〜PROMISE ME TOMORROW〜
想い出には二種類有る。 想い出すたびに無邪気な幸福に浸ることが出来、何度もその瞬間に戻りたい、立ち会いたいと願うもの。 そして。想い出すのも苦痛で、出来るならば抹殺をして、存在自体をなかったことにしたいと願うもの。過去を変えたいと思うのも、こちらに入るだろう。 アリオスにとって、”プリンセス・アンジェリーク”との想い出は、その瞬間に戻りたいと思いながらも、結末をなかったことにしたい、過去を変えたいと思う、”光と影”が鬩ぎ合うものだった。 共に過ごした夏は遠い昔にわびしく色褪せてしまったのに、プリンセスとの想い出だけは、眩しい夏の光と共に、瑞々しい明るさで想い出すことが出来る。失われた往年の名画のように、総天然色で鮮やかに蘇る。 アリオスにとっては、アンジェリークと過ごしたひとときは、天衣無縫な温かな幸せと、絶望の空洞をもたらした。それでも記憶の奥深くでは、ずっと忘れることが出来ない想い出だ。 真緑の木々の爽やかな木立、生い茂る緑のいきれ、真昼の生命力に溢れた日差し、屈託のないアンジェリークの笑い声、きらりと光る湖の水しぶき、ラフマニノフ、薄紫の夕闇、光り輝く数多の星座…。 深く閉ざしていた想い出が、扉の向こうから溢れ出てくる。 アリオスは一つずつ、最初から想い出を辿らなければならないような気がした 二年前まで、アルカディアは”王国”だった。五百年もの永きに渡り続く歴史有る美しい王国で、王の親政によって平和を維持し続けていた。”永遠の王国”と謳われ、誰もが憧れる国。 それが脆くも崩れ去る日は、あっけなくやってきた。 その日は、雷鳴轟く不安定な天気だった。不気味な空が、任務を嫌がる自分の心のように思える。窓からは雷鳴の光が入る長い冷たい廊下を、アリオスは無言で突き進む。本当は、こんな面倒な役割ははっきり言って願い下げだった。 だが文句は言えない。一応、この国を護る仕官なのだから。 閉口するほどのセキュリティをくぐり抜け、アリオスは顔色を一つ変えずに一番奥の扉まで辿り着くと、ピタリとその前に止まった。軽く深呼吸をする。使者としての役割を果たすために。重大な使者であっても緊張はしない。ただ、自分がしなければならないことを果たすだけだ。 アリオスはゆっくりとドアに手をかける。思い切り、乱暴にならない程度に大きくドアを開けた。 風が変わったような気がする。ドアの向こうの空気は、それまでのように淀んではいなかった。それどころか、爽やかで澄んだ空気がそこにはあり、春風のように心を和ませる。 同時に、栗色の髪がふわりと揺れ、ひとりの少女がアリオスの視界に入ってきた 直ぐに誰かは、アルカディアの国民であれば判る。王位継承権を持つ、王の一人娘であるアンジェリーク王女だ。写真でしか見たことのない幼い王女は、実物で見ると更に純粋のように思えた。 青緑の汚れのない瞳がアリオスの胸を射抜いてくる。アリオスはしばらくその瞳に魅入られ、動けないでいた。 胸が軋む。周りの風景が変質し、そこだけが時間に取り残された感覚ですら覚えた。永遠がその瞬間に刻まれる。 魂が揺さぶられて、アリオスは眼を細めてアンジェリークを見つめる。運命と出逢ってしまった。そんな気がした。 「…あなたはどなたですか?」 アンジェリーク王女は小首を傾げてただ真っ直ぐとアリオスを見つめてくる。だが、アンジェリークの言葉を取ったのは、勝ち気な瞳を持つ女官であった。 「無礼者! なんと不作法な。このお部屋が、アンジェリーク王女のお部屋だと判っていらっしゃるのですか!?」 気丈な女官の対応にも、アリオスは眉一つ動かさずに冷静に対処する。ただ、不安そうに見つめているアンジェリーク王女の眼差しだけが、唯一の気がかりだった。 「もちろん存じております。ロザリア殿。私は、警備連隊隊長アリオスと申します。階級は大佐であります」 アリオスは恭しく目の前の女官に敬礼をする。アンジェリーク姫の瞳が、益々不安げに揺れるのが見て取れた。心の奥に潜む揺れる思いを抑え付けて、背筋を伸ばす。勅命を伝えなければならない。浅く呼吸を一度した。 「 ただいま陛下が退位され、このアルカディアにおける、五百二年に渡るコレット王朝は今日廃止されたのです!」 アリオスは一息で言い切った。言うべき事の核心を。もう面倒臭いとは思えなかった。 アンジェリーク姫に視線を送ると、顔色を紙のように白くさせている。華奢な躰を震わせながら、唇を噛みしめて何とかそこに立っているようだ。 不憫だと思った瞬間、王女の表情が変わった。 