最初に見たのは、早春の雨の日。 出会った時の衝撃はとてもでないが言葉に表すことなど出来なかった。 全身を貫くような衝撃と興奮が、アンジェリークを襲った。 それは恋にも似た感情。 アンジェリークが恋をしたのは、ショーウィンドウに飾られた、アンティークピアノだった。 クラシカルなデザインの高級ワンピースの陳列を、ただ彩るために置かれたもの。 勿論、ワンピースも素敵だったが、それよりもなによりもピアノほど素晴らしいものはないと感じた。 初めて見た瞬間から、心が震えた。こんな情熱が自分の中に眠っているとは、今までよもや思わなかった。 だが。出会ってしまったのだ。運命を導くかもしれない、ピアノに。 それからと言うもの、アンジェリークは毎日ショーウィンドウに通った。 そしてただピアノを溜め息をついて見つめる。 端から見ればワンピースに憧れている姿に見えないわけではなかったが、その青緑の瞳はピアノだけを見つめていた。 アンジェリークとピアノとの間には、常に硝子一枚の隔たりがある。飛び越えて行きたいと何度思ったことか、計り知れない。 硝子はアンジェリークにとってはとてつもない”壁”であった。 飛び越えて中に入るには、まだまだ自分は役不足だ。とてもでないが、高校生が買って着こなせるブランドではない。 清楚さを売りにした高級ブランドであるがゆえに、気品と優雅さ、そして清純さが合まった大人の女性ではないと、着こなすことは難しい。 第一、経済的にもかなりの豊かさがないとオートクチュールブランドを着こなすことは出来ないだろう。 アンジェリークはそのような理由から、どうしても中に入ることが出来ずにいた。 じかではなく、硝子一枚を挟まれた形で、ピアノを見つめる。 見つめている間は硝子の存在など気にはならなかった。夢中になっている間、世界にいるのはピアノと自分だけ。その空間が、アンジェリークにはなによりも幸せであった。 ある日、勇んでショーウィンドウ前に行くと、人だかりが出来ていた。 アンジェリークは何事かと、人込みを掻き分けてショーウィンドウの一番前までたどり着いた。 今、まさに、その場所を使ってショーが開始されようとしていた。 ブティックの中には大勢のセレブリティたちが観客席を陣取っているのが解る。 暫くすると、銀の髪の青年が、ゆっくりとピアノの前に進んでくる。 アンジェリークは直感した。これは彼が奏でるためのピアノだと。 流れるような仕草で青年はピアノの前に座る。それが妙にしっくりときた。 青年の美しい指が鍵盤を滑る。音が奏でられた瞬間、アンジェリークは鳥肌を立てた。 今までこんなに繊細で深みのある音に、出会ったことなどない。 青年が奏でる音は、闇に冴え渡る月光のように、深みと繊細さ、そして鋭いほどの透明感があった。 やられたと思う。 アンジェリークは指紋が付くのも気付かずに、両手を硝子にべたりと付けて、ただ青年とピアノだけを見つめていた。 ピアノの音に合わせて、美しい女性がブランドのドレスを身に包んで、何人も出てくる。 それが芝居仕立てのファッションショウだと気付いたのは、随分と後のことであった。 アンジェリークの視線には、青年以外は映らない。アンジェリークの耳には、青年が奏でるピアノの音しか聞こえない。 世界は、ピアノと青年の姿以外、総てがなくなってしまっていた。 どこかで聞いたことがあるようなノスタルジーを感じる曲たちは、曲名が解らなくても、アンジェリークには心地良く感じた。 周りに誰がいようと関係ない。ただ青年とピアノ、そして自分だけがいる世界が形成できれば、それで良かった。 余りにも夢中になりすぎて、アンジェリークもどれくらいの時間が過ぎたのか、全く計ることが出来なかった。 夢心地で自分だけの世界に寄っていると、突然、拍手の音が耳に入ってくる。 ショウがクライマックスを迎え、終演したのだ。 気付いた時には、青年が頭を下げて、ステージから下りるところだった。 周りの観客がどんどん引いている。 だがアンジェリークはそこから立ち去ることが出来ない。 誰もいなくなり、照明が落とされた状態であっても、余韻の余り動けず、見つめることしか出来かった。 ようやく日が陰ったところで、アンジェリークははっとして家路に付く。 心には青年の演奏が強く残り、アンジェリークはふわふわと夢心地で家に帰った。 翌日、店はあいにくの定休日であった。 アンジェリークがショウウィンドウに近付くと、ピアノが既にその場所にはない。 「…うそ…!!」 ショックの余り言葉を飲み込む。躰から力が抜けて、へなへなと地面に座り込んでしまった。 恋人を盗られるというのは、こんな気分何だろうか。