Majolica Majorca


 霧の夜の湿った大気は、いつも鬱を運んでくる  生と死が交差する素晴らしい季節であったとしても。
 路地裏の古びた商店のショーウィンドウを見た時、アリオスは喉に熱いものを感じた。ずっと長い間探していたものとの再会に、懐かしさを禁じ得ない。これは自分が得るべきものだと思った。元々は自分の  家族のものなのだ、何を遠慮することがあるというのだろうか。こんな所に隠れていたのなら、見つからないのは当然だ。
 冷ややかな夜の大気に含まれる霧が、アリオスの銀の髪を撫でるように湿らせる。そんなことはお構いなく、ショーウィンドウに魅せられるように近付いていった。
 そこには二体の人形。金色の髪をした理知的な顔をした人形と、栗色の髪をした優美で愛らしい人形がじっと外を見つめるように飾られている。アリオスは栗色の髪の人形に引き寄せられた。正確に言えば、最初は、人形がしているアクセサリーに引き寄せられたと言った方が正しかった。
 栗色の髪の上に乗っている、きらりと輝くハートで縁取られたダイヤモンドのアクセサリー。栗色の髪をとても優美に輝かせている。
 誰もがこれが元はペンダントだなんて思わねえだろうな。これを知っているのは俺だけだ。
 アリオスは屋敷の応接間に飾ってある肖像画を思い出し、僅かに口角を上げて笑う。すると、栗色の髪の人形が返すように笑った。しかも輝くような満面の笑顔である。
 アリオスは幻を見たのかと思った。霧の多いこの街特有の、幻想的なものであると。再び人形を眺めると、また笑いかけてきた。無垢な微笑みで、真っ直ぐアリオスだけを見て。
 疲れているのか、俺  目を擦って、再び栗色の髪の人形を見ると、やはり笑っていた。背中に冷たいものが走る。こんなことでいいのか。こんな不思議なことがあっていいものかと。
「…おや、アンジェリークはすっかりあなたのことを気に入ってしまったようですね…」
 穏やかな優しい声に振りかえると、そこには落ち着いた笑みを湛えた美しい青年が立っていた。
 アリオスはただ青年に、”これはどういうことだ”とばかりの視線を向けている。
「…アンジェリークも一緒にいたがっています。お茶でもいかがですか?」
 どうしてのんべんだらりとお茶が出来るというのか。そんなことはどうでもいいと言う前に、言葉を飲み込んでしまった。結局は青年の後について、古びた店の中に入る。
 時は満月霧の夜。不思議なことが起こっても、理解出来る。特にこの街でならば。
「…東洋から取り寄せたお茶なんですよ。気分がとても落ち着きます…。直ぐに準備して参りますから、座って待っていて下さいね」」
 青年はのんびりと言うと、お茶の準備に行ってしまった。その間、アリオスは絶好の機会とばかりに人形に近付く。目的は人形ではない。あのアクセサリーだ。そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと人形に近付いた。外を向いて陳列していた人形は、いつの間にか店側に向いている。ゆっくりと髪の上にあるアクセサリーに手を伸ばそうとした瞬間、また人形に微笑まれてしまった。思わず手が止まる。
「…おまえは本当に人形なのか…」
 少女人形はただ微笑むだけ。横にいる金髪の人形は、アリオスには全く反応しないというのに、この人形だけは反応してくる。それが今のアリオスには不思議でならなかった。
 人形はただ微笑んで、アリオスを真っ直ぐと翡翠の瞳で見つめている。小首を傾げる愛らしい姿に、視線を奪われていた。
 突如、人形は立ち上がった。想像しなかった奇跡がまた起こり、アリオスが驚く暇もなく、人形はアリオスの腰に抱き付いてくる。
「お、おい…!?」
 いつもは冷静沈着なアリオスであるが、流石に目の前で起こった不思議には狼狽せざるをえなかった。人形と言っても、立ち上がったら相当な大きさがあり、本当に生きている少女のようであった。
「アンジェリークは、あなたから離れたくないようですね」
 声がして振り返ってみると、そこにはお茶を乗せたトレーを持つ、あの穏やかな青年が立っていた。
「アンジェリーク、あなたのぶんのミルクもご用意いたしましたから、お隣りに座ってお飲みなさい」
 だが少女人形はぷるぷると頭を振る。どうしてもアリオスから離れないとばかりに強情にしがみついていた。
「この人形はミルクを飲むのか?」
 アリオスは不思議そうに少女人形を見つめる。まったく、この路地裏に迷い込み少女人形に出逢ってから、驚きっぱなしだ。
「はい。ミルクは大切な栄養源ですからね」
「…栄養源ね。ったく、笑ったり、動いたり、しがみついたり、ミルクを飲んだり…。忙しい人形だな」
「彼女は人形ではありません。観用天使ですから」
 この答えにアリオスは息を飲んで青年を見た。青年は先ほどから全く変わらない穏やかな微笑みを唇に湛えながら、不思議な視線を投げかけてくる。
「  観用天使…。伝説の生き人形か…。身上を潰したものが多くいるっていう…」
 遠い昔、アリオスも不思議な人形の存在は聴いたことがあったが、まさか実在し、こんなところで出逢うことになろうとは思っても見なかった。
「名人の称号を持つクラヴィスが精魂込めて作り上げたもの以外は、うちでは扱っていないんですよ。アンジェリークはその中でも一品中の一品です」
 青年は意味深な視線をアリオスに向ける。
「アンジェリークと同時に作られたレイチェルはあなたに反応しませんでしたが、アンジェリークはあなたに反応しました。  アンジェリークはずっとあなたを待っていたんですよ」