凛として背筋を伸ばし、ドレスを摘み上げると、王女は深々と頭を垂れた。それが最上級の礼であることは、アリオスも充分判っていた。 「アリオス大佐、報告御苦労様でした」 発せられた王女の声も、そしてその姿も、気品と威厳に満ちあふれ、アリオスは息を呑む。14、5歳の少女では到底考えられない雰囲気を宿していた。 雰囲気に呑まれてはならない。アリオスもまた武人としての誇りをかけて、少女の最上級の礼を受け入れた。 「直ぐにお支度願いたい。夏離宮にご移動の準備を。あなたがたは当分そちらでお過ごし願う」 「判りました」 先ほどおどおどとしていたのが嘘のように、アンジェリーク王女はアリオスの言葉を受け入れる。恐らく、肝心な時には気を取り乱すことのないよう、教育を受けているのだろう。15歳の少女にしては立派な態度だった。 女官と共に僅かな荷物を詰める。その様子を診ていると、小さな背中が時折小刻みに震えた。不意に、アンジェリークは烈しい咳をする。 「姫様!?」 横にいたロザリアが必死に背中をさすり、咳を止めようとする。王女を不憫に思い、アリオスは眉根を寄せた。 「女官、アンジェリーク様はご病気なのか?」 「いいえ、私は病気じゃありません…。緊張したり、不安になると咳が出る癖があるんです…。気になさらないで…、アリオス大佐」 苦しそうにするアンジェリークの背中をさすりたい。だが、今の自分にはそんな資格などない。いや、これからでもそんな資格は、持てないだろう。アリオスは誰にも知られないように、そっと手を握りしめた。 アンジェリークが準備を終えるまでのおよそ1時間の間、アリオスはじっと立って待っていた。 このままこんなことが起こらなければ、アンジェリークは立派な女王になっていたに違いない。アリオスはそれだけは確信出来るような気がした。 アンジェリークは何度もひどい咳の発作を起こしながら、準備を進める。あのように気丈に振る舞ってもまだ幼気な少女だ。胸がひどく痛い。 「出来ました、アリオス大佐」 「了解しました。それでは外に車を待たせております。こちらへ」 アリオスが荷物を持とうと手を差し伸べると、アンジェリークは首を縦に振る。 「これは私が持っていきます。これからは…女官たちに色々とお世話をして貰うわけには、いかなくなるでしょうから」 「判りました」 アンジェリーク姫の精一杯の抵抗だと、アリオスは感じる。苦笑しながらアリオスは背を向けた。 「私に着いてきて下さい」 気配で姫が頷いたのが判る。 長い廊下を再び歩き始めた。窓からは相変わらず稲光が入ってくる。孤独な足音が三つ廊下に染みわたるだけだ。 沈黙が覆う。時折、アンジェリーク姫の咳が廊下に神経質に響くだけだ。夕方だというのに、暗い廊下をひたすらと歩いた。 雨の中、宮殿を出て待ちかまえていたダイムラーに辿り着く。 「こちらです、アンジェリーク様」 呼んだものの、アンジェリークは雨の中傘もささずに、ただ自分が生まれ育った宮殿を見上げている。栗色の髪を濡れそぼり、髪を飾っていたリボンはくったりとしている。だが、幼気な姫は、微動だにせずに宮殿を見つめている。そこの姿には、確かに王者としての気品と風格が感じられていた。 王女はまたスカートを持ち上げると、深々と頭を垂れた。アリオスに対してよりも更に深い敬礼だった。 アリオスは敬意を持ってその姿を見届ける。傘をささずに、濡れそぼる銀の髪にも構わずに。 「…さよなら、有り難う…」 雨音に混じって、アンジェリークの小さく、そして想いのこもった呟きを聴いた。 「お待たせしました、アリオス大佐! 行きましょう!」 顔を上げたアンジェリークの表情には、もう先ほどの愁いは感じられなかった。雨なのに晴れ上がっているような、そんな笑顔を向けていた。 「判りました」 「…夏離宮は私のお気に入りだから、きっと楽しく暮らせるはずだわ…」 まるで自分に言い聞かせるように、アリオスには聞こえる。重い運命を感じているのか、アンジェリークの声は少しも明るくなかった。 ダイムラーの後ろのドアを開けて、アンジェリークとロザリアを先に乗せる。 「両陛下は先に離宮においでです」 ただアンジェリークは頷き、一度だけほっとしたように溜息を吐いた。途端にまた咳を繰り返す。 それだけがアンジェリークが不安に思っていることを、如実に表していた。 雨の中ダイムラーは仰々しく夏離宮に出発する。未だに雨が降り、稲光が劈く、墜ちた王国には相応しい空。アリオスには、これがコレット朝の葬列のように思えてならなかった。 |