この時空で生きていくことを決めた。 花が住んでいた時代よりも、千年以上も前の時代と似ている時空。 ただの過去でないことは解っている。 花が学校で習った歴史や、映画で見た同じ時代を扱ったものとは、明らかに違う。 偉人の名前も似てはいるけれども、違う。 ここは、花が生きていた場所の単純な過去ではない。 今や真新しい時間だ。 新しくここでやっていこう。 そう思える時間を沢山作ることが出来るのだ。 ようやくこの時空の装束にも慣れつつある。 軍師をしている頃は、制服の上に羽織りを着ていたけれども、今は都督夫人として相応しいスタイルにはなっている。 くすぐったいけれども。 公瑾の机の上に、書簡が無造作に置かれてある。 「忘れ物かな…?」 きちんとしている公瑾に限ってはそれはないとは思うが、今朝も“幸せ寝坊”をしたので有り得るのかもしれない。 書簡を見ても、漢字だらけで上手く意味を読み取ることが出来ない。 ある程度はなんとなく分かるような気がするが、それも怪しい。 「公瑾さん、書簡がないと困るかもしれないよね…」 花は奮起して、書簡を持って行くことにした。 それに、仕事をしている公瑾に久し振りに逢いたかったのもある。 「奥方様、どちらへ?」 邸の使用人に呼び止められて、花はにっこりと笑う。 「公瑾さんが忘れ物をしたようなので届けに」 「それならば私どもが」 「大丈夫だよ。私が行きたいの」 「奥方様自ら向かわれたら、公瑾様が何と申されるか…」 使用人が困惑しながら花を見つめている。 「私からちゃんというから大丈夫だよ」 「ええ…。奥方様からおっしゃって下さいましたらそれはもう百人力なんですが、公瑾様が奥方様をかなり大事にされていますので、ご心配あそばすかと」 「どうしても届けたいの。それに公瑾さんにも逢いたいし…」 花が頬を染め上げながら言うと、使用人は溜め息を吐いた。 負けたということだろうか。 「本当に仲がよろしいですね」 何処か羨望の笑みを浮かべると、使用人は大きく頷いてくれた。 「分りました」 「有り難う。じゃあ行ってきますね」 花は嬉しくてそのまま屋敷を飛び出す。 すると使用人は飛び上がるぐらいに驚いた。 「奥方様! 供の者をつけさせます!」 「大丈夫だよ!」 慌てる使用人を尻目に、花は公瑾の元に向かった。 公瑾のところに行くのは馴れているから、一人でも大丈夫だ。 結婚するまでは、そうしていたのだから。 花は久し振りに公瑾の仕事をする姿が見られると思い、華やいだ気持ちで執務室へと向かう。 警備の者も花のことはよく解っているから、直ぐに通してくれた。 ここには電話なんて便利なものはないから、使用人から連絡を受けた公瑾が怒って花を探すことはない。 驚かすにはちょうど良いかもしれないが。 花が城の廊下を歩いていると、誰もが一礼してくれる。 花もまた笑顔で一礼をした。 花はようやく公瑾の執務室にたどり着くと、つい笑顔になった。 この扉の向こうには、大好きな公瑾がいる。 つい幸せ過ぎてにんまりとしてしまう。 初めてこの部屋に訪れた時は、本当に緊張していた。 第一印象は穏やかな笑みを絶さないひとだったのに、知れば知る程、その笑みが消え去り、いつも怒らせてばかりいた。かなり苛々していた。 あの頃は、自分だけが嫌われているとばかり思っていた。 だが本当は、あの穏やかな笑顔と優しさこそが、仮面だと気が付いた。 いつも穏やかで笑顔を絶さないひとは、本当の素直な自分を見せないのだということを、公瑾に教えられた。 笑顔と優しさはただの仮面。 それは相手に本音を悟られないためだ。 公瑾はそうだった。 相手に深入りしたくないから、本当の自分を見せたくはないから。 だからこそ、誰にでも優しくて笑顔だった。 