安心して眠れる腕を、花はようやく手に入れた。 こうして毎晩、公瑾の腕の中で安心しきって眠っている。 公瑾も同じようで、花を抱き締めて眠っている間は、本当に安心しきって眠っているようだ。 今までは浅い眠りしか出来なかったというのを聞くと、それだけ安らぎを与えられているのが嬉しかった。 だから朝になると、いつも名残惜しくなる。 もう少しだけ、もう少しだけで良いから、抱き合って眠っていたいと。 だが。お互いに仕事をしっかりとしなければならない。 かたや呉の大都督であり、かたやそれを支える軍師なのだから。 とはいえ。花は都督の妻でもあるから、それ以上の役割というのがあるのだが。 朝日が部屋に差し込んで来て、柔らかな朝が始まったことを、花と公瑾に告げている。 都督とその妻は、何時までも一緒にうとうとしているわけにはいかないのだ。 起きなければならない。 以前よりは軍事的な緊張が少なくなり、平和に近い状態ではあるのだが、やはり軍を預かる都督としては、緊張を抜けないのは確かだ。 「起きなければなりませんね。城で朝議がありますから」 公瑾は、もう少しこうしていたいという気持ちを滲ませて、花に呟く。 花も同じ気持ちなのだ。 後、少しで良いから、公瑾のそばにいたいというのは。 「起きなければなりませんね…」 花は口ではそう言いながらも、なかなか公瑾の腕の中から起き上がることが出来ない。 この腕が世界で一番心地が良いものであることを、充分なほどに解っているからだ。 「…起きなければ…」 公瑾は掠れた声で呟きながらも。花に脚を絡ませてくる。 こうして脚が絡んでいる間は、起きられるものではない。 それを公瑾は解っているのか、余計に脚を絡ませてくる。 「公瑾さん、起きないと」 「ええ、解ってはいますよ。だけど花、あなたも起きなければならないのではないですか? 毎朝、見送って下さっていますから…」 公瑾は、起きられないのがまるで花のせいであるかのように言うと、更に抱き締めてくる。 この状況だと、起きるどころか、全く動くことも出来ないのだが。 それを解っているのか、花は公瑾が楽しんでいるとしか思えない。 花が困った表情をするのを、楽しそうにすることもあるのだから。「公瑾さんが離して下さらないと、起きられないのですが…」 花がおずおずと言うと、公瑾は心外だとばかりに眉を上げた。 「…あなたが可愛くて魅力的なのがいけないんですよ。あなたは本当にいけない女性です…」 「え?」 何もしていないというのに、公瑾は花に責任を擦り付ける。理由が理由なだけに嫌ではないのだが、公瑾らしいと思う。 「遅刻をしてしまうと、また、仲謀さんに怒られてしまいますよ」 花が窘めるように言うと、公瑾は困ったような顔をした。 「それは…少し困りますね…。仲謀様はおろか、城のひとたちにからかわれるのは、私としては心外ですから…」 「公瑾さん、ですから起きましょうよ」 「そうですね…。このままじっとしていたいというのが本音ではありますが、ここは潔く起きたほうが懸命だということですからね」 「はい…。今度のお休みの日には、ゆっくりとしましょう」 「そうですね…」 公瑾は頷くと、花をギュッと抱き締めて、躰のラインを撫で付けてくる。 「こ、公瑾さんっ!? 先ほど私が言ったことを訊いていらっしゃいましたかっ!?」 抱擁が甘く激しくなるのを焦りながら、花が言っても、公瑾は抱擁を解いてはくれない。 むしろキツくなる。 「解っていますよ…。充分に…。ですが、充分過ぎるぐらいに時間はありますからね、ギリギリまであなたを堪能したいと思っています。そうすれば仕事も頑張ることが出来ますからね」 ここまで言われてしまうと、花としてもこれ以上は言う事が出来ない。 しかも、公瑾は花の躰をまさぐりながら、唇を近付けてくる。 「…公瑾さん、そんなことをしていたら、本当に時間がなくなってしまいますよっ」 焦る花を、公瑾はお構いなしとばかりに唇を近付ける。 「…大丈夫ですよ、花。私を信じて…」 「…あ…」 公瑾の美声で囁かれると、花はこれ以上の抵抗をすることが出来なくなる。 公瑾の甘い囁きは、それぐらいに威力があるのだ。 「…公瑾さん…」 「あなたは黙って…」 公瑾は、花を黙らせるかのように、唇を塞いでくる。 このまま目眩く甘い感覚に支配されて、花は公瑾を受け入れる。 もう怒ることすら、忘れてしまっていた。 「いってらっしゃいませ、公瑾さん」 花は都督府の玄関先で、公瑾を見送る。 今朝は公瑾にしてやられた。 愛し合ってもギリギリ、参内には間に合うのだ。 まだ鈍い快感に支配されて、気怠い気分だ。 そそくさと気分を切り換えられた公瑾とは違って、花はなかなか気分を切り換えることが出来なかった。 公瑾を見送った後、直ぐに仕事をするには、気分転換が必要だった。 愛するひとと抱き合って、愛を確かめ合う行為というのは、全く問題はない。 だが、なかなか切り替えが出来ないのが悩みだ。 花は、仕事の効率を上げる為だとあえて言い訳をして、都督府の庭を散歩することに決めた。 都督府の庭は、まるで水墨画のように澄み渡った美しさがある。 花はこの庭を見つめているだけで、不思議と落ち着いた気分になる。 この庭を散歩しながら深呼吸をすると、花は癒されてゆくのだ。 公瑾は朝議が終わると、軍の鍛錬に行く。 花はその間、溜まった書類の処理をするのだ。 本当は、花は仕事をしなくても構わないのだが、少しでも公瑾の手助けをしたくて、こうして仕事を手伝っているのだ。 手伝うと言っても、まだ完全に漢字をマスターしたわけではない花の出来ることは、限られてはいるのだが。 花は散歩をして気分転換を終えると、気持ち良く仕事に向かうことが出来た。 自分で出来る部分だけ、花は仕事をする。 こうしておけば、公瑾の激務を少しは楽にしてあげられるからだ。 愛するひとの為になりたい。 愛するひとの役に立ちたい。 その気持ちがここまでやる気をくれるのだ。 「旦那様がお帰りになられましたよ!」 都督府の筆頭使用人の声が響き、花は慌てて公瑾の元に向かった。 毎日、出迎えをしたいと花は思っているのだ。 花にとっては、こうして公瑾を迎えることが出来るのが、何よりもの喜びだった。 「おかえりなさい、公瑾さん!」 花が笑顔で声を掛けると、公瑾は落ち着いた笑みを浮かべた。 「ただいま、花。早速ですが、少しやらなければならない仕事がございます。手伝って頂けますか?」 「はい、勿論、喜んで!」 花の笑顔に公瑾は頷くと、ふたりで執務室へて向かった。 軍の演習から帰って来たばかりだから、花はせめてお茶だけでもゆっくりと飲んで欲しいと、茶葉を囲炉裏で焙る。 これぐらいしか出来ないから。 こちらの世界の仕来たりに則って、お茶を淹れる。こうすると不思議と落ち着くのだ。 「公瑾さん、お茶ですよ。どうぞ」 「有り難う」 公瑾が穏やかな笑顔をくれるだけで、花は嬉しくなる。 「では、仕事を始めましょうか」 「はい」 花は公瑾と向かい合うと、仕事を始める。 ふたりでお茶を飲みながら、仕事をする。 これがなんて幸せな事なのだろうかと、花は思う。 ふたりで同じものを目指して生きる。 これ以上に嬉しいことはないと、花は思わずにはいられなかった。
|