お兄さんが君を迎えに来た朝のことを、僕は鮮明に覚えている。 あれは、桜が満開に咲き乱れた、とても美しい朝だったね。 あの日、君は、僕と相馬先生に小さな我が儘を言った。 「桜の丘の桜が見たいの…」 力無い声で、君は懇願するように言ったね。大きな瞳は潤んでいて、目が覚めるほど美しかった。 こんな綺麗な君には逆らえない…。僕も相馬先生も、頷くしかなかった。 君を車椅子に乗せて、ゆっくりと病院を出たのは明け方。 相馬先生は黙って僕たちを見送ってくれる。それが、君に対しての彼の愛情なのだと、僕はひしひしと感じていた。 桜の丘まで歩く途中には、まだ望月が見えていた。空気は春特有に張りつめていて、肌寒さが逆に心地が良い。 君はぼんやりと、明け方の空を見上げていたね。 激しい痛みを抑えるために相馬先生が投与したモルヒネが、君の意識を完全に奪っていた。そのせいで、君は何度も幻覚のような物を見ていて、いつも瞳はぼんやりとしていた。 この美しい桜を君はちゃんと見て、愛でることが出来ているんだろうか。儚いほどに美しい桜を…。 桜の丘に着き、車椅子から君を抱き上げて、木の下に運んでやる。随分と軽くなったのが、切なかった。 「未来…、綺麗だね。桜だよ…」 一瞬、君の瞳は、元気な頃と同じように澄んで輝いた。 「有り難う…蒼さん…」 ゆっくりと力のない声で言われると、僕は泣きそうになった。その言葉に愛情を感じて、いつしかぎゅっと抱きしめていた。 「僕も…見たかったから…」 「そう…よかった」 君は、桜の木の下に座ると、自然に話をする。きっと桜の木の力が、君を正気に戻してくれたのだろう。 それがまた哀しくて、僕は泣きそうになっていた。 けれど、君には涙を見せてはいけない。僕は、必死で堪えていた。 「久しぶりに感じた外の風は…、やっぱり…気持ちが良いわ…。桜の花びらがきらきらとして綺麗…」 「そうだね…」 僕は君の横顔だけを見ていた。桜を見つめる君は透明感を帯びていて、言葉で言い表せないほど綺麗だった。それがまた哀しい。 「…西行法師のね…」 「ん?」 「西行法師の…俳句で…、”願わくば…花の下にて春死なん…その如月の望月のころ…”って、俳句、好きなの…。死ぬんなら…、桜のもとで、満月の日に死にたいって…。本当に、私も今なら気持ちが理解出来るの…」 「…未来…っ!!」 僕は君の病状など構わずに、いつしか激しく抱きしめていた。腕の中の君は更に過細くなっていて、僕は切なくて嗚咽を漏らす。君には聞こえないように…。 「蒼さん…」 君は落ち着いた声で僕の名前を呼び、じっと見つめてくる。その瞳は何かを悟ったように、曇りが一片もなかった。 「私ね…、ここに捨てられてたの…」 「うん…」 「お兄ちゃんを看取ったのも…、ここだった…」 「うん…」 僕は感情が込み上げて嗚咽を止めるのに必死で、君に相槌を打って上げることしか出来ない。君のために強くありたいのに、なかなかそうはなれない自分が悔しい。 「…そして、今、蒼さんとここにいる…。今年の桜は…、蒼さんと観たかったの…」 君の瞳は本当に幸福そうに輝いていて、今日が人生最良の日だと思わせるほどだった。その瞳の輝きを、僕は永久に忘れないだろう…。 「…蒼さんに逢えて、一緒に時間を過ごせて…凄く幸せ…。いつまでも、あなたの傍にいるから…」 「僕だって君から離れない…!」 僕はいつにも増して君への想いを溢れさせ、激情の余り更に強く抱いた。哀しいほど君は痩せていて、苦しかった。 「…ずっと傍にいるわ…。この躰がなくなっても…、風になって、光になって、雨の滴になって、いつでもあなたの傍にいる…」 淡々と語る君の声は、段々細くなっていく。息をするのですらも苦しそうに話し、浅い呼吸を何度もしていた。 「どうやったら、君が、光になって僕の傍にいるのが判るんだ!? そんなの哀し過ぎるじゃないか…。