愛しているからこそ、身を引こうと決めた。 そこには迷いなんてない。 幸せになってくれさえしたら、花はそれで良かった。 最近、以前にも増して芙蓉姫が一緒に過ごしてくれる。 それが嬉しい。 同時に、かつて生まれた世界で友人と過ごした時のような気分になれて、花は楽しかった。 「花、孔明様が後で来るようにって。漢字の勉強の時間を設けたからって」 玄徳のことを想って溜め息が出ないようにと、孔明は沢山の仕事を与えてくれ、同時に様々な修業をさせてくれた。 それはとても有り難いと思っている。 そのお陰でラストスパートをかけることが出来たのだから。 後はもう笑顔でこの世界を去ること。 花に残された仕事はそれだけなのだ。 漢字の勉強をする必要はもうないのだ。 だから師匠がお膳立てをしてくれたとしても、花はもう勉強する資格がないと思っていた。 「有り難う。だけど…」 花は自分には資格がないと言いかけて黙り込む。 確かに資格はもうない。 だが、それを芙蓉姫に言えやしない。 勘づかれないようにして、最後は笑顔で去らなければならない。 「そうだね。うん、師匠のところに行くよ。有り難う」 花が努めて明るく言うと、痛々しく思ったのか、芙蓉姫は、心配そうに見つめてくる。 「…花…」 「有り難う。師匠のところに行ってくるね」 「解った。しっかりね」 芙蓉姫は切なそうな笑顔を浮かべた後、花を送り出してくれた。 芙蓉が花の部屋から出て来たのを見つけて、玄徳は声を掛けた。 少しでも良いから花のことが知りたかった。 花が帰るそぶりを少しでも見せないか。それだけが心配だったのだ。 「芙蓉、少し良いか?」 「はい、何でしょうか。玄徳様」 「花のことなんだが…」 「相変わらずですよ。静かにしています。孔明殿のところに行きました」 芙蓉は淡々と言う。 芙蓉はいつも通りに玄徳に接してくれてはいるが、尚香と婚儀を挙げてからというもの、何処かよそよそしい。 だが、それ以上に花は玄徳に近付いて来なくなった。 「…そうか…。何処か気になることはなかったか?」 玄徳は少しでも花が何処か遠くへ行ってしまう素振りを見せたら、それこそ耐えられないと思った。 その兆候があるのであれば、把握しておきたい。 把握してどうなるわけではないが、花を遠回しで引き止める手立てがあるか考えたかった。 「…花は…、何処か…、その、おかしなところはなかったか?」 「花が玄徳様を裏切ることは有り得ません。そういう意味では皆無ですが」 芙蓉が刺々しく言うのは解っている。 「…花は裏切る筈はない…。それは一番俺が解っている…」 花の裏切りがあるとすれば、それは敵に寝返るだとか、そういうものではなくて、元の世界に黙って帰ってしまう。 それだ。 「…玄徳様…」 芙蓉は玄徳の苦しい気持ちに気付いたかのか、溜め息を吐いて、少しだけ軟化した表情を浮かべた。 「…玄徳様…、花は…、時々とても遠い目をするんです…。こちらが泣きたくなるぐらいに遠い目をします。…あの娘は…ひょっとして近々、うちの軍を出て行ってしまうのではないかと…、そんな風に思います…。何処か寂しそうに笑って、名残惜しむように私を見つめたり…」 「…そうか…」 花は近日中に帰る決意を固めたのだろう。 手の届かないところに行ってしまうのだ。 玄徳が気狂いのように探しても、最早、探すことが出来なくなることを。 出会った時から本当は解っていた。 とうの昔から解っていたのだ。 いつか花が手の届かない場所に行ってしまうことを。 「…有り難う…、芙蓉…」 玄徳は、芙蓉に礼を言うと踵を返す。 「玄徳様!」 名前を呼ばれて、玄徳は思わず振り返る。 「…花を引き止めることが出来るのは…玄徳様だけですから。玄徳様次第で、あの娘は何処にも行きません」 芙蓉は力強くキッパリと言う。 玄徳は有り難いとは思った。 だが、今の自分には、花を止める術など持ち合わせていないように思えた。 花は孔明から漢字を習いながらも、何処か身が入らなかった。 もう必要ない。 それがよく解っていたからだ。 「花、今日は全く身が入らないね。どうしたの?」 孔明が呆れ返るように言うと、溜め息を吐いた。 「…ごめんなさい…」 「もう漢字なんて必要ないからどうでも良い…。なんて思ってはいない?」 図星を指摘されて、花はどう答えて良いのかが分からなかった。 流石は師匠だ。 指摘が鋭い。 花の気持ちなどはお見通しなのだろう。 「…自分の役割は終わった…。なんて思ってはいない?」 鋭く指摘をされて、花は瞳を伏せた。 「君の役割はまだ終わってはいないよ。確かに争い事は今のところ一段落した。だが、これから玄徳様の地盤を固めるためにはやることは山程ある。君にもね。君にはまだまだ働いて貰わないとね」 孔明はニヤリと笑ったが、花は頷くことは出来なかった。 確 かに師匠をサポートすることは沢山あるのには間違いない。 だ が、玄徳と尚香に子供が出来て、ふたりが仲睦まじく暮らしているのを、そばで見て支えることは到底出来ない。 「…師匠…」 きちんと返事が出来なくて、花が泣きそうになっていると、孔明は慈しみのある笑顔を花に向けた。 「…花…。今は時期尚早だから、帰ることは考えないほうが良い…。後少し、後少しだけ待てば、君にとって幸いが起きる筈だ。だから今はやるべきことをやりなさい」 孔明は、まるで妹にでも言い聞かせるように、花に言うと、頭を撫でてくれた。 恐らくは、玄徳の代わりにしてくれているのだろう。 こうして慰めてくれるのが嬉しかった。 「…有り難うございます…」 「花、今日はゆっくりとおやすみ。また、明日」 「はい」 孔明に見送られて、花は素直に頷く。 「有り難うございました」 花が礼を言った後で、部屋から出ようとすると、玄徳にばったりと出会った。 「…玄徳さん…。こ、こんにちは」 「ああ。仕事、しっかりやれよ」 玄徳はよそよそしく挨拶をする。 花はそこまで嫌われているのかと思いショックだった。 邪魔なのだろう。 ならば、消えるだけだ。 「失礼します」 「ああ」 花はその場にいられなくて足早に去る。 後から涙が滲んで来るのを止めることが出来なかった。 玄徳は孔明の部屋に入ると、花の様子を訊くことにした。 「…孔明、花だが…」 「仕事のことよりもいきなり花の話題ですか?」 孔明は苦笑いを浮かべながら、玄徳を見た。 「このままではあの娘は帰るでしょうね。元の世界へ」 キッパリと孔明に言い切られてしまい、玄徳は胸を剣で突かれた気分だった。 「…偽の尚香殿との決着を着けて、花を安心させてやれば、帰ることはないでしょう。長引くようであれば、花を第二夫人として娶る…。嫌な言い方かもしれませんが、子供でつなぎ止める。…それか花を玄徳軍の他の男と結婚させる…か…。玄徳様がとても我慢が出来る方法ではないと思いますが…」 孔明はやはり軍師らしく冷静かつ現実的に進言をしてくる。 花が誰か他の男のものになりその子供を産む。 そんなことは耐えられない。 表情に出たのか、孔明は薄く笑う。 「…では偽者をどうにかすることを考えましょう…。我慢の限界でしょうからね」 「そうだな」 玄徳は時間がないことを承知しながら頷く。 花を引き止めるためならば何でも出来ると思った。 |