鈍い青色でありながらも、春の空は清々しい。 昨日までは重い足取りだったひとたちが、はにかみながらも颯爽と歩き出す季節。 春はそんな時期だ。 春を象徴する、桜の花が咲き誇っている。 鈍色の光を通して輝く花は、切ないぐらいに美しい。 一瞬で咲いて、一気に散るからか、桜の花を見つめているだけで、胸がきゅんと締め付けられる。 まるで初恋のようだ。 昼間は透き通った桜色に見えるのに、夜は何故か白に見える。 それはまるで何かの喪に服しているとすら思えてしまう。 昼間の桜色は初々しい少女のようなのに、夜桜は艶やかな娼婦のように見える。 麗しき二面性。 夜と昼の顔が違うからこらこそ。惹かれてしまうのかもしれない。 桜がいよいよ盛りになり、子猫のくしゃみで散ってしまうのではないかと思うぐらいに、儚くも盛りの美しさを見せている。 儚い桜は、郁が一番似合っているのではないかと思う。 郁と花見の約束をした。 お花見デートなんてロマンティックだ。 しかも大好きな郁と一緒に見られるのだから、こんなに嬉しいことはない。 流石に、お弁当を作れる程、料理の腕は上がってはいない。 だから、お花見の場所で色々な物を買うことにしている。 これもまた楽しみなのだ。 月子は郁に相応しいスタイルにして、待ち合わせ場所へと向かった。 美しい桜の樹の下を待ち合わせをしている。 それだけでもうきうきしてしまう。 月子が待ち合わせ場所に到着すると、直ぐに郁の姿を見掛けた。 声を掛けようかと思ったが、その儚げで今にも消えてしまいそうな姿に、一瞬、言葉を失ってしまう。 胸が痛くなるぐらいに美しくて、手を伸ばして触れてしまったらそのまま消えてしまいそうなぐらいに透明な姿に、月子は言葉を失った。 その場に立ち尽くすしかない。 けれども抱き締めて捕まえてしまわなければ、郁が何処かに消えてしまうのではないかと思うぐらいに、零れてしまう存在のようにすら思った。 泣きたいぐらいに胸が痛い。 男のひとで、ここまで綺麗なひとは他にはいないのではないかと思うぐらいだ。 透き通る鈍色の春特有の光を浴びて、薄紅色にキラキラと輝く桜の花びらが、まるで郁を彩る雪のように深々と降っている。 雪のようで、まるで喝采と滅びを表すようで、堪らなくなった。 月子はただ郁を見つめることしか出来ない。 桜吹雪がこんなにも似合うひとがこの世界にいるなんて思ってもみないことだった。 郁がゆっくりとこちらを向く。 まるで映画のスローモーションのようだ。 余りに綺麗過ぎて、月子はまるでスクリーン越しに郁を見つめているような気持ちになった。 郁の瞳が月子を見つけた途端に、温かい陽射しと同じようにキラキラと輝く。 その美しさと瑞々しさに、心が奪われた。 「月子!」 郁は嬉しそうに笑顔を浮かべて月子に向かってやってくる。 幽玄さが脱ぎ捨てられて、明るい春が似合う雰囲気になった。 「郁!」 郁は近付いて来ると、月子の耳元に唇が届くように少し屈む。 「月子、僕に見とれていた?」 まるで毒のような甘さで囁かれて、月子は真っ赤になってしまう。 先ほどの儚さとは打って変わった雰囲気だ。 「……郁が綺麗だったから……」 月子は子どものようにポツリと呟く。 「綺麗って、君のほうがずっと綺麗だよ! だって、この綺麗で長い髪に彩る桜の花びらは、冠みたいだよ。僕のお姫様は、桜姫なのかもしれないね」 相変わらず歯の浮くような台詞だけれども、それが郁の素直な気持ちであることは解っているから、月子は素直に頷くことが出来た。 すると郁が月子に甘い笑みを浮かべてくれる。 