花とふたりきりでいるだけで、最近、胸が苦しいぐらいに幸せになる。 こんな気持ちを抱かせた女性は初めてだった。 玄徳にとって、ここまで特別な感情を抱く相手は初めてだった。 今まで好きになった女はいたが、花ほど離したくないと思った相手はいない。 離したくないと思いながらも、花が幸福になるのだが、離しても構わないとすら思う。 愛する者の幸せを祈る。 ここまで無償に幸せを祈ることが出来る相手は、花が初めてだった。 「玄徳さん!」 元気で明るい声が聞こえて、思わず振り返る。 明るく走ってくる花がとても眩しく見える。 綺麗だと言っても良かった。 「…玄徳さんっ!」 花は大切そうに皿を持ってやってくる。 「暑いので、冷たいお菓子を作りました。いかがですか?」 最近、花は甘いお菓子をよく作ってくれる。 玄徳はそれが嬉しくて密かに楽しみにしている。 甘い菓子を花と一緒に食べる時間が、最高の息抜きになっている。 激務のせいか、この時間がオアシスだった。 「じゃあ休憩しながら食おうか?」 「はい」 花とふたりで、日陰の風通しの良い場所へと向かう。 ふたりでのんびりと木の椅子に腰掛けて、安らぎの時間を過ごすのだ。 花が作ってくれたのは、甘くて爽やかな夏向きの菓子だった。 「雲長さんに教わったんですよ」 「そうか」 雲長に菓子の作り方を教わるなんて、ほんの少しではあるが妬けてしまう。 玄徳はほんのりと甘い嫉妬を抱きながら、甘い菓子を頬張った。 「甘いものを食べると、疲れが取れますからね。しっかりと食べて下さいね」 「そうだな」 玄徳は頷きながら、甘い菓子を頬張った。 花はちょくちょくお菓子を作ってくれるようになった。 菓子ではなく、夜食も作ってくれている。 なかなか腕前で、玄徳の胃袋もすっかり気に入っていた。 花は良い妻になれると思う。 明るくて、素直で、元気で、だけど涙脆い。芯もしっかりしていて、まさに玄徳が理想としている女性だった。 最初は、行く宛のない花への憐れみが強かった。 だが、戦場に出す度に成長していく花を、玄徳は一人の女性として見るようになっていた。 最近では、花を見つめるだけで胸が苦しくなり、逢えないと息が出来なくなるのではないかと思うぐらいに、苦しくなる。 こんなことはいまだかつてないことだった。 花は、いつの間にか、玄徳が描く理想の女性になっていたのだ。 「なかなか美味い。有り難うな」 「いつもお世話になっていますから。それに今度は子供たちにこれを作ってあげますね。喜んでくれると嬉しいですが」 花が作ったお菓子ならば、子供たちは本当に喜ぶだろう。 子供たちは本当に花を慕っている。 花は、良い母親になるだろう。 そう思うと、玄徳は躰が熱くなるのを感じた。 花に自分の子供たちを産んで欲しい。 花ならば立派に子供たちを育ててくれるだろう。 花が次々に子供を産む姿をつい想像してしまい、玄徳はドキリとしてしまった。 自分以外の子供を産んで欲しくない。 玄徳は強くそう思う。 花が他の男の子供を産むなんて、そんな姿を見たい筈がなかった。 見たくない。 ただ、それだけだ。 花は自分のそばにいて、自分だけの妻でいて欲しい。 なのに。 花をいずれは元の世界に帰してやらなければならないのだ。 花は大切な預かりもの。 ずっとそう思ってきたのに、それを許すことが出来ない自分が、ここにいる。 玄徳はじっと花の横顔を見た。 無邪気なぐらいに愛らしくて、残酷なぐらいに綺麗だ。 この意味を解っているのだろうかと、花は思った。 「花」 「はい」 こちらを向く花を、思わず抱きすくめたくなる。 