アンジェリークは何ももたない子供だった。 掌に握り締めていた小さなものですらも、総て指から零れ落ちた。 餓え、薄汚れ、それでも笑顔だけは失わずに、小さなアンジェリークは生きて来た。 アリオスに拾われたのはそんな頃。アンジェリークはアリオスに引き揚げられ、掌に小さなかけらを手にした。 それはアンジェリークにとっては総て。 あれから十年が過ぎ、17歳になったが、大切なものは全く変わることがない。 それどころか、かけらはみすみずしい葉を広げて成長し、太陽の光を存分に受けている。 緑、緑している生き生きとした木に、愛を囁く鳥がやってくるのは近い。 「アリオス、ぐうたら昼寝なんてしていないで、とっとと起きてよ! お仕事でしょっ!」 「フレックス、フレックス」 寝ぎたないアリオスに、アンジェリークは綺麗に整った眉を持ち上げる。 「ちょっと! 早く起きて下さい! いくらフレックスだって言っても!」 アンジェリークはアリオスに、目覚まし時計を突き付ける。 「おいっ! 揺さ振り起こせ!」 アリオスは驚いて起き上がると、ベッドから跳び起きる。 「今日は大事な打ち合わせがあるんだよ!?」 「だからこうやって起こしたんでしょう!?」 「お前の起こし方はぬるい」 アリオスはいらだたしげに呟くと、パウダールームに閉じこもって、身支度をまとめる。 素早くも的確に準備をするアリオスを見るのが、アンジェリークは何よりも楽しかった。 ぼけっとしているアリオスが、瞬く間に切れ味の良い男に変身するのが、見ていて楽しかった。 「お前は仕度しなくて良いのか?」 「私は夏休みだよ」 「そうか。しっかり留守番しているんだぜ?」 まるで七匹のこやぎを諭す母親やぎのようなことを言うと、アリオスはバタバタと部屋から出て行った。 「アリオスってば、ビジネスの前だと素晴らしく素敵なんだけれどね」 アンジェリークは溜め息をつくと、ダイニングテーブルにどっかりと腰を下ろした。 アリオスは日に日に素敵になっていく。 そろそろ結婚を考えてもおかしくはないだろうに、そんなことはおくびにも出していない。 それがアンジェリークには切なくもあった。 アンジェリークも同じ年代の男の子たちに声をかけられる事が多くなっているが、一度として本気になったことはなかった。 その理由は解っていた。だがそれを気付かないふりをしているだけ。全く重症だと思った。 「…アリオスだって、いつまでもひとりってわけじゃないから…」 口にしてしまい、アンジェリークは言葉を飲み込むように息を呑んだ。 アンジェリークは、アルバイト先に顔を出した。 今日の仕事は三時間。よくあるファミリーレストランだ。 しっかりと働いた後、アンジェリークは同じアルバイト仲間に声をかけられた。 「アンジェリーク! 話があるんだけれど」 いつもの豪快さはなりを潜めた同僚は、妙にアンジェリークを意識している。 「どうしたの?」 アンジェリークは同僚が何を言いたいのか解らず、小首を傾げた。 「あのさ…」 同僚が口ごもりながら何かを言おうとして、不意に押し黙った。 「アンジェリーク、帰るぞ」 聞き慣れた低い声にアンジェリークが喜色をたたえて振り返ると、そこにはアリオスが不機嫌そうに立っていた。 「帰るぞ。晩飯食いに行くぞ」 アンジェリークはまるで小さな子供のような素直で明るい笑みを浮かべると、ごく自然にアリオスの腕を取った。 「ごめんなさいね、家族が迎えに来たから」 「あ、うん」 同僚はアリオスを見るなり緊張してしまい、口をあんぐりと空けている。 滲み出る大人の男としての色香が、同僚を萎縮させているようだった。 「いつもアンジェが世話になっている。すまねぇが、話はまたにしてくれ」 アリオスは鋭い氷のような眼差しを相手に向けながら、淡々と話す。 その様子は大人のようにも、子供のようにも見えた。 「じゃあね、また!」 アンジェリークがニッコリと向日葵のように微笑むと、同僚は引き攣った笑みで返してくる。それはまるで勝ち目のない闘いに挑まなければならない兵士のようだった。 「アリオス、今日は何を食べに行くの?」 アンジェリークが話し掛けても、アリオスの表情は幾分か強張りを見せている。 「アリオス?」 不安になってそろりと話し掛けると、アリオスは眉を寄せた。 「ああ…。お前の好きなものにしろ」 「だったらね、贅沢言って焼肉!」 「ああ」 アリオスは何か重大なことを考えているかのように、心はここにあらずとばかりに上の空だ。 「アリオス、どうしたの?」 アンジェリークは心配になり、思わずアリオスの顔を覗き込んでしまった。 「何でもねぇよ」 「何でもなくない顔をしてる」 アンジェリークは、アリオスの厳しい表情に胸を痛めながら、切ない気分で瞳を見つめた。 「心配するな。大丈夫だ。それより焼肉を食いに行くぜ。食いたいんだろ?」 「あ、うん! 食べたい!」 「じゃあ行こう」 いつものアリオスに戻り、アンジェリークは内心ホッとすると、スキップをするかのようにその腕に自分のそれを重ね合わせた。 「マジでお前、牛一頭は食えるんじゃねぇか?」 「ちょっとアリオス! 乙女にそんなこと言わないでよー」 アンジェリークは怒るふりをして笑いながら、デザートをもりもり食べていた。 死ぬほど肉を食べたが、デザートは別腹とばかりに、甘いパフェをぱくぱく食べる。 「さっきの男、お前に気があるんじゃねぇのか?」 アリオスはコーヒーを飲みながら、鉛色の声で厳しく言った。 「解らないよ…。だけど告白されたとしても、気持ちを受け入れることは出来ないから…」 アンジェリークは言葉を選びながら呟きつつも、デザートを食べるのは止めない。 「何故だよ」 アリオスの視線が、アンジェリークの心を射抜くかのように真っ直ぐと入ってくる。 アンジェリークは思わず、デザートを食べる手を止めた。 「何故って、考えられないから。こうしているほうが幸せだって言ったら、それは我が儘なのかな?」 アンジェリークは困ってしまい、小首を傾げる。 アリオスは、アンジェリークの表情を見るなり、緊張を解き放ったようだった。 「そうか…」 アリオスは大きな手の平をアンジェリークの頭の上に置くと、そっと撫で付けてくれる。 もう子供ではない。 けれどもこの温もりのために、子供でいたいと願う自分がいる。 アンジェリークは、自分の本当の気持ちに気付かぬふりをして、アリオスにただ微笑んだ。 アリオスもまた厳しい表情を引っ込める。 ふたりでいるときは、せめてこうしていたい。 お互いにそれが続かないことは解っているから。 |