その笑みが何処か儚げに見えてしまい、月子はいきなり郁を抱き締めてしまった。 「ちょっと、どうしたの? 君から抱き着いてくれるのは僕としてはとても嬉しいけれどね。ね、何かあったの?」 くすくすと笑い、子ども扱いをしながらも、郁は月子に優しく訊いてくれる。 「……郁が余りにも綺麗で……、このまま何処かに行ってしまうんじゃないかって、少し思ってしまって……」 恋をするが故の弱気を、月子は素直に郁にぶつける。 すると郁はフッと静かに笑って、月子を抱き締めてくれた。 「僕からは何処にも行かないよ? 君は解っているでしょ? 僕から離れていくことは決してないって」 ここが公衆の面前であったとしても、今はこうして郁の温もりも抱擁も、放したくはなかった。 「ほら、そんな切ない顔をしないの。キス……したくなっちゃう……」 郁は低くて甘い声で、月子にだけ聞こえるように囁いてくる。 背筋がゾクリとくるぐらいの甘さに、月子は思わず甘い吐息を宙に零した。 だが、ひとの視線を感じてしまって、月子は恥ずかしさの余りに俯くことしか出来なかった。 「……キスは良いです……」 「残念……。後でたっぷり味あわせて貰うよ」 くすりと浮かべられた郁の艶やかな笑みに、月子はこれ以上何も返すことが出来なかった。 「さ、折角来たんだからさ。桜の花を愛でに行こうか?」 「はい」 しっかりと手を結ぶと、郁は月子の手を引っ張って、桜色に染まったトンネルへと歩いていった。 桜色のトンネルは、歩いているだけで価値があると思うぐらいにロマンティックだった。 今年の花見は、とてもロマンスが溢れていて、月子は、うっとりとしてしまう。 きっと、大好きで堪らない郁がそばにいるからに違いないと、月子は思わずにはいられない。 ふたりで顔を見つめて、桜を見つめる。 本当にうっとりとしてしまうぐらいに幸せだ。 「郁とこうして桜を見ているだけで幸せな気分になります。何だか、ついうっとりとしてしまうの。ロマンティックだなあって」 「全くお姫様は、きっと砂糖菓子で出来ているんだろうね。確かに桜はとっても綺麗で、現実離れしているよね。お姫様は、星も花も好きだから、現実なのに、現実とは思えないぐらいにロマンがあることが好きなのかもしれないね」 郁に言われると図星で、月子は何も答えられなくなる。 「ロマンティックな現実が一番、素敵でしょう?」 「まあ、確かにね。ロマンティックな現実が素晴らしいことは、僕も否定はしないんだけれどね」 郁は不意に立ち止まると、月子を見た。 「ね、月子、もっとロマンティックな気分になろうか……?」 まるでふたりだけの秘密をコソコソと話すかのように郁は呟く。 何だか、イケナイ楽しさがそこに隠れているような気にすらなる。 甘くて素敵で少し刺激的な大人ロマンティックが、そこにはあるような気がした。 「月子、あの桜の樹、死角になると思わない?」 郁は楽しそうに言うと、視線で桜の樹を示した。 「……え……?」 甘いときめきに胸がドキドキしてしまって止まらなくなる。 「行こうか」 いきなり手をギュッと握られたかと思うと、しっかりと引っ張られて桜の下へと向かう。 月子は、ドキドキが最高潮に達するのを感じながらも、幸せな気分で桜の樹の下へと向かった。 桜の樹の下にふたりですっぽりと入ってしまうと、やはり死角になり、周りからは何も見えなくなった。 ふたりだけの世界にいるような気分になる。 郁は腰を屈めると、月子と同じ視線になってゆっくりと唇を重ねてくる。 ロマンティックな桜の下でのキス。 月子はまるで永遠の愛の誓いのようなキスだと思わずにはいられなかった。 |