*Mother*


 この世界では、花は文字通りひとりなのだ。

 だからこそ、花をいつも守って気遣ってやりたい。

 総てを捨ててまでも、公瑾を選んでくれたのだから。

 まだまだ悪阻の時期が抜けないせいか、花は時折、気分が悪そうにする。

 病気ではないからと、花は気丈にも笑顔で過ごしているものの、公瑾は心配でならなかった。

 性格上、つい冷たくしてしまうこともあるが、花はそれが愛情の裏返しであるということを、充分に解ってくれている。

 だからこそ、花だけには素直な気持ちを出す事が出来た。

 花には公瑾しか本当の意味での家族はいないのだから。

 甘えて欲しい。

 頼って欲しい。

 公瑾は心から思う。

 無理をしなくても良いから。

 総てを預けて欲しかった。

 

 花は今日も悪阻の合間に漢字を勉強する為の教室に来ていた。

 花の悪阻の様子を見た女官は、男の子ではないかと言っている。

 公瑾もその話を聞いて嬉しかった。

 だが、本当のところは、健康であれば男でも女でもどちらでも良かった。

 花が勉強に来ているのは、城の一角にある老教授のところだ。

 花は勉強が終わると、公瑾の執務室にやってくる。

 公瑾が仕事をしている間、その隅で復習をしたりしているのだ。

 今日ももうすぐやってくる。

 公瑾にはそれが楽しみでしょうがないのだ。

 愛する妻がそばにいる。

 それだけで本当に幸せな気分になれるのだ。

 花が直ぐそばにいるだけで、公瑾は幸せでしかたがなくなり、仕事が捗るのだ。

 今日はお腹の子供にも良い果物を用意している。

 お茶は妊娠していても構わないものを用意していた。

 扉が叩かれる。

 花だ。

 賑やかな叩き方をするから、公瑾には直ぐに分かるのだ。

「公瑾さん、花です」

「直ぐに開けますよ」

 公瑾は、部下の手前、いつも冷静を装う。

 だが、本当は花に逢えるだけで嬉しいのだ。

「入って下さい」

「はい」

 花は頬を紅潮させてとても健康そうだ。

 その顔を見ているだけで、本当に幸せな気持ちになる。

「今日の勉強は如何ですか?」

「少しは進んだとは思いますが、なかなか…」

 花が苦笑いを浮かべたところを見ると、余り芳しくない結果だったのだろう。

 公瑾はしょうがないと思いながら、苦笑いを浮かべた。

「…きちんと復習はなさって下さいね」

「分りました。お母さんが文字が読めないのは困りますからね」

 花は頑張ろうと意気込むように言うと、執務室の端の机に荷物を置く。

 いつの間にかそこが花の定位置になった。

「花、お茶の用意が出来ましたよ。復習は、少し休憩してから始めると良いですから」

「有り難うございます」

 花が勉強に来る日のお楽しみが、このお茶の時間だ。

 公瑾にとっては、厳しく忙しい執務の中の息抜きと言っても良かった。

「美味しい果物が手に入りましたので、召し上がって下さいね」

「有り難うございます。酸っぱいものが食べたかったので有り難いです」

 花は笑顔で言うと、床に腰を下ろした。

「酸っぱいもの?」

「お母さんが弟を妊娠した時も酸っぱいものが欲しいって言っていましたし」

 花は遠い昔を思い出すかのように言う。そのまなざしはとても優しいものではあるが、何処か寂しそうにも見えた。

 元の世界が恋しいと思っているのだろうか。

 それだったらそれで公瑾もまた苦しくなる。

 花が切ない想いを抱いているのが堪らなかったから。

「親子なんでしょうね、こんなところは」

 花は優しい笑みを浮かべると、果実を美味しそうに食べた。

「公瑾さん、本当にこの果物、美味しいです」

「それは良かったです」

 花の笑顔を見つめながらも、公瑾は胸が痛くなる。

 花が帰りたいと思っているのではないだろうか。

 それを考えるだけで、公瑾は息苦しい気分になった。

 ずっとそばにいて欲しい。

 花と共に一生を終えたい。

 だから何処にも行かないで欲しい。

 そればかりを思い詰めたように公瑾は考えていた。

「…花、また手に入ったら一緒に果実を食べましょう」

「はい。嬉しいです」

 花の眩しい笑顔を見ていると、ほんの少しだけホッとした。

 

