もう離せない。 どんなことがあっても。 どうすれば、この世界に踏みとどまってくれるのだろうか。 それが孟徳には分からない。 花のことになると、いつもの勘が狂ってしまうのだ。 これも愛故にだ。 花がいれば、それだけでどれほど幸せだろうか。 そばにいるだけで良い。 どうすれば引き止めることが出来るのだろうか。 どうすれば永遠に一緒にいられるのだろうか。 今まで様々な女と関わってきた。 だが、これほどまでに引き止めたいと思った女は他にはいないのだ。 孟徳は、花に逢うためだけに時間を作るため、猛烈に仕事をこなす。 本当は権力の亡者なんかじゃない。 そうだったらとうの昔に漢王朝など滅ぼしていた。 誰もが笑顔で暮らせる国にしたい。 ただそれだけなのだ。 闘いのない世界。 それは花も望んでいる世界だから、そうなれば自分のそばにいてくれるのだろうか。 孟徳は花への思慕が国造りに影響していると、認めざるをえなかった。 全く変わった娘だと思う。 今までの女なら、戦なんてどうでも良さそうだった。 それどころか、孟徳に力が手に入るのならば、戦を推奨するところすらあった。 なのに花は戦を認めない。 戦がなく、孟徳の政治的な力が弱くなったとしても構わないとすら思っている。 孟徳が幸せであれば。 死なずに生きてさえいられたら。 孟徳軍の誰もが、戦のない平和な世の中で幸せを見つけられるのならば、それだけで良い。 権力なんていらないと思っている。 それは、地位などで人を判断するのではなく、ただその人なりだけて判断しているからなのだろう。 全く恐れ入ると孟徳は思った。 こんな風に考えるのは花だけだ。 野心を煮えたぎらせる者には最も危険な考え方といっても良かった。 だが、花の思い描く世界というのは、花がいた世界というのは、本当の意味での楽園なのかもしれない。 争いのない世の中。 そんな世界を見た事がない孟徳にとっては、ある意味理想郷のように思えた。 だから見てみたいと思う。 花と一緒に。 花と一緒に素晴らしい世界を作っていくことが出来たら、こんなにも幸せなことはないだろう。 孟徳は仕事を終えて花のところへと向かった。 花と逢えるのが、今の一番乗り楽しみだ。 花と一緒にいるだけで楽しいのだ。 花の部屋の扉を叩く。 「花…いるかな? 孟徳だ」 「はい」 花の明るい声が聞こえて、孟徳はつい笑顔になる。 扉が開けられると、花がいつものように無邪気な笑顔で出迎えてくれた。 「こんにちは、孟徳さん」 「少し時間が出来たんだ。散歩にでも行かないか?」 「はい」 花はいつものように春の陽射しのような笑顔で頷くと、部屋から出て来てくれた。 いつもと同じ軍師の出で立ち。 こちらの装束に相応しいものを用意したというのに、花はなかなか身に着けてはくれないのだ。 「花、この間贈った着物は着ないのかい?」 「何だか勿体なくて…」 花は申し訳なさそうに笑うだけだ。 「世の中は君のお陰でかなり平和になりつつある。だから軍師殿も自分の時間を楽しんでも良いんじゃないかな?」 孟徳は花を甘い気持ちで見つめる。 花は微笑んだが、それは少し寂しそうな笑みだった。 解っている。 花は自分がすべきことが終わったと思っている。 間も無く帰ると言うだろう。 それだけはどうしても許せなかった。 「花、今日は力を抜いて散歩をしようか? だから戦闘の服ではなくて、俺が贈った着物を着て欲しい。侍女を呼ぶ」 花は驚いたように目を開いたが、直ぐに解ったと頷いてくれた。 「分りました」 「ああ。花ちゃん、楽しみにしているよ」 「はい」 直ぐに侍女がやってきて、花を連れて部屋に引っ込む。 もう花の世界と繋ぐ服を着ないで欲しい。 孟徳は甘く苦しい想いを抱きながら、花が着替えるのを待った。 孟徳はどうして急に着替えるように言ったのだろうか。 もう花がやるべきことはないことを悟らせるためなのだろうか。 それならば余りにも哀しい。 もう孟徳には必要のない人間になっているのだと思うだけで、花は苦しくてしょうがなかった。 「はい出来ましたよ。花殿は日に日に美しくなられますね。まるで恋をしているみたい」 「あ、あの…」 信頼する侍女に言われると、つい素の自分に戻ってしまう。 思わずうろたえているとくすりと笑われてしまった。 「さあ、お支度が出来ましたよ。丞相がお待ちですわよ」 「はい」 髪を手早く結い上げて貰って、綺麗にして貰った。 孟徳が綺麗だと思ってくれたら良い。 花が部屋から出ると、孟徳が笑顔で出迎えてくれた。 「花、よく似合っているよ」 孟徳に甘いまなざしでじっと見つめられると、花の全身がざわめく。 「有り難う」 「じゃあふたりで散歩をしようか」 孟徳は離さないと言わんばかりに強く手を握り締めてくる。 痛いぐらいに強いのに、力を緩めて欲しくないなんて、本当にどうかしていると、花は思う。 「ずっとこちらの着物を着ていたらどうかな? 確かに君は俺に仕官して貰っているけれど、四六時中闘っているわけではないし。だったら普段は女の子らしい格好で良いんじゃないかな。しっかりと仕官しているのは解っているからね」 孟徳は甘やかすような優しい笑みを浮かべてくれている。 いずれは帰る存在だから、甘やかせてくれているのだろうか。 こんな風に思っている以上は、甘やかされる資格なんてないというのに。 花は胸の奥がチクチク痛むのを感じた。 「花、ずっとこうしていよう。ふたりで散歩に出て気分転換をして、その分しっかりと仕事して…。君がいれば何でも出来そうな気がする」 孟徳が清々しい笑顔で話してくれる。 孟徳は本当に自分を欲してくれているのだろうか。 そればかりを考える。 孟徳に恋をする余りに、花は冷静な判断をすることが出来なくなっていた。 「花、本当に何時までもいてくれて良いんだ。君がそばにいるから、俺は理想の世界を作れるものだと思っている」 力強い孟徳の言葉を信じられたら良いのに。 花は複雑な気持ちを抱いて、目を伏せた。 花は最近、心からの笑顔を見せてはくれない。 それが孟徳には辛い。 花が以前のように明るい笑顔を見せてくれたら、こんなにも嬉しいことはないのに。 何処かへ行ってしまうような気がして、孟徳は堪らなかった。 そばにいて欲しい。 そう強く願う程に、花はかたくなになってゆくような気がして、孟徳には堪らないことだった。 「…花…」 名前を呼ぶと、花が切なくも甘い表情を浮かべてこちらを見る。 まだ、慕ってくれているのだろうか。 好きだと思ってくれているのだろうか。 花と一緒にいるといつもなら分かる感情の機微が分からなくなり、麻痺してしまう。 孟徳は堪らなくなり、思わず花を強く抱き締めた。 「…あ…」 花の甘い声に、背中が震える。 恋情が一気に吹き出してくるようだ。 「…花…。何処にも行かないで…。いつまでも俺のところに止まってくれたら良いんだ」 苦しい胸のうちを吐露するが、花は泣きそうな顔になるだけだった。 孟徳が欲してくれている。 それはとても嬉しい。 本当にそれを信じて良いのだろうか。 恋心が邪魔をして判断が上手く出来ない。 花は答えることも、拒むこともなく、ただじっとしている。 お互いの恋情が切なく燃え上がる。 恋の神様が優しく手を差し延べていることも知らずに。
|