*視線の先に*


 恋なんてばかげているし、第一、そんなものに割く時間なんて、俺にはない。
 男特有の欲望が溜まれば、遺恨を残さない割り切った相手と、つかの間の時間を楽しめばいい。
 最後にいつ恋をしたのは、思い出せないぐらいに昔の話。
 あんなに消耗するものはない。
 熱病のように一気に燃え上がり、躰も心も疲弊する、非効率なものはない-----
 そう思ってきた。いや、言い聞かせてきたのかも知れない。
 そんなものに熱を上げている間に、俺がやるべき事は山ほどあると-----
 それはきっと、心の奥でいつもリフレインする冷徹な言葉があるからかもしれない。
『響介、あなたは恋人としては最高だけれども、結婚には向かない男よ。きっと仕事ばかりで、家族を顧みない。きっと私のことも。だから、さよならよ。私ももう、何時までもぐずぐずしていられる年ではないのよ…』
 あれ以上の別離の言葉なんて、なかった。
 俺のこころはあれ以来、「恋をする」という、スキルを忘れてしまった。
 俺には恋なんかいらない。愛なんていらない。
 そんなものにかまけている場合など、今の俺にはない。
 なのに、最近、こころの奥が妙に甘く燻ってくる。
 無意識の領域で誰かを視線で追うなんて事はなかったのに、今、俺は、ひとりの女を気付いたらいつも探している。
 ひとりの女-----そうは言っても、まだまだ俺から見れば”少女”の部類に属する瑞々しい女性。
 他部署にも拘わらず、目をかけずにはいられない。
 少しでも彼女の力になりたい。そう思わせる不思議な魅力を持った娘----春日美優。
 思えば出逢いも俺の人生にはないぐらいのドラマティックさだった。エレベーター事故で出逢い、その後も何度か彼女とは偶然が引き合わせてくれた。
 それから月日が流れて、まさか、うちの会社に就職をしているなんて思ってもみなかった。
 それからずっと、俺は彼女の活躍を陰から見守っている。
 妹に似た真っ直ぐな女。最初は、妹を見守るような気持ちだったかも知れない。
 なのに、いつからだろうか。
 初夏の陽射しよりも輝く瞳を追いたくなったのは。
 いつからだろうか。
 その傍らに彼女を置きたいと思ったのは-----


 目覚ましが鳴り、俺は即座に起き出した。
 ここ数年、ゆっくりと安らいで眠った記憶なんてない。たとえ、今のように傍に女がいたとしても。
 俺は女の顔を見ることもなくベッドから起きあがると、手早くシャワーを浴びて、情事の痕を消し去る。
 最近、それが念入りになっている自分に気付かされる。
 それに----以前比べて、女と過ごす夜が少なくなっている。
 原因はわかっている。ある種の罪悪感だ。その根本的なものも解っている。
 なのに----俺はそれに気付かないふりをしている。
 シャワーを浴びて、素早くスーツに着替え、髪を整える。
 プライベートではわりと髪をカジュアルにしている。そこから髪をビジネス仕様に立ち上げるのも、俺の大切な戦闘準備だ。
 俺は煙草を唇に押し込め、儀式のように火を点けた。
 これで頭がスッキリする。
 もう今日の闘いは始まっている。
 煙草を吸いながら、まだ眠る女にちらりと一瞥を投げる。
 誰かなんてもう思い出せないぐらいに、感情的には希薄な相手だ。
 俺は煙草を吸い終わると、素早く立ち上がった。
「----もう、行くの?」
「ああ。仕事だ」
「そう、じゃあね」
「ああ」
 語られる会話もさらりとしたもの。さらりとした深くない関係が今の俺には似合いだ。
 そう思っているのに-----
 どうして視線であの子を追ってしまうのだろうか----
 俺は、自分のウエットな思いを打ち払うように背筋を伸ばすと、客室から出た。
 腕時計を見れば6時30分。
 朝食は、適当に何処かのカフェで取れば良い。
 ホテルを出ると、ようやく空が白んできた。
 秋の日の長さは加速して短くなる。
 俺は朝の気怠い空気を吸い上げると、俺は朝陽に向かって歩き出す。
 秋の穢れない昊と、優しい陽の光に、また春日美優を思い出していた。