君は君でいて、ずっと生きて、僕の傍にいればいい!」 君は君以外でしかあり得ないのに。僕はいつしか泣いていたのかも知れない。 「蒼さん…とても簡単なことよ…。あなたが心地よいと想う総てのもの、あなたが…大きな愛で包み込むものは、すべて私と想えばいいの…。私を思い出せば、いつでもあなたの心の中で蘇る…。光の中で、風の中で、私を思い出せば、私はそこに生きている。そして、いつかあなたが…、私を愛してくれたように…、誰かを愛する時が来るでしょう…。その時が、私の役割のおしまいの時…。その女性を、私以上に愛して上げてね…」 「君以上に誰かを愛する事なんて、僕には出来ない…!!」 君は哀しそうに笑うと、僕の涙で濡れる頬に指先を当てる。そこから愛が感じられる。君が確かに僕を愛してくれることを、感じられた。 「…私のオルゴール、ふたつ…、あるの。壊れたオルゴールは…、私と一緒に燃やして欲しいの…、音の出るオルゴールは…、あなたに持っていて欲しい…。聴く度に、私を思い出して…」 「…未来…」 君は総てを言い終えて安心したからか、ふっと躰から力を抜くように大きく息を吐く。視線が、明け方の空に向かう。 それが君の最後の願いであることは、僕は充分に判っていた。 「…判った」 「…蒼さんと出会えて…、凄く嬉しかった…。この世界が輝いて見えた…。色々、ごめんね…有り難う……」 君はその瞬間、僕に最高の微笑みをくれる。それが、最期だった。心シャッターを切り、僕は人生最高のショットを、一番美しい場所に閉じこめた。 君は安らかに目を閉じた。無心に瞳を閉じた姿は、どの姿よりも綺麗に思える。 「…未来、君を忘れないよ…」 君の白い頬に僕の涙が落ちる。君は本当に安らかだった。 優しく髪を撫でてやる。その髪は、もう君であって、君でないのに。 「お兄さんに逢ったんだね? 積もる話も色々あるだろう…。君が一生懸命頑張ったことを、話して上げると良いよ…」 僕は止めどなく溢れる涙を零さないように上を向いた。 星が明け方の空に流れ、それに合わせて冷たい風が丘に吹き荒れる。、桜の樹は激しく揺れ、満開の花びらを激しく散らせる。まさに、幻想的な桜吹雪が、僕たちの躰に降り注いだ。 桜の丘だけが、どこか時間の流れとは別の空間にあるような、そんな錯覚すらある。 僕は、冷たくなった君をしばらくの間抱きしめていた。そしてそのまま、ただじっと、朝日が完全に登り切るのを見つめていた。 朝の懸想が感じられた頃、僕は冷たくなった君を車椅子に乗せ、病院に向かった。病院までの道程は、とても長くて重い。僕は病院にどうやってたどり着いたのか、はっきりと覚えてはいない。 病院に戻ると、相馬先生が病室で待っていてくれた。彼はこのことを予測したように、ただじっと桜の丘を見つめていた。 振り返ると、彼はただ静かに言う。 「…立花さんをベッドに寝かせてあげて下さい」 僕は先生に言われた通りに君をベッドに寝かせ、先生の最後の診察を見守る。先生は涙ぐんでいたかも知れない。瞳にきらりと何かが光ったような気がしたから。 その間、僕は特に何も話すことはなく、ただ、吐き気のするような病室の白い空間で、君の白い顔を見つめていた。 * 君を見送る日は、雲ひとつない、清々しい気候だった。 僕は棺の中でオルゴールと共に寝かされた君に、最後の化粧を施す。 けれども、今、眠っているように深く目を閉じている君は、生前の化粧をした時よりも更に美しかった。 「メイクをしようか、未来…」 僕は無心で君に化粧を始めた。眉を整えて、シャドウを薄く塗って、唇には…。 「君は可愛らしいピンクの口紅が好きだったね」 僕は爽やかなコーラル・ピンクの口紅を選び、君の唇に塗っていく。みるみるうちに、とても顔色がよく見える。君は本当にうたた寝をしているだけなんじゃないかと、僕は何度も錯覚をした。 本当にそうだったら良いのに…。 