*夢のあとさき*


「  そこまで!」
 講師にピシャリと言われて、香穂子はヴァイオリンの演奏を止めた。背筋に緊張が走る。
「可もなく不可もない…わね。柔らかで温かなあなたの音は大好きだけれど、技術力がまだまだだわね。もう少し技術を磨かなければならないわ。大学のレッスンだけではなくて、個人レッスンなどを積極的に受けた方が良いわよ日野さん。奨学金を受けているから、難しいかも知れないけれど、このままだと奨学金受給も危ういから頑張って。では、今日はここまで」
 講師は歯に衣着せぬ口調で言いながら、成績シートに書き加える。その姿を見つめながら、香穂子は小さく溜め息を吐いた。 また上手くいかなかった。今度こそ上手くいくと思っていたのに。
 香穂子はヴァイオリンを片付けると、入り口に向かう。「ありがとうございました」と頭を下げても、講師は次の生徒の成績シートを見ていて、香穂子が挨拶をしたことも気付いていないようだった。
 レッスン室を出て、香穂子は深々と深呼吸をした。
 レッスンはしてはいるが、あくまで講師に注意されたところを、自分なりに直しているだけだ。個人レッスンをするほど経済的に余裕がないせいか、自分で練習するのが精一杯だった。
 香穂子は校舎から出て、癒やされるほどに澄み渡った蒼い昊を見上げる。太陽の陽射しに祝福をされた空は、幸福を感じるほどに美しかった
 いつまでも落ち込んではいられない。香穂子は気を取り直すと、いつも練習場所にしている山手の教会へと向かった。
 ここには小さな子供たちもいて、一緒に演奏をしたり、ヴァイオリンを聴いて貰ったりと、香穂子にとってはとても癒やされる場所だ。
 ヴァイオリンを片手に、香穂子は笑顔になって教会へと入っていった。
「みんな、こんにちは!」
 大きな声で挨拶をすると、遊んでいた子供たちが口々に「香穂子お姉ちゃんだ!」と言って、駈け寄ってくる。子供たちの顔を見ると、香穂子はストレスなど何処かへ行ってしまうのを感じた。
「お姉ちゃん、今日は、オズの魔法使いの曲を弾いてよ!」
「うん、良いよ」
 香穂子は明るく返事をすると、ヴァイオリンをケースから取り出し、深呼吸をしてから構える。
 子供たちのリクエストである『虹の彼方へ』を奏で始めた。子供たちの前だと、何の気負いもなくヴァイオリンを演奏することが出来る。
 大学で弾くよりものびのびと大らかにヴァイオリンを奏でることが出来た。
 余裕が出て子供たちの表情を見ると、本当に楽しそうに笑っているのが見える。明るくて屈託のない笑顔に、香穂子もつられて微笑んだ。
 素直に笑うことが出来るのはこの子たちのお陰だと、香穂子は心から思う。この教会でヴァイオリンを奏でるようになってから、香穂子のこころは更に豊かになっていっている。ここにいるときは、心が満ちて安定しているように思えた。
 『虹の彼方へ』を弾き終えると、子供たちの無邪気な喝采が聞こえる。香穂子はその歓声に、今日一番の笑顔を浮かべた。
「吉羅さんいつも有り難うございます。こんなにもご寄付を頂いて」
 神父は心から感謝をしているとばかりに、純粋な笑みを浮かべて、何度も頭を下げた。かなり日本語が流暢なフランス人神父は、何度も頭を下げる。彼の瞳は慈悲の溢れ、恐らくは純粋に教会のため、恵まれない子供たちのために使ってくれるだろう。
「ここには私の姉も眠っていますから…。お世話になっているほんの気持ちを表したに過ぎませんよ」
「そうでしたね…」
 しみじみと言いながら、神父はハーブティを啜った。何処か切ない気分になっているようだ。
 吉羅も、積み立てのハーブを煎じたハーブティを飲みながら、窓の外の様子を見つめる。
 ここは横浜であって、普段の横浜とは隔離された別世界のように思える。時間の流れが心地良くゆったりしていて、何故だか心地が良いのだ。
 吉羅は、普段目まぐるしいビジネスの世界にに身を置き、ファンドの運営、M&A、投資と、息を吐く暇もないビジネスマネーゲームのまっただ中にいる。心の疲れを感じたときは、穏やかな時間の流れを感じられるこの教会に来ることにしているのだ。
「窓を開けても構いませんか?」
「どうぞ」
 窓から緑の風を感じたくて、吉羅はポーチへと続く優美なフランスを開け放った。
 風と同時に、柔らかく本当に虹色なのではないかと思うようなヴァイオリンの音色が、ダイレクトに飛び込んできた。
 胸が締め付けられるほどに懐かしくも温かな音色に、吉羅は魂から惹かれるのを感じる。もっと近くでこの音色を聴きたい。吉羅は流れるように振り返ると、神父に確かめた。
「ジェラール神父、この音色は一体誰が?」
「ああ。このヴァイオリンの音色は、そこの星奏学院大学の音楽学部の生徒さんである日野香穂子さんのものですよ。うちは児童養護施設の併設していますから、いつも子供たちのために弾きに来てくれているんですよ…。本当に良い娘さんです。彼女は…。奨学金を受けながら、働いてヴァイオリンの勉強をしているのに、こうしてボランティアもしてくれているんですから…」
「星奏学院の日野香穂子…」
 吉羅はまるで呪文でも呟くように香穂子の名前を呟くと、ヴァイオリンが聞こえる方向へと足を向けた。
 ヴァイオリンの音色はどんどん大きくなり、吉羅の耳を心地良く満たしていく。これほどまでに心に語りかける温かな音色を聴いたのは、姉以来だ。姉のように豊かな感情を音色に乗せることが出来るヴァイオリニストがいるなんて、吉羅は思っても見なかった。
 オズの魔法使いのテーマで有名な『虹の彼方に』が、希望に満ちて虹色に輝いた音色で響いている。モノクロームの世界から総天然色の世界へと来た華やかさが表現されているようだ。
 吉羅が中庭に出ると、ヴァイオリンは丁度奏で終わり、子供たちの歓声が聞こえた。子供たちの純粋な心にも、この見事なまでに美しい音色が響いているのだろう。
 吉羅はゆっくりとヴァイオリニストに近付いていく。その姿を見た瞬間、音色以上に心が揺さぶられるのを感じた。一瞬にして脳裏に焼き付いてしまうほど、鮮烈な印象だ。
 柔らかでどこか豊饒な午後の光に照らされて、そのヴァイオリニストは無邪気に笑っていた。
 艶やかに光る赤い髪を揺らしながら、大きな瞳は太陽よりも純粋で明るい光を宿していた。一瞬、そこにいるのが人間ではなく、天使なのではないかと思ったほどだ。
 吉羅は魂が嵐に揺さぶられるのを感じながら、ゆっくりと赤毛のヴァイオリニストに近付いていく。まだ少女の面影を宿してはいたが、とても愛らしい女性だ。吉羅は赤毛のヴァイオリニストから目を離せないでいた。



Top