 穏やかに、そしてこれが運命かのように青年は淡々と語った。柔らかな声には強い説得感が感じられる。”天使”という名の観用少女と視線が合うと、甘いとろけるような微笑みを向けてきた。
「  観用天使は、眠り姫なんですよ。愛し、愛されることが出来る王子様と出逢って、初めて覚醒めるのでございますよ」
「…言ってろよ」
 苦笑しながら、アリオスはしがみついたままの人形に愛着がわき始めているのを感じていた。
「さあ、立っていては何です。お茶をどうぞ」
「ああ」
 アリオスは素直に応じることにした。座ろうとすると、アンジェリークも隣りにくっついて座る。その姿が少し可愛いと思い始めた。座るなり、人形はじっとアリオスを潤んだ瞳で見つめている。それは何かを訴えているようにも見える。
「アンジェリークはあなたにミルクを飲ませて貰いたいようですよ?」
「ミルク」
 アリオスがアンジェリークのカップを持ってやると、眩しいほどの笑顔を向けてきた。純粋にアリオスだけに向けられる笑顔は、温かいものになってすうっとアリオスの心の中に入ってくる。その心地よい感覚に、思わず微笑みを浮かべてしまう。
「ほら、おまえのミルクだ」
 人肌のミルクが入ったカップを唇に近づけてやると、アンジェリークは嬉しそうにコクコクと頷きながら受け取り、飲み始めた。愛らしい姿に、目を細めずにはいられない。
「観用天使はミルクが好きなのか?」
「はい、主食は一日三回のミルク。週一回ほど砂糖菓子を与えます」
「ミルクと砂糖菓子ね…。本当にそれで出来てそうだな」
 観用天使をじっと見つめてみる。抜けるように白いミルク色の肌は、艶やかに玉のように輝いていた。大きな瞳はアクアマリンのように美しい煌めきを放っている。眼差しは濡れた宝石で、じっとアリオスを捕らえて離さない。
「あなたと一緒に行きたがっているようですよ? 観用天使は、選ばれるのではなく相手を選ぶのですから」
「選ぶ…」
 アンジェリークは相変わらず幸せそうな笑顔を浮かべて、アリオスをじっと見つめている。それは懇願にも似た切ない表情であった。
「おい…」
 アリオスの頬に、柔らかな小さな手が置かれた。本当に小さくて、意外なほど温かい手。何も話はしないが、その温もりで痛いほど気持ちがわかった。『連れて行って』そう言っているように聞こえる。
「一緒に連れて行ってあげて下さい。”お嫁入り道具”は準備させて頂きます。あなたを気に入ってしまった以上、その娘は、もう誰にも見向きをしなくなるんですよ」
「  いくらだ?」
「…そうですね」
 とりあえずは、相場と言われている価格を青年はさらさらとメモに書いてアリオスに渡した。ちらりとそれを見て皮肉げに眉を上げると、アンジェリークを抱え黙って立ち上がった。
「判った。前金を置いていく。残金はうちのものに持ってこさせる」
 アリオスは提示された金額のほぼ全額である札束をテーブルの上に乱雑に置く。
「これでけっこうですよ。あなたは、アンジェリークを幸せにして下さるようですから。少しお待ち下さい。花嫁の支度をして参りますから」
 青年は先ほどから変わらない笑顔で頷いた後、奥の部屋に引っ込んでいった。
 観用天使は決して安い買い物ではないが、それ以上の価値が有ると思う。特に、この栗色の艶やかな髪を持つアンジェリークには…。
「お待たせしました」
 青年は立派なトランクを持ってくると、それをアリオスに持たせてくれる。
「  では、アンジェリーク。幸せになるのですよ。きっとあなたなら幸せになれます」
 青年はまるで母親のようにアンジェリークの頬に手を当てて、慈しむと共に別れを惜しんだ。
「  観用天使の最大の栄養はずばり”愛情”です。沢山注いでやって下さいませね」
 アリオスは青年顔を一瞬見ただけで、何も答えなかった。
「アンジェリーク。ちゃんとレイチェルにお別れを言って下さいね」
 観用天使はコクコクと頷くと、ディスプレイに飾られ覚醒の瞬間を待っている人形に手を振る。その仕草もまた愛らしくてどこか感傷的な雰囲気があった。
「じゃあな」
「はい。アンジェリークを幸せに、その愛情で育ててあげて下さいね」
 青年の言葉に一瞬アリオスは立ち止まる。人形が育つことなどあり得ないと思いながらも、挨拶代わりに手を挙げた。
 店を出ると、相変わらず湿った霧が辺りを覆っている。先ほどまではそれが鬱とおしくてしょうがなかったが、今はそうは思わない。
 目的はすっかりすり替わってしまったが、とても心地よい気分だ。なんと言っても天使が傍にいるのだから  秋に出逢った奇跡の天使が。
 アリオスを見送った後、青年は満足げな溜息を一つ吐いた。
「…リュミエール…アンジェリークは無事にパートナーが見つかったのか…」
 低い感慨深い声が店の奥から響く。リュミエールと呼ばれた、名前にぴったりの雰囲気を持つ青年は深く頷いた。
「クラヴィス様、アンジェリークにはまたとないお相手が見つかりましたよ。  残りはレイチェルですね」
 不意にリュミエールが顔を上げると、また、ショーウィンドウに魅せられている青年がいる。少し生真面目そうな雰囲気がある。青年に反応して、レイチェルがゆっくりと瞳を開けた。
「クラヴィス様、レイチェルのお相手も見つかったようですよ」

続きは「Majolica Majorca」で!
後1本収録





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