「綺麗になったよ、未来…」 化粧が終わり、僕は君に声をかける。声が震えて、それ以上は何も言えなかった。 厳かに君の葬式は挙行された。誰もが、君への最後のお別れをする。 白い薔薇に囲まれて眠る君は、本当に綺麗だった。だけどまるで人形のようで、君を感じない。これはただの抜け殻で、そこに、君はいないのだから…。 「僕の心はずっと、君のものだ…」 天国の君に聞こえるように、僕はそっと耳元で囁いた。 出棺の時が来て、君の棺は、縁のある男たちで教会から担ぎ出した。 相馬先生、康平君、古賀弁護士、里見教授、そして僕…。それぞれの心には君への想いが溢れている。 幼なじみだった康平君が泣きじゃくっていたのが、とても印象的だった。 僕らは君を運んで焼き場に向かう。本当に灰になってしまうのか…。 棺を焼却炉に入れる瞬間を見守りながら、僕の胸は激しく軋んだ。 君が遺灰に変わるまで、僕は桜の丘を見つめている。 そこにいる男たちは、皆、君への想いに浸ってるように見える。 「望月君…」 古賀さんがゆっくりと僕に近付いてきた。君の弁護士だった男性。僕とは恋敵だったことを君は知らないかも知れないね。 古賀さんの表情はとても寂しそうでいて、どこか澄んでいる。 「逝ってしまったね…」 「そうですね…」 僕らは揃って澄んだ空を見上げる。君に相応しい澄んだ空を。 「…彼女は…」 「はい…」 「彼女は幸せだった。君に出会えて、愛の意味を知り、生きる意味を知った。そして、笑って逝った…。あの人生を、辛い短い人生を笑って逝ったのは、きっと君がいて幸せだったから…」 僕はそんな大層な人間じゃない。君を幸せに出来るほど、出来た人間じゃない。 「僕が言えるのは…、僕の方が彼女に幸せにして貰ったということです。たとえ、彼女とお互いを認め合った時間が僅かでも、僕は幸福だと言い切れます」 僕は素直に言うことが出来た。確かに僕は幸せだった。君がいたから幸せだった。その気持ちを感じたのか、古賀さんは僅かに切ない笑みを浮かべて頷く。 「…そうだね。私も彼女の笑顔には幸せにして貰ったよ。彼女は周りの人間を幸せにする不思議な魅力があった。けれど、きっと君を一番幸せにしたかっただろうね…」 古賀さんはふっと寂しそうに笑うと、再び空を見上げる。君を捜すように。 「望月君、人間の幸せなんて、生きた時間では計れないんだ…。確かに未来ちゃんは君を幸せにして、君の愛で彼女自身も幸せになって、幸福な気持ちで逝くことが出来たと、私は思うよ」 「…古賀さん…」 そっと煙草を口に銜えると、古賀さんは眩しそうに春の空を見つめる。 「春になると、きっと彼女を思い出さずにはいられないだろうね…」 ぽつりと言った、古賀さんの声は、本当に胸が締め付けられるような響きを持っていた。 古賀さんが、「ひとりになるよ」と行って、僕も再びひとりになった。 僕は一緒に連れてきたオルゴールを開いてみた。ネジを回すと、かなりノスタルジックなメロディーが流れてくる。 それを聴いていると、ふと隣りに君がいるような気がする。微笑みながら、膝を抱えて、そこの場所にちょこんと座っているような気がした。 オルゴールを開けば、いつでも君に会える。こうして君を思い出せば、いつでも君に会える。 君が僕に残してくれたメッセージを、僕はようやく自分の物にすることが出来た。 目を閉じて君を思い出せば、そこに確かに君がいる。姿形はなくなっても、君は僕の傍で永久に生きている。 焼き終えたと連絡を受けて、僕は焼き場に戻った。 焼却炉から出てきた君は、白い骨になっている。白くて少し苦い骨。それを男たちで拾い、僕たちは少しずつ、遺灰を小さな瓶にわけあった。 そこにいるのは君であって、もう君じゃない。 だけど哀しくない。 君にはいつでも会えるのだから。この心の一番美しい場所に、君は住んでいる。例え遠く離れていても、君のことを想えば、いつでも逢える。 