〜恋人同士の接着剤〜
「だから、アリオスはいっつも仕事ばかりで、私を構ってくれないもの」 アンジェリークはミルクティーを飲みながら、溜め息をついた。 最近、恋の愚痴を言うのは、決まって小さなカフェのカウンター席、スツールに腰をかけて、足をぶらぶらしながら。 マスターがずっと大人だから、許されることなのかもしれない。 アンジェリークが恋人と出会ったのも、この小さなカフェ。カフェというよりも、レトロな『喫茶店』という呼び方がぴったりかもしれない場所で、アンジェリークは恋人でカメラマンであるアリオスと出会った。 アリオスが雑誌に連載している『街の風景』というフォトエッセイの冬の回に、このカフェとココアをテーマに取り上げた。その時、たまたまココアと 一緒に、朧げなモデルを務めたのが、アンジェリーク。 その縁で、ふたりは仲睦まじく付き合っている。 「仕事、仕事、仕事! いつも会えない理由がそれだもの、こっちは腐ってしまうわよ。アンジェリークさんの旬でピチピチな季節は今なのに」 アンジェリークはがっくりと肩を落として溜め息をはくと、ミルクティーにまた口づけた。 「そんなに拗ねなくても。が、アリオスも、仕事ばかりで君に構わないのも悪いがな」 マスターであるカティスは、ワイングラスを綺麗に磨きながら、しっとりと呟く。 大人な男性の言い分は、なんて説得力があるのだと思う。 「そう思うでしょ?」 「だがな、アンジェリーク。確かに会いたいのは解るし、いまの瞬間を大切にしたいと いった気持ちも解る。だが、瞬間、瞬間で、素敵だと思うことが違うのと同じで、成長して視点が変わっていくと、同じことをまた違った新鮮な視点で味わうことが出来る。だから、ピチピチじゃなくても、待てる女になれば、アリオスはいつまでも包み込んでくれる。早晩焦るな。じっくり待ってやれ」 「アリオスの仕事のひとつ、ひとつがチャンスなのは解るけれど、会いたい気持ちは抑えられないわ。解ってるんだけれど…。恋って割と厄介ね」 アンジェリークは苦笑しながら、ミルクティーをぐるぐるとかきまぜた。 「私がもっと大人だったら、マスターの言葉も理解出来るんだけれど、今は、頭で理解できても、中身が子供だから…」 もっと大人の女になれば、会えないことをしっかりと受け止めることが出来るのだろうか。今のアンジェリークには残念ながら、出来ない相談のような気がした。 お互いがすれ違うことがなければ、もっと楽にいられるかもしれないのに。 「恋のすれ違いって、難しいね」 アンジェリークはまた寂しさを滲ませた笑みを瞳に映した。 「まあ、そう焦るな。すれ違いも、ちゃんと克服することが出来れば、ホンモノになる」 知己と人間としての懐の深さを示す言葉に、アンジェリークは奥歯でそれを噛み締めた。 「コーナー飲みに来た」 アリオスの声が響くのと同時に、カメラを抱えた躰が店に姿を現す。 「私に逢うよりも、先にカティスさんなんだ」 拗ねるように言い、隣のスツールに腰掛けたアリオスと、アンジェリークは目を合わせなかった、 「ホット」 「あいよ」 アリオスが注文している間も、アンジェリークは無視を決め込んでミルクティーを飲む。 「アンジェ、おい」 アリオスに呼ばれても、アンジェリークは返事等はせずに、ただ唇で「バ・カ」と形だけを作った。 「おいっ!」 アリオスは苛立つような声を上げながらも、アンジェリークのふとももを撫で上げた。 「触らないで」 やんわりと注意した後、アンジェリークはミルクティーを持って、端の席にいっく。 写真やコーヒーよりも下に見られたような気がして、どうしても我慢が出来ない。 「怒っちまったか」 アリオスは全然深刻に受け止めてはいないようで、平然と煙草を吸っている。 「…怒るのも当然。だって、アリオスは私よりもコーヒーを優先したじゃない」 ぐびっとミルクティーを飲み、スコーンに思い切り生クリームを付けながら、大口を開けて食べる。 アンジェリークは腹が立つから余計にお腹が空いていた。 「…だそうだ、アリオス」 「あいつがここにいるって解ってたから、ここに来たんだけどな?」 甘さの滲ませたテノールで、魅力的に呟かれても、何だか複雑な気分。 アンジェリークはそれでもにんまりとした笑みが込み上げてくるのを抑えられなくて、何とか気難しい顔を作った。 「まあ、俺がほっといたから、悪いこともあるけれどな」 「どれぐらいだ?」 