PIANO LESSON


 閉鎖した空間にいると、人間は少しずつ何かを狂わせる。  いや、何かが狂っていた俺が軌道修正されて、まともになっていたとしたら?
 音楽教室というのは、音楽教師と生徒が息がつまりそうな空間に閉じこめられ、ヒステリックな音楽を奏でる場所。全く、俺の趣味には反する場所だ。
 なのに、俺はここにいる。その訳は、俺自身が一番識っていること  
 無駄に元気で、溢れる力をまき散らすような大きな足音を勢いよく響かせながら、今日もやってくる。
 俺がここにいる理由  それはこの我が儘で勝ち気な足音ゆえ。
 だらりと長椅子に躰を預けて横になっていると、勢いよくドアが開けられた。
「レッスンに来ました! あ、また、ちも先生寝てるね!! 起きてよ、望美様が来たんだから!!」
 頭の上に飛び交う、やたらと張りがあり生命力が溢れる声に、ゆっくりと目を開けた。
「…五月蠅い…」
 低い声でわざと窘めるように言うと、望美は頬を膨らましてこちらを睨み付けてくる。
 全くガキ過ぎる。
 こんなガキに振り回されている自分が、どうかしているとすら思った。
 俺は長椅子の硬さに顔を顰めながら、ゆっくりと躰を起こすと、唇に煙草を押し込める。
「煙草は禁止」
 まるで質の悪い教育ママのような声でキッパリと言うと、望美は俺の唇から煙草を取り上げてしまった。
「お前をレッスンするには気付け薬がいる。…煙草を返せ」
 軽く睨みを効かせれば、普通の女なら怯んで降参する。だが、こいつにはそれが効かない。骨があるのか、それともただの強情なのかは分からないが。
「煙草は絶対にダメ! 百害あって一利なしだよっ!」
 煙草を持ったまま仁王立ちをして腕を組む姿は、なかなか様になる。こんなおかしな女はどこを探してもいない。
 最初は退屈凌ぎにでもなると思っていたが、それ以上に俺を楽しませてくれる。
「お前が取った煙草は…一本だけだ…。ここに沢山まだあるから…、一本ぐらい取られても…平気だがな…」
 俺が勝ち誇ったように、わざと喉をくつくつと鳴らして笑うと、望美の顔は仁王そのものになった。東大寺の南大門を守らせてやりたくなる。
 俺が煙草に火をつけて一服をしている間、望美はと言えば、眉間に皺を寄せて睨んでいる。
「…よせ…、そんな顔は…。皺くちゃだらけの顔になる…」
「皺くちゃになっても良いもんっ!責任取って貰うからねっ! ちもちゃんのバカ」
「…ここでは…先生だ…。バカ…」
 俺が余裕のある笑みを薄く浮かべると、望美は余計に不機嫌になってしまった。
「…俺が一本吸い終わるまでに…、レッスンの準備をしておけ…。今日からは新しい…やつだったな…」
「新しいのは、何をするか私が決めて良い? ちゃんと楽譜も持ってきたし…」
 余程やりたい曲だからか、望美は楽譜を入れた封筒をギュッと抱き締めている。
 望美はピアノを楽しむためにレッスンをしているから、ピアノ教師的には自ら楽譜を持ってくるのは好ましい。
「…たまにはやる気が起こるんだな…」
 俺がからかうように言うと、望美はムッとした感情をあからさまに表情に出した。
「いつもやる気はありますっ! ピアノ講師の腕が悪いから、いつも反抗的なんだよ!」
「…なるほどね…」
 俺は煙草を吸い終えると、どこかの酒屋の名前が書かれている灰皿に、押し付けて揉み消した。
「…座れ…」
「はい」
 今日の望美はやけにしおらしい。余程弾きたい曲なのだろうか。
「私には難しいかもしれないけれど、どうしても弾きたいんだ。だってロマンティックでしょ!?」
兇暴仮面の女子高生である望美も、やはり年頃の女ではあるらしい。その証拠に、甘い曲を弾きたがるし、聴きたがる。
 甘ったるい曲を弾いたり、聞いたりすると、正直俺は頭が痛くなる。どうして脳みそが痺れるような音楽が好きなのか、俺には全くもって理解できない。
「一度、お手本に弾いてみてよ」
「はい、はい」
 俺はまたロクデモない曲であると思いながら、望美から楽譜を受け取った。
 楽譜を受け取った瞬間、本当にロクデモない曲であることを知った。
 本当にこれ以上ロクデモない曲はないんじゃないかと思う。よりによって、リストの甘い曲“愛の夢”だなんて…。
 背中から嫌なものが湧いて来た。
「いつもちもちゃん先生、ご機嫌な時は鼻歌でこの曲を奏でてるでしょ? オニアクマな先生を楽しくロマンティックにさせる曲を、私は弾いてみたいなあって思っただけだよ」
 望美の話を聴いていると、目眩を覚える。正直言って、信じられない。
 鼻歌? この俺が? そんなことは有り得ないと思いながら、俺は楽譜に目を落とす。
 この曲に、ひとつも良い想い出なんてないのに。この曲は二度と弾こうとは思わなかったのに。
「だけど、先生のCDにはこの曲が入っていないんだよね。余程大切なものなのかなあって思って」
 いや違う。好きな曲ではなく、むしろ封印していた二度と弾きたくない曲だというのに、どうして鼻歌などを、無意識に歌ってしまっているのだろうか。
 この曲だけは無理だ。いくら望美の頼みでも弾いてはやれない。
 俺は鼓動が早くなるのを感じながら、目を閉じた。


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