 お茶の後、公瑾は仕事に戻り、花はそれを待つ為に、隅にちょこんと座った。

 いつもならば勉強の復習に使うのだが、今日は編み物を始めた。

「花、どうして編み物を?」

「あ…。赤ちゃんが身に着けるものを少しでも自分で作りたくて…。玄徳さんのところにいた時に、作り方を教えて貰ったんです。見よう見まねですけれどね」

 玄徳に教えて貰った。

 それが公瑾の神経に障る。

 花は自分を愛してくれているのは解っている。

 だが、つい玄徳には嫉妬してしまう。

 花と最初に出会ったのが自分であったならと思わずにはいられない。

「あなたは随分と玄徳殿を慕っていらっしゃるんですね…」

「最初に助けて下さった方ですから。懐かしいお兄ちゃんです」

「…そうですか…」

 花は、玄徳に対しては純粋に兄のように思っているのは解っている。

 だが、つい嫉妬をしてしまうのだ。

 それを止める事が出来ない自分がここにいる。

「玄徳殿は大層、編み物がお上手のようですね…」

 つい厭味のように言うと、花はくすりと笑った。

 嫉妬しているのがバレているのだろう。

 花は柔らかく笑う。

「そうですねお上手でした。赤ちゃんのものを作るのに役立っていますよ」

 花はあくまで懐しそう兄のように言う。

「だけど赤ちゃんが一番喜ぶのは、お父様の琵琶の音色ですよ」

 花は幸せが満ち溢れたように呟いた。

「そんなに気に入っているのですか?」

 公瑾は自分が必要とされているのが嬉しくて、ついフッと微笑んでしまう。

「何だかとても嬉しく思います」

 公瑾は静かに言うと、花のお腹に触れた。

「まだそんなに大きくないですけれど、確実にお父様を感じていると思います」

「…それは嬉しいです」

 公瑾は、まだ感じられないが、確実にお腹にいるわが子にそっと心の中で話し掛ける。

 良い父になれるように精一杯頑張ることを誓う。

 背中を見て育って貰えるように、父として男として更に頑張っていかなければならない。

 公瑾は、子供に、一緒に成長しようと語りかけた。

「仕事に戻ります。時間が惜しいので」

 言葉はつい厳しくなるが、花に送るまなざしは温かくて柔らかくなる。

  公瑾が再び仕事を始めると、花も編み物を始めた。

 静かだ。

 いつもよりも花が大きな存在に感じて、つい見てしまう。

 花は時折、優しく寂しそうなまなざしを窓の外に向ける。

 母親を思い出しているのだろう。

 公瑾はそのまなざしの色を消したくなるぐらいに切なくなり、つい花を抱き締めにいった。

 突然の抱擁に花は驚いたようだった。

「…寂しくないですか…?」

 公瑾は抱き締めながら呟く。

 寂しくて何処かに行かないように、引き止められるようにと、しっかりと抱き締めた。

「…寂しくありませんよ…。寂しくなりそうになったら、公瑾さんが気付いてくれて、いつもこうして抱き締めて下さいますから…。それに今は子供も一緒ですから、大丈夫です」

 花は落ち着きと明るさを滲ませながら、キッパリと言い切る。

 それが公瑾には何よりも嬉しい事だった。

「…有り難う…。いつも私が慰めているつもりで、あなたに慰められていますね…」

 公瑾は柔らかく言うと、花の総てを守り、また守られるように抱き締める。

 ずっとこうして支え合えれば良いと思う。

 お互いの愛があればそれが出来るのだから。

 



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