「電話もメールもなく一週間」 「そりゃ怒るかもな」 尽かさずツッコミを入れてくれたカティスに、アンジェリークはこっそり感謝する。 アリオスの日頃の行いを、とくとお説教してくれればいいのにと思った。 「なあ、あいつにココアを。俺からの奢り」 「何だか出会った時みたいだな」 カティスは苦笑すると、とっておきのココアパウダーを、アンティークな缶から取り出す。 この小さなカフェで出されるココアは、どこにも負けないくらいに本格的なものだから、アンジェリークも大好きだった。ただ大好きだから、いつもかつも飲んでいる訳ではない。 大好きだからとっておきのときだけに、置いている。 そのココアがアリオスの手によって注文される。 素敵な魔法のような気がした。 「でも、それぐらいでは、怒りは治まらないんだからね」 ぶつぶつと悪態をつけたくなるのは、大好きだから。 素敵な光景は見逃せなくて、アンジェリークは少し離れたところから、冬の風物詩を眺めた。 カティスがココアを練り上げる姿は、絶品といってもいい。本当に絵になる。 アリオスが撮った写真のお陰でいつも混み合っているのに、今日は静かだ。 とっくりと練り上げたチョコレートが魔法で温かなココアになる。 この瞬間が好き。 アンジェリークは、魔法のココアが出来る過程を、うっとりと見つめた。 「いつもながら、素晴らしい技だよな」 「この冬はかなり琢きがかかっているよ。お前さんの良い写真のお陰で、多くのお客様にご注文頂いたからな」 「それは良かった」 ココアを間に挟んだ、素敵な男たちの会話。 アンジェリークはそれが羨ましい。 「ココアだ。あちらのお客さんからの奢り」 カティスはウィンクをして、アンジェリークの前にココアを置いてくれた。 「いいの。あんなの。私よりコーヒーが大事なのよ」 わざとアリオスにぷいっと背中を向け、アンジェリークはココアの入ったマグカップを、両手で包み込む。 ほわほわとした湯気に乗った香りが、鼻腔を豊かに満たす。 甘くて素敵な香りに、アンジェリークの心は豊かさを取り戻す。 「美味しい…。ホントにマスターのココアは絶品だわ」 「それはどうも」 「俺に御礼は?」 アリオスが声をかけてきたが、憎たらしい余りに背中を向けた。 「いや」 背中を向けたまま、アンジェリークはさらりと言ったが、本当は顔にはにんまりとした笑みが湛えられていた。 「強行手段かな、こりゃ」 アリオスはスツールから下りると、アンジェリークにゆったりと近付く。 肩を叩かれるまで、アリオスがそこにいることに気付かなかった。 「味見させろよ」 「きゃん!」 アリオスに正面を向かされて、そのまま唇を奪われる。 動けないように、スツールごと抱きしめられていた。 深く唇を奪われてしまうと、ココアの味なんて、もう関係なくなる。そこにあるのはただ甘美だけ。 唇を離されるなり、アンジェリークは真っ赤になる。客は自分たちだけとはいえ、カティスがいるのだから。 なのにキスをするなんて、全く恥ずかし過ぎる。 「もう、バカっ!」 唇を離されて開口一番、アンジェリークはアリオスに悪態をついた。 つかれた本人は、全く意に解さないとばかりに、平然としている。 「ココアが味見したかったんだよ」 「だからってこんなことをすることはないじゃない…」 アンジェリークはすっかり拗ねて俯いた。 アリオスが離してはくれないので、そっぽを向くことは無理だ。 「俺の躰はこんなに冷えきっちまっているからな。ココアで温まったおまえに、たっぷりと温めてもらうつもりだからな。心も一緒に」 「湯たんぽじゃないもん!」 「充分に湯たんぽだ」 アリオスはフッと柔らかなシルクのような笑みを浮かべて、アンジェリークに触れるだけのキスをする。 「温めてもらうぜ、来い!」 「やん!」 アリオスはアンジェリークを肩で担ぎあげ、レジに少し多い代金を置いて、すたすたと出ていく。 「サンキュ、カティス」 「ああ、アリオスまたな」 「ちょっと! アリオスのバカ! 人さらい!」 喚くアンジェリークの手の平に、アリオスは鍵を掴ませる。 「うちの合い鍵だ。黙ってろ」 アリオスの低く咎める声も、手の中に納まる合い鍵も、どちらもアンジェリークには威力があり、すっかり黙り込んでしまった。 これもココアの魔法。 |
| コメント 一年ぶりのココアの話。 相応しい時期になりました。 |