 相羽直樹は俺が今、手塩にかけて育てている部下だ。
 相羽は、イベント企画室の前に通りかかると、いつも視線が泳ぐ。
 探しているのだ----春日美優を。
 そして俺も何時しか相羽と同じように春日美優を追っていた。
 最近は日課のように、彼女がどこにいるかを探してしまう。
 俺たちと一緒にいた相羽の同期が、イベント企画室を見るなり、がっかりと溜め息を吐いた。
 その溜め息の意味は、俺にも相羽にも身を染みて解る。
「春日さん、席外しか。残念だなあ。ここの前に通って、春日さんを見るのが楽しみなのにな」
 きっとそれは、ここにいる大の男が揃いも揃って、同じ事を思っているだろう。
「なあ、相羽、お前、春日さんと大学同じなんだろ? たまには、コンパでも設定してくれよ」
「出来るか、そんなこと」
「最近、春日さん、本当に綺麗になったから、誰かに恋をしているんじゃないかって、気が気じゃないよ」
 俺は心臓がキリリと痛むほどにドキリとした。
 こんな痛みは、本当に久方ぶりだ。呼吸困難になるように、胸が締め付けられる痛みは。
 春日美優は、このところ本当に美しくなった。仕事で消耗しているのか、いささか痩せすぎの感はあるが、それがまた透明感を生んで綺麗だった。
「誰だろうな、春日さんが恋をする癪なヤツって」
 本当に。そんなヤツがもし私の目の前に現れれば、きっとぶっ飛ばしてしまうような感情を抱くだろう。
 この俺が嫉妬?
 全く苛々する。
 俺は思わず、相羽たちを睨み付けた。
「無駄話は後だ。急ぐぞ」
「あ、はい、すみません」
 クールを装ったつもりなのに、俺としたことが八つ当たりに近い感情を言葉に乗せてしまった。
 俺は自分自身に舌打ちをしながら、足早に仕事へと向かった----


 春日美優とよく出逢ったカフェは、俺たちふたりだけの『隠れ家』のようだと思っている。誰にも教えない、俺たちだけの秘密な場所だ。
 全くばかげている。
 これじゃあ、初めて恋を知って感情のコントロールが出来ないガキみたいじゃないか。
 俺は苦笑しながら、ウィンドウの向こうに美優の姿を探した。
 一瞬、心臓が、今世紀最大の発見でもしたかのように跳ね上がる。
 春日美優が、雑誌を片手に、ランチをしているのが見えた。
 彼女らしい、野菜がたっぷり名ミネストローネと、ベーグルサンド、デザートはヨーグルトのメニュー。
 俺は、視線の先にある、美しききらめきに近付くように、カフェの中へと足を踏み入れた。
 春日美優を見つめるだけで、全身が熱くてどうしようもなくなる。血液が沸騰して、全身に駆けめぐっていく。
 これじゃあ、盛りのついた中学生以下だ。
 首筋から鎖骨にかけてのラインがとても艶やかで、俺はいつもあの部分に唇を押しつけた衝動に駆られる。
 本当は、あの白い肌を独り占めして、俺の所有の証を刻みつけたいとすら思っている。
 久しぶりに心から抱きたいと思った女だ。
 ガキみたいに昨日は君を抱いた夢を見て、冷や汗が出た始末だ。そのうえ、ちゃんと感じていたんだから、全く始末に負えない。
 夢にまで誰かを抱きたいなんて思ったことはない。
 君は知らないだろう? 俺の感情なんて。
 俺はゆっくりと近付いた。
「春日君」
「あ、長谷川さん」
 いつものように包容力のある上司の仮面を被って、俺は春日美優に近付く。
 いつものように春日美優は、まるで向日葵のような笑顔で俺を迎え入れてくれる。こころから歓迎してくれているようだ。
「お昼ですか、春日君。ご一緒して良いですか?」
「はい、もちろんです!」
 明るく柔らかな声は、こころにも耳にもとても心地がよい。肌触りの良い絹のようだ。
 滑らかで白い肌や、愛らしい顔立ちにあっている。
 美優は無防備に俺を見つめて、全幅の信頼を寄せるような目で見てきた。
 美優、俺は君が信頼を寄せるほど良い上司じゃないんだ。
 いつも視線の向こうに欲望を秘めている。
 美優、俺は紳士でも何でもない。君を抱きたいと思う、ただの男なんだよ? そんなに無防備にならないでくれ。
 俺は今日も視線の向こうで、欲望にまみれながら君を見ている。
 その視線に君が気付くのは何時だろうか?
 俺はまた、優しい上司の仮面を被ったオオカミになって、君に近付く----





Top