随分と遠い世界に来たのだ。 もう後戻りすることは出来ない。 孟徳の腕に抱かれて寝台に横たわりながら、花はふと胸を締め付けられるような感覚に襲われる。 愛するひとと同じ世界に生きると決めた。 そのことは後悔なんか微塵もしていない。 だが、時折、残してきた家族や友人のことを思い出してしまい、花は苦しくなる。 特に夜はそう感じてしまうのだ。 所謂、ホームシックだ。 だが、もう生まれ育った時空には帰らないと決めた。 帰る場所なんて、今の花にはない。 あるとすれば、毎晩、花を優しく包み込んでくれている孟徳の腕の中だけだ。 なのに、家族や友人のことを思い出してしまうことがある。 静かな夜に、ひとり、目が冴えてしまう。 ふと寝台の向こうにある窓の向こう側輝く月が見える。 澄み渡る黄色の月は、うっとりするぐらいに美しくて、花は思わず魅入られた。 家族や友達も同じ月を見ているのだろうか。 時空は違ってしまっても、同じものを見ている。 きっとそうだ。 そう思うと、もっと身近で月を眺めたくなった。 花はこっそりと寝台を抜け出すと窓辺に向かう。 今宵は月をもう少し近くで眺めていたい。 孟徳のように麗しくて、明るい美しさを持っていると花は思った。 花は月と孟徳の姿を重ね合わせて、ただ見つめていた。 心地好いまどろみに、孟徳はのんびりとしてしまう。 今まで、こんなにも安らぎを感じて眠ったことはないかもしれない。 それほどまでに、温かで幸せな気持ちを抱かせてくれる眠りのひと時だ。 孟徳が僅かに寝返りを打つと、隣には誰もいなかった。 柔らかいまどろみを突然奪われてしまい、孟徳は飛び上がった。 目覚めが悪い。 花は一体何処に行ってしまったのだというのだろうか。 不安が過ぎる。 まさか帰ってしまったとか。 それを考えるだけで、孟徳はおかしくなりそうになる。 直ぐに起きると、孟徳は羽織りを着て、寝台から下りた。 まだ大丈夫だ。 花はそれほど遠くには行ってはいないだろう。 目を凝らせば、花が窓辺に佇んでいるのが見えた。 月明りに照らされた花は、余りに優しく、余りに美しい。 孟徳はその美しさに魅入られてしまう。 丞相という立場から、美女には随分と出会った。 花よりももっと美しい女性は沢山いた。 それでも孟徳は、花が一番美しいと思った。 総てが細部まで美しいのは、花だけだ。 花以上に美しい女性は他にいない。 孟徳は花の姿をじっくりと見つめた。 今夜の花は、いつもよりもかなり美しいと言っても過言ではない。 何処か寂しさすら湛えた横顔は、透明感があって美しい。 孟徳はドキリとする。 ひょっとして、花は寂しいのではないだろうか。 元の世界に帰りたいのではないだろうか。 これほどまでの切なさは他にない。 本当に泣きたくなるほどに。 どのように言われても構わない。 どのように裏切られても平気だ。 だが、花がいなくなることだけは、耐えられない。 花がいなくなれば、この先、温かな感情など抱くことが出来なくなるだろう。 冷たい権力者に成り下がることは、自分でも目で見えて分かる。 だから何処にも行かないで欲しい。 この腕から離れないで欲しい。 今までこれほどまでに誰かを求めた訳ではなかった。 孟徳は、花の透明感のある姿を見つめているだけで、苦しくなるのを感じた。 いつか透き通ってそのままいなくなってしまうのではないかと思う。 消えてなくなるなんて、そんなことは許さない。 許されない。 このまま腕の中で閉じ込めたい衝動に駆られる。 何処にも行かないで。 ずっとそばにいて。 孟徳はまるで懇願するかのように、花へとゆっくり近付いていった。 月を見つめていると、心が透明になる。 同じ月を見つめているだろう、生まれた時空にいる親しくも愛しい人達に、元気で幸せに暮らしていることを伝えられたら良い。 花は厳かなのに何処か優しい月の光に、そのような思いを込めていた。 ふと背後に、切ない迷子のような優しくも心許無い影を感じる。 花が振り返ろうとすると、逆に掴まえられてしまった。 「…捕まえた、花…」 「孟徳さん…!」 捕まえたという言葉通りに、花は思い切り抱きすくめられてしまった。 「…花、どうして寝台を抜け出したの…?」 何処か陰のある声で、孟徳は囁いてくる。 「…それは、月が余りに綺麗だったからですよ。今宵は満月ですから…」 花が柔らかく呟くと、孟徳がちらりと月を見る気配を感じた。 「俺の妻は詩人だね。今度、一緒に詩作をしようか?」 「教えて下さいますか?」 「勿論…」 孟徳は静かに言うと、花の首筋に唇を押し当てる。 「…ね…、正直に言ってくれ。元の世界が恋しくて、月をひとりで眺めていたの…?」 掠れ気味の孟徳の声には、切なさが漂っている。 そんなことはないのに。 「本当に美しかったからです。こちらの月は綺麗だなあって、思っていたんです」 花があっけらかんとした口調で言うと、耳朶に唇を感じる。 「本当に…?」 艶やかな声で低く呟かれて、花は甘く息を呑む。 こちらが窒息してしまいそうなぐらいに甘い声に、花は背中を震わせる。 「…本当…」 「…ね、君の世界に帰りたいだなんて…思っていないよね…?」 孟徳は躰を引き寄せて更に甘く苦しげな声で呟いてくる。 切羽詰まっているのではないかと思うほどの声に、花は切ない艶を感じた。 このままでは震えて立っていられないぐらいに、孟徳を感じている。 こんなにも愛されている。 だからこそ愛で応えてあげないといけない。 「…孟徳さん…、私の世界はここです…。ここ以外にはありえません…」 自分の想いを総て滲ませて呟く。 すると、孟徳は更に躰を抱き締めてくる。 「…花…。愛してるよ…。君がいなければ、俺は前に進めない。君が味方だって解っているから、必要に悪を演じられる。君がいつも温かく迎えてくれるのが解っているから、俺はどんな忙しくても我慢が出来るんだ…。君がいなければ何も出来ないただの男だ…」 孟徳の言葉のひとつ、ひとつが、愛の形になって、すとんと花の心に落ちてくる。 丞相として、国のためにやらなければならないことは山程ある。 それがたとえ民から批判されようとも、未来のことを考えてやらなければならないのだ。 それが解っているからこそ、花は自分だけでも信じたいと思う。 ずっと信じて、どんなことがあっても支えて、受け入れてあげたいと思う。 そうしてあげたい。 「…孟徳さん…、私はずっとあなたのそばにいます。ずっと一緒にいて、支えて支えられたらと思います。あなたを愛しているから、あなたの総てを受け入れて、一緒に頑張りたい」 「…花…」 孟徳は花の躰をくるりと回転させると、熱いまなざしを向けて来る。 「…愛しているよ、花…。君をどんなことがあっても裏切らない…、離さないから覚悟をしていて」 「…孟徳さん…」 孟徳の目がスッと甘く細められたかと思うと、そのままゆっくりと唇が近付いてくる。 花が瞳を閉じると、うっとりするような甘いキスが下りてきた。 甘いキスは深みを帯びて、花の心に咲く花に火をつける。 キスの後、孟徳は花を軽々と抱き上げた。 「花、もっと素晴らしい時間を過ごしに行こうか…?」 「…はい…」 花がにっこりと微笑むと、孟徳も甘く微笑みかけてくれる。 素晴らしい時間が始まる。
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