いつかの約束


 遠い昔に、たったひとつの大切な約束をしたはずなのに、僕は、上手く思い出せない…。


 僕は立派な医者になるために、わざわざアメリカの医科大学に進んだ。
 医者になる時に、僕は沢山の希望を持っていた。
 希望が満ちあふれる中、僕は、”ヒポクラテスの誓い”によって、倫理観を学び、その通りの医者になることを誓った。

I swear by Apollo the Physician, and Aesculapius, and Health, and All-heal, and all the gods and goddesses, that, according to my ability and judgment, I will keep this oath and this stipulation-to reckon him who taught me this art equally dear to me as my parents, to share my substance with him, and relieve his necessities if required; to look upon his offspring in the same footing as my own brothers, and to teach them this art, if they shall wish to learn it, without fee or stipulation; and that by precept, lecture, and every other mode of instruction, I will impart a knowledge of the art to my own sons, and those of my teachers, and to disciples bound by a stipulation and oath according to the law of medicine, but to none others. I will follow that system of regiment which, according to my ability and judgment, I consider for the benefit of my patients, and abstain from whatever is deleterious and mischievous. I will give no deadly medicine to anyone if asked, nor suggest any such counsel ; and in like manner I will not give to a woman a pessary to produce abortion. With purity and with holiness I will pass my life and practice my art. I will not cut persons laboring under the stone, but will leave this to be done by men who are practitioners of this work. Into whatever houses I enter, I will go into them for the benefit of the sick, and will abstain from every voluntary act of mischief and corruption of females or males, of freemen and slaves. Whatever, in connection with my professional practice, or not in connection with it, I see or hear, in the life of men, which ought not to be spoken of abroad, I will not divulge, as reckoning that all such should be kept secret. While I continue to keep this oath unviolated, may it be granted to me to enjoy life and the practice of the art, respected by all men, in all times ! But should I trespass and violate this oath, may the reverse be my lot!

『医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に私は誓う。私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい!』

 あの誓いを立てた日、僕は全身にアドレナリンが満ちあふれるのを感じ、感動していた。
 僕は日本で大学に通っていたので、そのまま4年間の医科大学に進むことを許された。
 3回の医師試験、当然のように36時間勤務を強いられる2年のインターンと更にそこからレジデントを2年。
 普通ならもっとかかるはずの期間を、僕は必死の努力で埋めた。
 そして、外科の専門医になった時は既に29歳だった。
 そこから半年間アメリカの病院で働き、僕は日本に戻った。
 医師免許を取り、医局員として働き始めて暫く立った時-----僕は立花兄妹に出逢った。
 内科の研修もアメリカで受けていた僕は、病院ではほとんど”何でも屋”扱いで、たまたま人の少ない日の急患には内科診療を当たる日すらあった。
 人不足-----これはアメリカでも日本でも同じだ。
 その時奇跡の巡り合わせのように、立花和希を診たのだ。
 だが、そのころには、僕はこの誓いをそらんじる勇気がなくなっていた。
 後ろめたくて、その言葉すらも噛みしめることがなくなっていた。
 あの頃は、医療現場の本当の厳しさも、辛さも、何も判っていなかった。
 僕は夢だけを食べて、医学の実習をしていたと言っても良い。
 だが、現実は違った。
 数々の手術をし、患者を診察し、助けられない絶望で消耗をして医療界を去っていく多くの医者がいることを初めて知った。
 そして、自分の理想論と巧みに身につけた医術だけでは、人間を助けられないことも知った。
 実際、現場ではいつも命が失われていて、やりきれないことが多かった。
 苦しんで、悩んで、どうしようもない時に、僕は、立花未来に出逢った。
 出逢った瞬間から、好きになった。
 明るく、屈託のない、素直な笑顔------何も知らない純粋さに僕は惹かれた。
 一目惚れというものがあるのならば、まさしくそれだと僕は思う。
 見つめるだけで、全身がそばだつようなそんな感覚は、生まれて初めての経験。
 いつも彼女と話していたかった。
 いつも彼女と見つめていたかった。
 それが恋だと気付くまでは、そう時間がかからなかった。
 その時は、僕は彼女の事情をよく知らなくて、両親の愛を一身に浴びて真っ直ぐ育ったように思っていた。
 眩しすぎて、彼女のいる光の中に僕はとけ込みたかった。
 彼女といれば、それだけで幸せな気分になれるような気がしたから…。
 だけど-----僕が診た時には、立花未来の兄は手遅れだった。
 未来を悲しませたくない-----僕はただそれだけで、必死になって彼を助ける方法を模索した。
 だが、どうしようもなかった。
 もう、どうあがいても手術も出来ない。
 僕が出した結論は余命三ヶ月。せいぜい出来ることと言えば、彼の痛みを極力抑えてやることぐらいだった。
 そして------
 僕はまた負け犬になった。
 結局、和希君は亡くなり、僕は未来を泣かせることになってしまった------
 天命だなんて言いたくはない。
 どうして、僕よりも年下の彼が、あんな病気にかからなければならないんだ。
 未来の涙が僕の心を覆う。
 一番見たくなかった、彼女の涙だった。
 更に運命は僕に追い打ちをかけた。
 未来と同じ字を書く、ただ読み方が”みく”という、同じ年の少女が僕の患者にいた。
 彼女もスキルス性の胃ガンだった。
 いつも笑顔の絶やさない子で、明るい娘だった。
 僕は未来と重ねて、彼女の面倒をよく見た。
 辛い治療を堪えていたにも関わらず、彼女は自殺をした------
 僕は気付かなかっただけで、本当に治療を辛く思い、治らないことにいらだちを感じていた。
 僕は何も出来なかった。
 みくも、未来も、僕は誰だって助けることは出来なかった。
 僕はもう判らなくなっていた。
 こんなに努力しても、報われない。
 努力すればするほど、患者を苦しめることになる。
 僕は医者として自信を無くしていた。
 人を救うとはどういう事か、判らなくなっていた。
 そして-----消耗して辞める医師たちの気持ちを、初めて理解することが出来た。
 そうだ。
 自信を持てない医者なんて、辞めた方がよい…。
 自信のないものが医者になる資格はない…。
 もう、僕は、”ヒポクラテスの誓い”をそらんじることは出来ない。
 そして、僕は外科医としてのメスを置いた-------
コメント

「2」相馬先生の短い連載です。
全5回ぐらいでしょうか。
未来と結ばれるまでのお話です。
またお楽しみ頂けると幸いです。




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