花には、冷たくて意地悪で怒ってばかりだった公瑾が、本当の素直さを出してくれていることに気付いたのは、お互いに愛し合っていると解った時だった。 そんなことを思い出しながら、花はくすりと笑った。 花は深呼吸をすると、執務室の扉を叩く。 「公瑾さん、花です」 「…花…!?」 扉の向こう側から驚いたような溜め息が聞こえると、扉が開いた。 こめかみ付近の血管が浮き出ている。 「…花、どうかしましたか…?」 公瑾は呆れたように溜め息を吐くと、真直ぐ花を見つめる。 「供の者は?」 「ひとりで来ました」 公瑾は更に呆れ果てたとばかりに、深い溜め息を吐いた。 まなざしを見ると明らかに怒ってしまっている。 「…あなたは自分の立場がお分かりですか? 都督夫人なんです。何か起こってからでは遅いんですよ」 公瑾は本当に心配そうに花を見つめている。 心配してくれているからこそ、こんなにも切ないまなざしを向けてくれているのだ。 「…ごめんなさい…。ただ、公瑾さんに、忘れ物を届けに来たかったんです…」 「忘れ物?」 公瑾は身に覚えはないとばかりに小首を傾げた。 「とにかく、執務室に入って下さい」 「はい」 花は素直に執務室に入る。 執務室の中に入ると、公瑾がギュッと手を握り締めてきた。 「花、私は忘れ物をしてきた覚えはありません」 公瑾の声はとても甘くて、花を非難しているようには少しも見えなかった。 「…じゃあこれはお忘れものではないんですね」 花が差し出すと、公瑾は書簡に視線を落とした。 「ああ、これは忘れ物ではないですよ」 「…そうですか…」 花はしょんぼりとうなだれる。 「…やはり、漢字はきちんと読めるようにならなければなりませんね…」 それが分かれば、公瑾を煩わせることなどなかったのに。 花は書簡を受け取ると、公瑾を見た。 「ごめんなさい…。帰りますね」 「待って下さい、花。お茶でも飲んで行かれたらいかがですか? 私もお茶を飲んで休憩をしようと思っていたところですから」 公瑾のさり気ない優しさに、花は一気に笑顔の花を咲かせた。 「お茶を飲んだ後、邸まで送りましょう」 「大丈夫ですよ。ひとりで帰られますから…」 「駄目です。何があるか分からないですから」 「公瑾さん…」 先ほどまで怒っていた公瑾の表情が、甘く和らいだ。 「ではお茶を飲みましょうか」 「はい」 公瑾はしっかりと手を繋いだまま、来客用のテーブルに、花をエスコートしてくれた。 のんびりとお茶を飲んでいると、公瑾も穏やかな表情になる。 「公瑾さん、お時間を取らせてしまいました。ごめんなさい…」 「気分転換に良いですからね。仕事がより効率良く出来るから構わないです。そうだ花、美味しそうな胡麻団子を頂いたから一緒に食べましょう」 「ホントに!」 花が満面の笑みを浮かべると、公瑾は誰にも見せない本当に優しい笑みを浮かべてくれた。 「どうぞ」 「頂きます」 花は大好きな胡麻団子を頬張ると、幸せな気分で笑みを浮かべる。 公瑾もまた目を細めて笑みを浮かべた。 「花」 「はい」 「唇にあんこがついていますよ」 「えっ!?」 花が慌てふためいていると、公瑾はゆっくりと顔を近付いてくる。 公瑾の唇が近付いて、花の唇に触れる。 舌で唇をなぞられて、胸の奥が甘く疼いた。 「甘いですね」 公瑾にくすりと笑われて、花は恥ずかしくて俯く。 「…花、来て下さって有り難うございます。嬉しかったですよ」 「はい…」 優しい公瑾のまなざしと声に、花は思わず笑みを浮かべる。 愛するひととのとっておきのティータイムは、昼下がりの贅沢だと思った。
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