〜恋に落ちる瞬間〜

一千分の一の殺傷能力

「生徒と教師」


 雨が降っていた。
 教室のあかりは薄暗く、灰色。埃の匂いが鼻をつく。
 明治時代の女学校が前身の名門女子高校。スモルニィなんて名前だったせいで、戦争時代は名前を変えられたと聞いている。
 旧い古い学校。
 戦災を免れた教会は石造りで、国から重要歴史的建築物に指定されている。
 だからみんなで、古びた床をミルクを使って磨いている。
 古いけれどロマンティックな学校。
 制服が清楚なのも有名で、女の子なら誰もが一度は憧れる。
 素敵な空気に囲まれて、それを吸いながら、アンジェリークは青春の日々を生きている。
 埃とワックスの香りが気になりながら、アンジェリークは、シャープペンシルの芯を、白いノートに突き刺していた。
 教室にかかる時計を恨めしく見つめる。
 タイムリミットは午後5時までなのに、時間は僅かしか遺されてはいない。
 物理の課題。これを出せなければ、きっと成績はかなり低い点を付けられてしまうだろう。
 諦めて、適当な答えを出す生徒が多いなか、アンジェリークはきまじめにも一生懸命解いていた。
 物理が大得意のレイチェルは、とうの昔に解き終えて帰ってしまった。
 ひとり唸っていると、教室の扉が乱暴な音を立てて開いた。
「コレット、どうしたんだよ? ノートを開いて勉強か?」
 現れたのは数学教師のアリオス。アンジェリークのクラスの副担任だ。
「先生。エルンスト先生に出す物理の課題〆切りが、今日の5時までなんです。なのに解けなくて…」
 アンジェリークは珍しくアリオスに弱音を吐きながら、困りきった顔をした。自然と、眉間に皺も刻まれてしまう。
「優等生で真面目なアンジェリーク・コレットさんを困らせる課題とは何だ?」
 アリオスはアンジェリークの席に近付いてくると、課題プリントを覗きこんだ。
「エルンストのヤツ、間違えて課題を渡したんじゃねぇの? 高校生のレベルじゃ、とてもじゃねぇが解けねぇ問題だぜ? こんなの解けるのは、レイチェルぐれぇじゃねぇか」
 アリオスはプリントを綺麗な指で弾きながら、冷静に指摘をする。
「大学生レベルだ。これはどう考えてもな」
 アリオスはさらりと言ってのけると、隣の席から椅子を取ってきて、アンジェリークと向かい合う形で、腰を下ろした。
「先生、解りますか?」
「まあな」
 アリオスがさらりと応えたので、アンジェリークはすがるような眼差しを、アリオスに向けた。
「大学生レベルの問題だとエルンストに指摘して終わるか、俺が教えるから、今から5時までの間に、一生懸命やるか、どっちかだな」
 試すようにアリオスに見つめられて、アンジェリークは呼吸を早める。
 こんなに近付かれたのも初めてだし、こんなに危険な眼差しで見つめられるのも、アンジェリークには初めてだった。
 アリオスの魅力的過ぎる眼差しを一身に受けるには、恥ずかし過ぎる。
 アンジェリークは目線から逃れるように、俯いた。
 ずっと心ひそかに、アリオスのことを想っていた。入学式で初めて出会った時から、ずっと憧れていた。
 クールな雰囲気と容姿に、いつもドキドキさせられていたのだ。
「返事は?」
 内側から滲み出るような声で、アリオスが呟く。
 アンジェリークの返事待つ間、手持ちぶたさなのか、ポケットから煙草を取り出した。
 箱を僅かに揺らして一本取り出すと、そのままそれを口に含む。
「先生、禁煙ですここは」
「硬いことを言うんじゃねぇよ」
 アリオスは煙草に火をつけると、携帯灰皿に灰を落とした。
「ここは、こうやって…」
 アリオスは的確に教えてくれ、アンジェリークに答えを導かせてくれる。
 とても近付いて教えてくれるものだから、アンジェリークはアリオスを意識する余りにドキドキする。
 紫煙とムスクがほのかに香り、アンジェリークの心を乱してくる。
 吐息だけでも、素敵なプレゼントに思える。
 吐息だけでこんなにも興奮してしまうのは、何だか自分がアブノーマルな気がした。
 アリオスの細かいところまで整った横顔を、アンジェリークはまじまじと見つめる。綺麗と思う余りに、興奮してしまった。
「おい、聞いているのか?」
 アリオスの良く通る声が、アンジェリークの躰に染み渡る。
 ドキリとして飛び上がりそうになり、アンジェリークは笑ってごまかした。
「あ、アリオス先生。そうですね。とっても簡潔な答えが出ました!」
「だったらこれをノートに書いて、エルンストに出せ。アイツはハートのレベルで問題を作るから、始末が終えねぇ」
 アリオスは飄々と言いながら、紫煙を吐き出す。
 エルンストとレイチェルが付き合っていることは、アンジェリークしか知らないトップシークレットなのに、どうしてアリオスが知っていると言うのだろうか。
 アンジェリークは驚いてアリオスを見た。
「アリオス先生、どうしてエルンスト先生とレイチェルのことを知っているの?」
「ああ、やっぱり図星だったか? 俺はかまをかけただけなんだけれどな。そんな気はしたが、やっぱりそうか」
 アリオスは意地悪で、”オニアクマ”という表現がぴったりの表情をすると、アンジェリークの至近距離に顔を近づけてきた。
「あ、あの…」
 アリオスほど整っている顔を、まじまじと見せ付けられると、吐息が烈しくなる。
「口止めしてほしい?」
 鼓動を烈しくダンスさせながら、アンジェリークは震えて頷いた。
「じゃあ、口止め料とごほうび、両方貰わねぇとな」
 アリオスの好み過ぎる顔が、アンジェリークのそれに近付いてくる。
 ゆっくりと、確実に。
 唇は甘くしっとりと触れたかと思うと、離れていった。
「サンキュ。課題出して帰れよ?」
 アリオスが余裕ある大人の男の顔をしたかと思うと、小意気な笑みを浮かべた。
 それが余りに素敵過ぎて、アンジェリークはぼうっとなる。
「じゃあな。口止め料はまた貰いにくる」
 アンジェリークは真っ赤になったまま、アリオスが教室を立ち去るのを見送る。
 少しは、アリオスの「特別」として見て貰えるようになったかもしれないと、アンジェリークはぼんやりと思った。
 
コメント
短い読み切り連作です。



top