そしてこのまま、花を離さずにいられたら良いのにと強く思ったのは、言うまでもなかった。 真直ぐ見つめて、小首を傾げる花を見つめていると、胸の奥が苦しくなる。 これは明らかに恋だ。 じぶんでも認めざるをえない。 花に恋をしている。 離さなければならない相手に、いつか手が届かなくなる相手に、どうしてこんなにも溺れてしまうのだろうか。 手が届かなくなるから余計なのだろうか。 それとも…。 「子供たちにこれと同じお菓子を作ったら、玄徳さんにもまた持って行きますね」 「ああ。俺が毒味をしたから大丈夫だと、子供たちには言っておくよ」 玄徳がわざと意地悪に言うと、花はわざと拗ねたような表情をした。 「もう…」 本当に怒っていないのは、玄徳には解っていた。 だからこそ軽口を叩けるのだ。 「これからも色々とお菓子を作っていくので、また味見をして下さいね」 「毒味の間違いだろう?」 「もうっ! 玄徳さんは意地悪です」 花は小さな子供のように頬を膨らませている。それがまた可愛かった。 「はは。お前が作るものなら、何でも美味いさ。また、楽しみにしているから」 「有り難う…」 花はほんのりと頬を紅に染め上げると、玄徳にはにかんだ笑みを向ける。 なんて愛らしいのだろうかと、玄徳は思わずにはいられなかった。 「玄徳さんに、沢山、毒味をしてもらいますから、覚悟しておいて下さいね」 「ああ。覚悟している。薬湯を用意してな?」 「もうー」 玄徳は、こうして花と軽口を言い合う時間が楽しく思える。 だが、それも間も無く消え去るかもしれない。 玄徳は息苦しさすら感じた。 仲謀からの申し出。 同盟を盤石なものにするために、妹を差し出すという。 受けいらざるをえない。 解っている。 民を守るため。 そして軍を守るためだ。 平和を何よりも愛する花ならば、そこは理解してくれるだろう。 だが、一番理解していないのは玄徳自身の心なのかもしれないと思った。 上手く理解することなんて、到底、不可能なのではないかと思う。 「玄徳さん…?」 花が心配そうにこちらを見つめている。 花にそんな顔をさせられない。 「大丈夫だ。花」 玄徳は、花の頭を軽く撫でた。 「玄徳様」 孔明が呼びに来る。 解っている。 孫尚香との婚儀の件だろう。 「直ぐに行く」 「かしこまりました」 孔明が行くと、玄徳は立ち上がる。 「花、また今度な」 「はい」 花を置いて離れるのがしのびない。 しかも話す話題が、政略結婚についてだなんて、始末が悪い。 玄徳は溜め息を吐きたくなった。 孔明とふたりで執務室に入り、玄徳は真摯な表情になる。 「…玄徳様、軍師として進言します。仲謀殿からの申し出ですが、受けて頂いたほうが良いかと思います。罠の可能性がありますが、その場合は仲謀軍に貸しを作ることが出来ます」 孔明は冷静に言った後、少しだけ目を伏せた。 「私…個人的な意見であれば…、受けて頂きたくはないのですけれが…。…あの素直な子の為に…」 「…解っている…」 孔明の言うことは胸が張り裂けてしまうほどに解る。 それゆえに玄徳は決断が出来ない。 だが、花はいずれは帰さなければならないのだ。 だからこそ、仲謀からの申し出を受けたほうが良いと思う。 だが踏ん切りがつかなかった。 「花は…、わがままを言う子ではありませんから、恐らくは、受け入れるでしょうね。玄徳様の縁談を」 「…花が了承するのなら、受け入れる…」 それなら玄徳も受け入れることが出来る。 「軍議に諮る。花も呼んでくれ」 「かしこまりました」 孔明は素早く軍議を召集する。 花が泣いて嫌がるなら受け入れない。 だが、受け入れるのならば…。 玄徳は恋のゆくえを運命に託した。 |