1 柔らかな雨が夏色を運ぶ頃、出逢いは訪れた。 空は鈍色、奏でるのは寂しい雨音、掌には何もない。 こんな鬱陶しい灰色の季節に、何もいなくならなくても良いのにと、恨めしい気分で、写真の中で笑う母親を見つめる。 よく働く静かな笑顔の女性だった。娘を育てるために働いただけの一生のように、アンジェリークには映っていた。 たったひとつあった、掌に握りしめていた大切なものが、砂のようにさらさらとこぼれ落ちた。もう何もない。 昨日、葬儀で母を見送ってから、ずっと真っ黒い制服のまま。この小さなアパートメントに、ひっそりと閉じこもっている。友達は、雨だけだ。 深い森に迷い込んだ赤ずきんのような心境だった。オオカミはこの世界総てに思える。 何もかも失ったせいで、おびょおびょと泣くしか、今は出来なかった。 白濁した窓に跳ねた雨の雫をぼんやりと眺めていると、玄関のチャイムが鳴り響く。 チャイムはもう沢山。アンジェリークは溜息をひとつ零すと、立ち上がり、玄関先に行った。 「はい?」 玄関ドアの覗き穴から外を見ると、長身の男性が立っていた。プラチナのような髪を、雨の雫で濡らしている。漆黒のスーツを着て、不機嫌そうに立っている様は、その筋のものに見えなくもない。 「どちら様ですか」 「弁護士のアリオスだ」 眉唾ではないかと、アンジェリークは訝しげに男の胸元を見た。確かに、向日葵と秤をモチーフにした弁護士バッチが、しっかりと付けられている。 アンジェリークは呼吸を整えながら、眉根を寄せる。今度は何が起こったのだと言うのだろうか。 背筋を伸ばしてアンジェリークは、出せるだけの凜とした声を出した。 「どのようなご用件でしょうか」 「亡くなったお前さんの母親がらみの話だ」 きっぱりとアリオスと名乗った弁護士は言い切る。 アンジェリークは仕方がなく、そっとドアを開けた。 アリオスの全身が視界に入るなり、アンジェリークは言葉をなくす。 とても精悍で整った躰つきが、アンジェリークの目の前で立ちはだかっている。これに加えて豊かな身長。侮れない冷徹な視線。胸元にある弁護士バッチがなければ、マフィアの手先ぐらいにしか見えない。 隙のないアリオスに、アンジェリークは思わずたじろいでいた。敵に回せばやっかいな相手になると、すぐに知れたから。 「…どうぞ」 「ああ。お邪魔する」 アンジェリークが部屋に招き入れると、アリオスは大きなストライドで中に入ってきた。 母娘で一生懸命住みよくしたアパート。可愛いキッチンと、赤いギンガムチェックのクロスがかかった小さな白いテーブル。そして、赤いソファと古びた四本脚のテレビ。 そんな心地よい空間を、アリオスが侵攻してきたような気分になった。 「ジャスミンティーでいいですか?あいにくそれしかなくて」 「ああ。用件をすませば、すぐに帰らせて貰うから、何でもかまわない」 「じゃあ、その甘いソファにかけていて下さい。お茶を飲みながら、弁護士先生のお話を聞きますから」 アンジェリークは緊張しているのを知られたくなくて、すぐに背中を向ける。アリオスは、フッと息を吐くように嘲笑すると、ソファにどっかりと腰をかけた。 部屋には雨の音と、お湯が沸くケトルのしゅんしゅんとした音。そして、アリオスがライターを点ける音がした。 穏やかな午後を象徴する音のはずなのに、緊張を醸し出している。 アンジェリークは残った僅かなお茶の葉をポットに入れ、ジャスミンティーを作った。 「お待たせしました」 アリオスの前にティーカップを置くと、煙草を僅かにずらし、「有り難う」と礼を言ってくれた。 アンジェリークはそれに頷きながらも、そわそわと落ち着かない気分でソファに腰を下ろした。そのせいで、半掛けになってしまう。 「先ずは自己紹介からだ。先ほど名乗ったが、俺は弁護士のアリオスという」 アリオスは名刺を一枚、アンジェリークの前に差し出してくれた。 「今日は、ミッシェル・コレットさんの代理人として、こちらに来た」 「ミッシェル・コレット?」 アンジェリークは自分と同じファミリーネームを怪訝に思いながら、眉根を寄せた。記憶をたどっても、そんな名前の知り合いに行き当たらない。 「私と同じ名前ですが、聞き覚えがありません」 アンジェリークは唇を噛みしめながら、何度か首を横に振った。 「そうか。知らねぇか。なら、お前は自分の父親のことをどう聞かされていた?」 「あ…、亡くなったと…」 「亡くなっちゃいねぇ。現にお前は認知をされている。非嫡出子、つまり庶子だ、コレットの」 庶子 それが愛人の子を指すことぐらい、アンジェリークにもなんとなく解る。 いきなり自分の出生のことを言われ、アンジェリークは戸惑いを禁じ得ない。 両親の愛を一心に浴びて生まれてきたと、そう固く信じていたのに。 母親は父親のことを「死んだ」と言い、生きていた頃の話を色々としてくれた。ふたりで旅行をしたときのことや、アンジェリークがおなかの中にいるときのことなど。だがそれが総て、母親が作ったフェアリーテールだったのだ。 総て娘のために作った、罪のないフェアリーテール。 残酷な現実に、アンジェリークは下を向いた。肩が震える。 「その、ミッシェルさんとやらがどうされたんですか?」 涙声になった口調は、とげとげしさを含んでしまう。それは目の前の男のせいだ。 こんな残酷なことを、何事もないことのように言わなくても良いのにとさえ思った。 「ミッシェル・コレットはお前の父親であるフランソワ・コレットの正妻だ。そのミッシェル・コレットが、長年の苦痛に対する慰謝料を請求してきている。母親の遺産でお前に払えと言っている」 「…そんな…」 今まで、アンジェリークの人生に、血筋といえば母親しかいなかった。これからもずっとそうだ。父親なんて逢ったこともないし、ましてやその妻なんて、関係ないのに。 まるで土足で人生に踏み入れられたような気分になった。 どうして良いか解らない。上手く考えられない。ただ、想像以上の恐怖を感じていた。 掌に何もないのに、どう対処が出来ると言うのだろうか。 アンジェリークは背筋に冷たいものが流れるのを感じながら、締め付けられる胸の痛みに、神経衰弱になりそうだった。 続きは本文で! |