジェリークか…」
 ただ名前を呼ぶ。
 私たちはもう教会の下にいた時のように、悼む心はなかった。
 納まるところに納まったような気がした。
「これからもよろしくな」
「うん…」
 唇を重ね合う。
 その瞬間、ふたりを祝福をするかのように、教会の鐘が鳴り響いた。
 骨までとろとろに溶けるような恋が、今、始まる-----
コメント

梅雨空を見ていて、何となく書きたくなりました。
空と街のイメージはロンドン。




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