切なくて何だか涙が出てくる。折りから雨がぽつぽつと降り始め、アンジェリークの頬を濡らした。 雨なのか切ない涙なのか、良く解らない。 「…カッコ悪…。ピアノが撤去されたぐらいで、私…」 鼻をすすりながら自分に言い聞かせるように震えた声で言う。だが余計に惨めになるだけだ。 不意に頭に雨を感じなくなった。最初は、雨が止んだのかと思った。 だが。 「風邪を引くぜ?」 甘く深い声が頭上から下りてくる。アンジェリークははっとして慌てて顔を上げた。 「あ…」 そこには、昨日、見事な演奏を聴かせてくれた青年がいた。豊かな身長を腰から屈めて、アンジェリークを濡れないようにしてくれている。 「あなたは…、昨日の…」 「立てよ。このままだと制服がびしょ濡れになるからな」 手を差し延べてくれる。繊細な音を奏でてくれる青年の指先。 アンジェリークは憧れの指先を思わず取ってみた。 青年は僅かに笑うと、そのまま起こしてくれる。 「毎日、ピアノを見に来てくれていたんだな?」 「…はい…」 アンジェリークはこくりと頷くと、青年を潤んだ瞳で見つめる。 「…あのピアノの形や大きさが、凄くロマンティックで、このピアノの傍にいたい…。ずっと見つめていたい…。そう思っていましたから…」 「おまえさんを見ているとそれは解った」 青年はしっかりと頷いてくれると、魅力的な異色の瞳を向けてくる。アンジェリークはドキドキとした。 見つめられるだけで、こんなにも吐息が上がり、鼓動が高まるとは知らない。 「…あなたの演奏を見て、もっと好きになりました…。繊細で綺麗で、まるで月の光のような音だったから…」 アンジェリークは素直な感想を言うと、感激の表情を浮かべた。昨日の演奏を思い出すだけで、まだ感動に躰を震わせる。 「…凄く、ピアノが好きだったんです…。あのピアノがここから無くなっていたのが、凄くショックで…」 アンジェリークは切なげに呟くと、青年は深い影を帯びた視線を投げ掛けてくる。 「…ピアノ、聴かせてやるよ。あのピアノは俺の仕事場に昨日戻って来た。この上にある。来るか?」 「はい…!」 笑顔で答えれば、それ以上のものは必要なかった。 青年はそっと手を絡ませてくる。繊細な温かさはアンジェリークの身も心も包み込み、微笑みすら浮かべる。 言葉がなくても、お互いに想いが通じ合ったような気がした。 青年の仕事場はブティックの上の階にあった。 そこに入るなり、アンジェリークは感嘆の息を飲む。 またあのピアノが傍に来てくれたのだ。 ショーウィンドウにあったときよりも、しっくりと来るような気がした。 どんよりとした空の雰囲気に包まれてたたずむピアノは、とても絵になっている。 青年がピアノの前に進む。ピアノの前に佇んだ彼は、なんとしっくりとして、美しいことだろうか。 「じゃあ、弾くぜ」 「お願いします」 青年がビアノの前に座ると、指が優雅に鍵盤の上を滑っていった。 今まで聴いたことのないような、硝子の月のように冴えた音楽。 雨がピアノの音色を包み込み、優しい音にしている。 曲は良く聞くと判った。 ”You Are So Beutiful”------アンジェリークもCMなので聞いたことがある曲は、珠玉のラヴバラードだ。 いつもこの曲を聴くときは、ただ美しいと思うだけだったが今日は違う。とっておきのラヴソングの陽に思えた。 きっと何度聞いても、感動するだろう。 こんなに美しい調べをアンジェリークは聴いたことがない。 「綺麗…」 アンジェリークはいつのまにか涙を流していた。感動が全身を駆け抜け、涙として滑り出す。 演奏が終わっても、暫くは口がきけないほど、感動の嵐の中にいた。 青年がゆっくりと立ち上がり、アンジェリークに近付いてくる。 指で涙を拭った後、唇が重なった。 ファーストキスであったが嫌じゃなかった。むしろ、甘い幸せが全身を貫く。 キスの後、青年はじっとアンジェリークの瞳を覗き込む。 「…名前は?」 「アンジェリーク。アンジェリーク・コレット」 「俺はアリオスだ…」 青年は魅力的な声で呟いてくる。 「アリオス…」 名前を呼ぶと、アリオスは今までにない甘い微笑みをくれる。同時に、頬を親指で優しく撫でた。 「------あの曲はおまえそのものだ…。------アンジェリーク」 とろけるような言葉に、アンジェリークは感極まって泣き笑いになる。 ふたりはどちらからともなくしっかりと抱き合う。言葉は既にいらない。 再びキスをして、お互いの気持ちを確かめあった。 |
| コメント 女子高生アンジェリークとピアニストアリオスです。 一目惚れ同士のお話です。 |