僕は小さな瓶を君のオルゴールに詰めて持ち帰った。 僕は思う。”天国”と言うのは、決して空の上にあるのではなく、あるとすれば、それは人の心の中に存在するのだと。 君はそう教えてくれた。 思えば、僕は君に沢山の物を教わったね。人を愛すること。人に愛されること。生きる希望とその意味。そして、天国は決して遠いところにあるんじゃない。そう教えてくれた。 君は命をかけて僕を愛してくれた。僕も総てで君を愛したつもりだけれども、ねえ、未来、僕は君をちゃんと愛せた? * 僕は総てを終えて、自分の部屋に戻った。電気を付けてもいつもの冷たい部屋。 だが、君はそこにいる。僕の心の中にいる。そう思うと、心が少しは温かくなる。 君と過ごした僅かな時間は、僕にとっては最良の時間だった。 心の底から満ち足りた時間を過ごし、今でも時間の流れとは別に、あの日々だけが特別な場所で息づいている。 何度でも、総天然色並みの華やかさで、僕は想い出すことが出来る。失ってはいない。僕が思い出す限り、その華やかさは永遠の物となる。 僕は、ずっと君に隠したおいた、アトリエに入っていった。 夕陽がフランス窓越しに差し込んで眩しい。僕は目を眇めながら、奥に置いてあるマネキンに近付いた。 それには、半分ほど迄刺繍がされたウェディングドレスを着せてある。君に着せて上げたかった。これを着た君を僕は見たかった。間に合わなかったけれど。 僕はウェディングドレスをゆっくりと手に取り、その感触を優しく感じる。 目を閉じれば、君が笑っている姿が浮かぶよ。 『完成するのが楽しみだね』 君の優しい声が、そう言っているのが聞こえるような気がする。 「未来、ジューンブライドに間に合うように、頑張って完成させるよ」 僕はどこかで君が笑っているような気がした。 頑張れる。このウェディングドレスを完成することが出来れば、僕はデザイナーとしても、人間としても成長出来るような予感がした。 * ウェディングドレスは完成した。あれが出来た時の無邪気で切ない幸福は、もう二度と感じることは出来ないだろう。 僕はその日、桜の丘に登り、君に完成品を見せた。君が直ぐ隣にいて微笑んでくれるような、そんな気分だった。 それからの僕のことは、君も知っているだろう。あれからデザインが軌道に乗り、桜塚にも直営のブティックをオープンさせ、東京や、パリ、ニューヨークに出店し、ロンドンにも近く進出する予定だ。 だが、僕の原点はあくまでも、君と出会ったあの桜塚にある。君と僕が過ごしたあの部屋は、今は僕のアトリエになっている。 そして ウェディングドレスは、フランス窓のある場所で、今も大切にケースの中に飾られている。僕の原点と想いが総てそこに凝縮されている。 僕のデザインで特に評判がいいのは、君をモチーフにしている”桜天使”。君は今でも、僕の最高のモデルだよ。 僕は今日も桜の丘に登る。今は、桜が丁度美しい季節だ。 僕はひとりだった。 心地の良い春風に吹かれて、ただ君のことを想う。 ふと、誰かがそこにいるような気がした。 温かな春の光を纏う、大切な少女の気配。僕は思わず振り返った。 振り返れば、君がいるような気がしたから。 だけどそこには誰もいない。あるのは優しい春の日溜まりと、心地よい爽やかな風だけ。 僕はそこに君を見出して、ふっと微笑んだ。 「未来、桜を見に来たんだね。一緒に見ようか」 君は春の贈り物である美しい桜に魅入られて、ここにやってきたんだね。 僕は桜の樹の下に座ると、桜を愛でる。君と一緒に。 「未来今年の桜も、凄く綺麗だね」 きっと君は僕の横で笑っている。大好きな桜に囲まれて、無邪気な表情を浮かべて。 僕はふと君を想って目を閉じる。 耳元には、オルゴールの優しい調べが聞こえてきたような気がした。 「…愛してるよ…。未来…」 |
| コメント SCCで出した同人誌の再録です。 |