*まだ恋は始まらない*


 憧れが恋に変わるのはよくあること。
 長谷川響介は、美優にとっては「憧れの上司」だった。それ以上でも以下でもなかったのに、最近、その姿を見るだけで、心の奥にある透明な部分が甘く疼く。
 いつも見守ってくれていた。
 仕事には厳しいが、頑張っているときには、必ず的確な手を差し伸べてくれる----
 それが繰り返されるうちに、憧れが煮込まれて恋へと変わった。
 切れ長で涼しげな整った目、すっきりとした鼻梁、薄くて艶やかな唇----総てが精微なまでに整っている。
 あの唇に微笑が浮かんだだけで、心臓がおかしなぐらいに高まってしまう。それはまるで、小さな時に、ブラウン管のなかで大好きなアイドルの姿を見たときのように、初々しいときめきがあった。
 だからそれは憧れだ ----
 自分のような小娘など相手にはしないだろうと、自分に言い聞かせてきたのに。
 プロジェクトを任されるあたりから、よく助言を貰えるようになった。
 そこからヘンに意識をし始めて、今は、同じ空間にいるだけで、目眩がするくらいの甘い緊張を感じていた。
 だが、響介は大人の男性。
 自分よりもずっとスキルが高く、アドバンスな男性で、ハイヒールを履いて背伸びをしても、追いつきそうにない。
 せめて。せめて横にいても小娘だと思われないように。
 対等とまではいかなくても、背伸びはハイヒール分で済むように。
 前だけを向いて頑張るだけだ。
 意識をして貰えるように。
 少しでも近付いて貰えるように-----

 パソコンばかりを眺めていると肩が凝ってしょうがなくなる。気分もどんよりとして、躰共々段々重くなっていく。
 美優はそれに耐えきれずに、気分転換のために休憩室へと向かった。
 ここだと、自動販売機のカフェオレが、市販よりも安く買えるから嬉しい。
 それに----長谷川に会えるかも知れない。それだけを楽しみに、財布を片手に休憩室へと向かった。
 鍵馴れた煙草の香りはなくて、美優はがっかりしながら、自動販売機でカフェオレを買うと、ゆったりとソファに腰を下ろした。
 美優の後ろで、営業部で事務をしている女性ふたりがこそこそと噂話をしていた。
「---私さ、昨日、長谷川部長が、凄く大人っぽい美人と腕を組んで歩いているのを見たんだ〜」
 長谷川部長----その名前を聞くだけで耳が峙ち、心臓が激しく高鳴る。美優は何気ない振りをして、彼女たちの話に聞き入っていた。
「長谷川部長は、デキる男の代表じゃない? ホントコマーシャルみたいに、「ずっと部長について言って良いですか?」なんて、言いたくなっちゃうもんねえ。現実のああ言う良い男はさ、既に誰かの者って事が多いんだよね。長谷川部長もそれに違わずか…」
 彼女たちもきっと憧れていたのだろう。うっとりとと切なさの中間のような溜め息を吐いている。
「そうだよねえ。ああいう男性と私たちが恋をするなんて、それこそロマンス小説の世界だよ。長谷川部長は長谷川部長が生きている世界の女性を選ぶんだよ」
「だよね〜」
 話を聞きながら、美優は同意をしたくはなかった。キッと唇を噛みしめて、思わず握り拳を作る。
 長谷川に釣り合う女性になるなんて、高望みなのだろうか。
 そんなことを悶々と考えながら、美優は大きな溜め息を吐いた。
「どうしたんですか? 溜め息なんか吐いて?」
 落ち着いた甘いテノールに顔を上げると、煙草を片手に長谷川が立っていた。
「…長谷川さん…部長」
「はは、長谷川さんで良いですよ。春日君」
「は、はい」
 長谷川はゆったりとした包容力のある笑みを浮かべると、煙草をくゆらせる。
 煙草の匂いは好きじゃないのに、このひとのものは別格だと思う。煙草の香りを嗅ぐだけで、胸の奥が切ない疼きに包まれる。
 ちょっとしたセンチメンタル。
「最近頑張っていますね、君は」
「プロジェクトを任せていただいたんですから、頑張らないと」
「良いねえ、そのがんばり。うちの部署にも欲しいぐらいだ。この間、君を引き抜きたいって、君の所のリーダーに言ったら、怒られてしまったよ」
 長谷川はおかしそうに笑い、美優もつられて微笑んだ。
「素直にお言葉を受け取っておきますね」
「謙遜しないでください。私は本当にそう思っているんですから。君を営業部に引き抜きたいってね」
 ドキリとしながら長谷川の瞳を見つめると、あながちそれが嘘ではないことが解った。長谷川の瞳に宿る光は、獣のような鋭さがある。
 野性味のある男らしい瞳のきらめきに、美優のこころは落ち着きをなくす。
 喉の奥までがからからになり、妙な気分になった。
 意識しすぎてしまう。
 長谷川の瞳も、そして直ぐ傍にある大腿部辺りの筋肉も…。
 ドキドキしすぎて、躰中が熱くなってしまう。
 ちらりと長谷川の横顔を見る。
 本当に整った顔立ちと精悍さが滲んでいる。しかし、笑うと少年のように見える。
 余りに見つめていたからか、長谷川がちらりと美優を見つめた。
「どうかしましたか?」
「あ、いいえ、なんでも」
 これ以上は見つめ合うことが出来なくて、美優は思わず視線を逸らした。
 不意に、先程女子社員が話していた内容を思い出す。
 長谷川には恋人がいるのだ。それに相応しい大人の女性が。自分で確認したことはないが、きっととても美しいだろう。
 また胸が痛くなった。
「それじゃあ私はそろそろ行きます。君も仕事頑張って下さい」
「はい、それじゃあ」
 長谷川が颯爽と歩いていく背中を見送りながら、美優は胸に詰まった空気を総て吐き出すように溜め息を吐いた。
 いつになったら、あの背中に追いつけるのだろうか-----


 仕事にめどが付き、美優はようやく会社を出ることが出来た。
 営業部の前を通ると、もう長谷川の影はない。
 まだ外回りでいるか、それとも…。
 また、昼間の噂話が頭のなかにぐるぐる回る。
 女性とデートをしているのではないだろうか。
 長谷川は自分の恋人ではないのに、どうして心臓が締め付けられるほどに痛いのだろうか。どうして喪失したような切なさを感じるのだろうか。
 美優は泣きそうな自分の心を抱きしめるように苦笑すると、駅までゆっくりと歩いていく。
 今日は疲れたから、家にある常備菜で軽く夕食を済ませてしまおう。
 駅の近くまで歩いたところで、こころを甘く切なくさせる煙草の香りが鼻孔を擽った。
「…長谷川さん…?」
 美優の少し前を長谷川が歩いている。
 その横には、妖艶な雰囲気の美女が腕を絡めて歩いていた----
 こころが凍り付く。
 呼吸することすらも忘れてしまったかもしれない。
 ただ時間が止まったように、その場所に立ちつくしていた----





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